「あの子たちに会いにはいかないのかい?」
 この世界に居座る最終日、俺の目の前に管理人さんが現れた。
 手持ち無沙汰でやることが思い浮かばなかった俺は、何の意味も、必要もないと分かっていながらも、本棚の整理をしていた。
「卒業生がわざわざ会いに行くのもどうかと思いましてね」
「おや、ちょっと嫌味が混じってる?」
「貴方の言葉は遠回しすぎる。率直に言ってくれればよかったのに」
「はは、だって君は記憶が無いのに、ここで楽しそうにしてたから。率直な言葉は無粋かと思ってね」
 お茶でも出そうかと、抱えていた本をテーブルの上に置けば、お茶はいらないよと前もって言われてしまった。
「それで、あの子達には会わないのかい? 最近会ってないんだろう」
 彼の言うあの子達、とは、杏哉くんたちのことだろう。今日で最後だから、会わないのかと、彼は単純に疑問気に聞いて来た。しかし、俺の行動も筒抜けだ。最近彼が来ていなかったことも知っている。
 いや、管理人だからこそ、逆に知っていたのかもしれない。生者がこの世界に来るのは普通ではないはずだろうから。ちゃんと見張っていたのかもしれないな。
 小さく笑い声を零しながら、頭の裏を掻く。
「今頃、墓に俺が入れられるんだと思うんですよ。自分が墓に入るの、見たくないし。それを見届けて、居座る度胸も無いですよ」
 自虐的な笑みを浮かべれば、彼はそんな俺とは対照的に、いつものように微笑んだ。
「それは確かに」
 彼は書庫の中をうろうろと動き回っているようだ。足音と声が、毎度毎度違う箇所から聞こえる。
「今までの人は大体ね、時間が足りないとか大慌てで最終日を迎えていたよ」
「確かに、そうかもしれませんね」
「けれど君は全然慌てないからさ。もう、会えなくなるのに」
 最後の言葉を聞いて、己の動きが全て止まったような気がする。
 そんな俺の様子を、彼は察していたのだろう。こつこつと靴の音を鳴らしながら、俺の元までやってきた。
「他の皆さんは、記憶があったんですか?」
「そうだね。大体の人は、現世のことを覚えていた。君、そんなに現世が……あの子達が嫌いだったの?」
「そんなわけっ……!」
「じゃあ、会いに行かないのかい?」
 また同じことを問われる。
 小さく息を飲む。最初に問われたときよりも、空気を吸える量が減った気がした。
「……俺は、もう、死人です」
 伏せていた顔を上げて、管理人さんの方へ顔を向ける。少し垂れ気味の目尻で、俺を真っ直ぐと見る瞳は、俺の動きを、考えを、じっと見張っているようにも見えた。テストを受ける学生を、じっと見張る先生の視線を思い出した。
「会って、彼等にどうすれば良いのか、急に分からなくなっちゃったんです」
 正直に、ぽつりぽつりと呟けば、じわりと目頭が熱くなってきた気がした。
 込み上げてくるものを我慢するように、唇を噛んで、唇が眼のふちの境界線と同化しているように堪えて。
 あの子達との思い出も、これからやりたいことも、沢山あった。
 去年は紅葉を満喫したから、今年は花見でぞんぶんに楽しみたかった。今年は雪が積もったから、雪かき作業と並行して一緒に雪で遊ぶのが楽しかった。
 全部、思い出してしまった。思い出さなければ、俺は、最後の数十日の楽しかった思い出だけで、満足に全てを終えられていたはずなのに。
 思い出してしまえば、悔いが浮かんできてしまう。
「アンタ等の所為だ!」
 これで最後だと思うと、心に封じ込めてきたものを全てさらけ出したくてたまらない。
 俺はばかだ。思い出さなくても支障はないと言われていたのに、自分で記憶を思い出したいと言っていたくせに。苦しんだ理由を、他人に擦り付けている。
 本当にばかだ。最低だ。
 プツリと切れた唇から、じわりと鉄の味が口内に染み込んでくる気がするせいで、じんわりと痛みの様なものを感じてしまう。
 生きて、沢山の事を見て、楽しんで。幸福だから、もっと生きていたいとも思う。しかし、全く同じ理由で、いつこの生を終わっても悔いがないような気もする。
 なのに、いざ生を終えると、案外、あれもやればこれもやればよかったと、記憶とともに蘇って来て。
 満足していたのに。世界が終わるといわれても、とくにやりたいことは無かったはずなのに。今の俺はどうだ。世界が終わる目前となって、悔いが思い出されてしまった。
 どうしてくれるんだと。胸元を握りしめながら、残り少ない時間で何が出来るんだと訴える。

「会いたいんだ?」
 俺の方を指さしながら、管理人さんは笑みを浮かべながら言う。
 俺との温度差、突拍子な言葉に、ポカンとした間の抜けた表情をしてしまう。
「けれど、自分に素直になるのに時間をかけ過ぎだよ。今どきの子は皆こうなのかな」
「まあ、この子は変に捻くれてはいますよ」
 第三者の声に思わず振り向けば、弥生さんが笑みを浮かべながら俺の方へ向かって歩いて来た。
 ずんずんと進んでくるから、俺はとっさに動くことも出来ないで慌てふためいていれば、彼は俺の許可も得ないで、手首を掴んで強引に引っ張る。
「兄弟そろって、素直じゃないよな」
 彼は笑みを浮かべたまま、庭の方へ向かって進む。そして、初めて会った時に手にしていた杖を、どこからか取り出した。
 久しぶりに見たな、と思えば、彼は自身に杖を馴染ませるようにくるくると回してから、コォンと音を響かせ、地面を突いた。土の地面なのに、まるで大理石に固いものが追突したような音がした。
 はじめてのときも、こんな音がしたな。
 この音は、彼の特別な力を示す存在なのかもしれない。
 突かれた先から、水の波紋のような物がどんどんと広がっていく。
 ふっと、鼻に甘く、しかしどこか優美さを含んだ匂いが掠める。次いで、これから日の陽気を吸収するようなそよ風がびゅう、と頬を凪いだ。
 彼が俺を境界に連れてきた時に、時間を巻き戻したのではないかと、錯覚してしまった。
 春の花独特の、服に染み込むような甘い香りに覆われ、しかしそれでも清廉な凛とした空気のある不思議な空間、そんな場所に俺はいた。
 境界で暮らしていた家と、変わらない景色。
 弥生さんが失敗でもしたのだろうか。そう考えると同時に、ふわり、と温かな風が舞った。かと思うと、管理人さんと弥生さんとは別の人影が見えた。
 あの子達は杏の木の元に立っていた。
 俺は、彼等の背中を見る位置に立っている。
 そうだ、ここは、俺の家だ。現世の、俺の家。周りを見渡せば、境界と同じようで少し違う、季節を教えてくれるような草花がぽつりぽつりと咲いていた。
 その中で境界と同じ様に見事に咲き誇っているのは、杏の花だ。
「現世と無理矢理繋げたんだ」
「そんな事も出来るんだね」
 周りを見渡して驚いていれば、弥生さんが自慢げに胸を張る。
「ただ、こっちから向こうに、もう干渉は出来ないよ。お前が駄々をこねたから」
「……充分だよ」
 つまり、もう少し早かったら、最後に彼等と会話くらいは出来たという事だ。全く、人間、素直じゃないと損をする。
「そうしたら、俺達と一緒に、終わりにするんだよ」
「分かった」
 けれど、自己満足、自己中と怒られても、もう、俺には関係ない。
 一歩、二歩、と歩みを進めて、花を見上げている二人の数歩後ろで足を止める。

「俺、お前に言いたいことはあったんだ」
 小さく拳を握って、呼吸を整えて。
 俺の声を聞いても、二人は振り向かない。
「けど、これを言ったら、もう、二人と会えないような気がして、ずっと口に出来なかった」
 ならば、もう告げなくてもいいのではないか、と挫けそうになる自分を叱咤して、震えそうになる唇をこじ開ける。
「ごめんなあ、二人共」
 短い謝罪の言葉が二人の間を通り抜けて、風と共に杏の花びらを攫って空へと舞う。
 謝るのは怖い、と思ったのはいつの事だっただろうか。
 兄弟として共に過ごした幼い頃は、兄弟喧嘩は日常茶飯事で、罵ったり謝ったりは挨拶よりも軽いくらいだった。それが学校と言う組織に放り込まれて、謝罪が挨拶代わりにもなる軽い言葉であると同時に、謝罪に必ずしも許しが帰ってくるわけではないことも、それが原因で壊れてしまう関係があることも知った。
「……杏哉、苺音ちゃん、怒ってるんだろう? 君達、イジケたら俺が呼んでも振り向かなかったもんなあ」
「……知唐、あし、が」
 弥生さんの言葉を聞いて、自身の足元を確認する。
 まさしく幽霊です、と言わんばかりに透けてきていた。それが、最後の最後に俺と言う存在がどういう立場か教えてくれているような気分がして、ふへ、と間の抜けた声を零しながら笑みを浮かべた。
 一歩、一歩と背を向けている弟の元へ向かう。
「分かったんだ。何で君達と会えていたのか。勿論、俺達が死に近かったのもあるだろうけれど、俺が、知らないうちに君達を呼んでしまったんだよね」
「……」
「苺音ちゃんと一緒に遊びに行くっていう、予定を目の前にして、勝手に死んで予定もパー」
 ひゅう、と風が吹く。俺の隣には、いつの間にか弥生さんが立って、俺の手を握っていた。
「杏哉、怒ってたんだよな。……そうだよな」
「知唐……」
「……杏哉、こっち向いてくれよ」
 今更遅いんだよ。そう言われて、殴られるのかもしれない。
 俺はいつだって、素直になるのが遅い。その所為で、こうして未練を残して死んだのだ。
 何度も、弟の名前を呼ぶ。記憶が無かった時に呼べなかった、馴染みのある呼び方で、何度も、何度も。涙ぐんできて、上手く名前が呼べない。
 ぐず、と鼻をすすりながら呼んだ声は聞くにも堪えなかったかもしれない。
 それでも、消えちゃう前に、君に……。
 脳裏に浮かぶのは、生前の、同じ立場だった時の彼と、抱きかかえられていた姪の、揃った可愛らしい笑顔だった。
 そんな笑顔が見れなくて、涙が自然と流れて、唇を噛みしめて、小さく息を飲む。

「二人の歩む道が幸せに満ちた、祝福されたものになりますように」
 ふわり、とこの場に居る全員を包み込むようにして風が舞う。
「杏哉、苺音ちゃん……ごめんね。だいすきだよ。ばいばい」

 それだけ言うと、パツン、とテレビの電源を切れられたように、目の前から二人の姿が消えた。
 現世から、弾き出されてしまったのだろうということを、もう彼等とは世界が違うのだと、ありありと叩きつけられた気分がした。
「……もう大丈夫か?」
「ああ、もう、大丈夫」
 隣に居た弥生さんに問われて、ゆるりと笑みを浮かべる。
 彼もつられて優しい笑みを返して、俺の手を取って引っ張り、そのまま歩き出す。
「どこへ行くの?」
「バス停へ」
「その後は?」
「あの世」
 ああ、案内人として、彼は連れて行ってくれるのだ。本当に優しい人だな。
 腕を引かれて、少しだけ駆け足気味にバス停へ向かう最中、杏の木の方へ思わず振り向く。
 優しくて穏やかで柔らかい、蕩ける様な笑顔を見せてくれた二人。姿は見えないけれど、向こうではまだ居るのだろうな。そう思うだけで、自然と柔らかい笑みがこぼれた。
 二人に出会えて、本当に良かった。


「……兄さん?」
 振り向いた際に聞こえるのはただの風の音。彼はただ、何度も、兄さんと虚空に声を掛け続けるだけだ。
 さらさら、と杏の花びらが舞い上がる様にして散った。

 *

 ゆらり、ゆらり、と身体が左右に揺れる。赤子が親にあやされて眠るような心地よさに、瞼が閉じてしまいそうだ。
 ああきっと、ゆっくりと遠野知唐の幕が閉じられていくのだろうな。
 杏哉、苺音ちゃん。俺はね、君達に謝りたかったし、自分達を大切にしてほしかったんだ。だから、まだここに居たんだよ。
 二人共、頑張って生きるんだよ。
 生きていてくれたらそれでいい。そんな願い事が、何より難しいことを、俺は知っている。
 でも、俺は君達に生きていてほしい。我儘だとでも、何とでも言ってくれ。怒ってくれて良い。それで許されるのなら、いくらでも。
 死んでから気づいたよ。案外世界って、目を配ると味方がいるんだ。きっと、君達の味方になってくれるのが現れる。

 死んだら終わりなんだ。それは誰よりも俺が知ってる。
 生きている“今”を楽しんでほしい。
 そうしたら、いつのまにか大切なものが増えて行って、手放すのが惜しくなるだろう。
 頑張りたくないのに頑張れだとか、死にたいのに生きろだとか、人は自己満足に他人の心を傷つけてしまうけれど。
 誰かに健やかであってほしかったように、君の望みを否定してでも、生きていてほしいんだ。
 自分では何故? と思っても、横に居る人は生きていてほしいと願ってしまう。横にいた人も、実は何故? と思ってるかもしれない。互いに自分を棚に上げているだろうけれど、大切な人には生きていてほしいと願ってしまうんだよ。
 色々な人と改めて向き合って、出逢って繋がって。同じ場所で、同じ時間で、共に過ごして。そんな平和で当たり前な日常を過ごしていたら、心の糸が解けていくみたいに、いつのまにか、いつのまにか、笑い合っている君達を、見られる日がやって来るんだろう。
 優しくて穏やかで素敵な君達と、少しでも一緒に過ごすことが出来た。それだけでどんなに幸せか、君達に伝わるだろうか。
 せめて願わせてほしい。

 幸せになってほしい。
 
 好きな人や物に囲まれてさ、新しい歳を迎えたりするんだ。
 何も心配しないで良いよ。心を、気持ちをさらけ出して。この世界には個性あふれる人が沢山居る。君達の事を待っている。色々な所へお出かけしてみたりして。
 この世界は、思ったより君達の味方なんだって、やっぱり分かってほしいから。

 生きて、生きてよ。俺も、正直、生きたかったんだ。
 君達と色々なところを遊びに行きたかった。優しくしたかった。話をしたかった。まだまだしたいことたくさんあるんだ。
 だから、二人共。

 またね。