ここ最近、酷い頭痛に悩まされている。
 元々片頭痛持ちで、雨の日など、気圧が変化する時には締め付けられるような痛みを伴う体質ではあるものの、最近の頭痛は無視できないものになっていた。
 薬を飲んでも、休息を得ようとも、それは変わらず、ただ割れるように痛かった。
 ああ、死ぬのかもしれない。
 安易にそう思った。

 公務員は楽でいいね。たまにそんな言葉を頂いてしまう時がある。その言葉を貰ったときは、あはは……と苦笑いを浮かべて誤魔化した。その人のイメージでは、公務員は残業なしで仕事内容も簡単なものだと思っていたのかもしれない。確かに、俺は貴方のように精密な作業をするための機械をいじることは出来ないけれどもね。
 ずずっ、とブラックの缶コーヒーを飲みながら、目の前のパソコンと俺は真剣勝負を繰り広げていた。ダカダカダカ、とキーボードを打つ音が響いている気がする。この仕事になってから、俺はブルーライトカットの眼鏡を買った。そのメガネを軽く外して、目頭を指で押さえる。
 楽な仕事なんて、そうそうあるわけねえだろうがクソっ。
 俺は周りに誰も居ないことを良い事に思いっ切り力強い舌打ちをした。
 ああ、頭が痛い。
 社会人になると一気に日々の過ぎるスピードがあっという間すぎて笑う。
 省エネを促しているポスターを横目に、自分の席付近の電気だけがついて、パソコンと向き合っている。暗い部屋の一か所だけ着いている電気。その中央に居る俺は、何だかスポットライトの中にいるみたいだ。
 新年度へ向かうこの時期は、どんな会社でも多忙期だろう。俺が務める役所も、例に漏れない。
 役所は、約3年付近で部署が変更になる。俺の後輩も、来月は別の部署へ移動となる。その手伝いに追われる日々だ。
 そうした忙しい時期に差し掛かる先月、親戚のおばあさんが亡くなった。詳しく言えば、祖父の姉、つまるところ大叔母だ。3親等には含まれないので、普通に有休を使って休みを貰った。休んだ当日は、来客が多くて多忙だったと聞いている。その分、俺に仕事が少々回ってきた、というところだ。
「クリーニング……明日、取りに行かないとだな」
 誰も居ないことをいいことに、ぼそりと小さく呟いた。喪服、クリーニングに出して、全然引き取りに行っていなかった。申し訳ない。
 少し遠い目をしながら、画面と向き合う。

 最初は、司書になりたいと思ったのだ。
 だが、図書館司書の正社員の門の狭きこと。倍率を確認して、俺は直ぐに匙を投げた。少しだけ本を読むのが好き、本に囲まれているのが好き、という理由だけでは、簡単にはなれないのだ。
 それでも、地方公務員という職の倍率も高い。大学時代は勉学に励み、個性をアピールできるようにボランティア活動も行った。面接では、噛んだりアホな返答もしてしまって試験官に何回か笑われたけれど、こうして受かっているのだから、俺は中々に運が良い。
 23歳から市中の役所で務めて、1回部署移動して、2回目である今は広い市内の外れにある事務所で日々働いている。
 どこでも、沢山の人が頑張っていて、働いたり学んだりして生きている。そんな沢山の人々の少しの手助けにでもなれるなら……とずっと思っていたし頑張っていた。
 大切な息子が亡くなって、手続しているときに泣きだすお母さんやお父さんも居た。奥さんを亡くして悔しそうな旦那さんもいた。おばあちゃんは安らかに逝けて幸せ者だった、と寂しそうにだけどどこか安心するように話す孫も居た。沢山の人がこの施設に来た。
 窓口で向き合いながら、何度もハンカチやティッシュを差し出した。死というのは辛いししんどいものだ。
 俺は何度も葬式を経験している。
 生きている限り、人は死ぬ。だから、周囲の人物が亡くなることは、決しておかしなことじゃない。一人、一人と亡くなるたびに、死は身近なものになっていく。
 幼少期から、どうも死という存在は近かった。
 高齢の身内が多かったのもあるが、今の自分の年齢の割には、人の死というものを何度か経験していた。
 壽命や癌などの、小説や漫画では話題にもならない死因。だけど、当の本人たちである俺達からすれば原因なんて関係ない。ただ、その死と言うものに寂しさが大きいのだ。
 だから、泣きだしたのなら、どうぞ泣いてくださいと言う空気を醸し出す。おかげで俺は仕事に行くときに、綺麗なハンカチ数枚と箱ティッシュを持ち歩くようになった。いっぱい使ってくれ。時間が許す限りなら話を聞いて、少しでもスッキリできたらと思って相槌を打つ。悲しみを我慢するというのは、どこか臭い物に蓋をする的なところがあって、無視しようとか考えないようにしようとしている間はいつまで経っても、その匂い物が残り続ける。だから、その蓋がずれたのが分かった時は、そっと外すのだ。少しスッキリした表情を見せてくれた時は、あぁ良かったと一安心できる。
 でも、その様な人々はキチンと話を聞いてくれるし必要な書類を書いてくれるから良い。
 中にはとんでもねえクレーマーが居たり、しょうもないことで電話してきたり窓口に来たりもする。いや知らねえよ、貴方の家の庭に咲いてる花の名前なんて知らねえよ! なんていう愚痴は口にせず、花の特徴を聞いて調べてお答えした。

 ダカダカとキーボードを打ち続けていれば終わりが見えた。ッターンッ! と勢いよくエンターボタンを押せば、本日の仕事は無事終了! 終わった! と思いっ切り拳を突きあげた。俺は勝ったのだ……!
 ちらりと時計を確認すれば、日付が変わる前に無事に終えることが出来た。
 たまに、電気がついているとクレームがやって来るのだ。こんな時間まで電気ついてて、俺等の金で何やっているんだ! と。だからこそ、使用している箇所以外の電気は消して、こっそりと、隠れるように仕事をしているのだ。悲しいかな。
 最後の確認を済ませて、不備が無いことも確認したし大丈夫。デスク周辺の片づけをして、電源もきちんと消してあるか一つ一つを指さしながら最終確認して、窓も閉まっているか確認。よし! と頷く。宿直さんにお疲れさまでしたと挨拶をしてから、職員用の扉から出る。
 どうしようかな、明日は休日だから今日は何もしないでいいかもしれない。今日の夕飯ビールでいいかな……いやここ数日ずっとビールだけど。家に着くのが真夜中になるのが多くて、食事をするのも面倒くさくなり、ビールなら炭酸だから腹膨らむし程よい量の酒なら眠気も来るから……と暫くずっとこんな調子だ。冷蔵庫の中はビールとほんの少しの調味料しか入っていない気がする。俺も、30歳。こんな生活では、そろそろ怒涛の勢いで太り出すかもしれない。

 元々実家から通っていた俺だったが、この担当地域の端に建っている事務所に異動が決まって、俺は実家から出て一人暮らしを始めた。実家からも通えはするのだが、少しでも通勤時間を減らしたかったのだ。
 実家から向かうには電車で少しかかる、郊外の日本家屋、という位置。だからこそ、逆に今の端っこに存在する職場からだと、通勤は徒歩でも可能。そんな場所。
 俺が住んでいる家は、遠い親戚がだいぶ前に住んでいた。その親戚に会ったことはない。管理ができるなら使ってくれと譲ってくれたのだ。読書家の家系らしいこの屋敷には、どこかの市立図書館レベルの量の本が置いてあるんじゃないかと言わんばかりである。本好きの俺は、得をしたと力強いガッツポーズを決めたものだ。

 田舎で元々本数の少ない終電車は、もうとうに終わっている。遠くに見える駅舎も、ホームも、照明が落とされて暗い。駅内に経営しているコンビニも、24時間営業なんてしておらず、とっくに明かりを消している。駅周辺の商店も、住宅も、明かりの漏れている建物は少なく、田畑はもとより夜の闇そのものみたいに真っ暗、というか真っ黒に映る。
 夜になると光がなくなる。この町は、驚くほど従順に、夜に飲み込まれていく。
 清潔な暗闇が、街を覆う。
 家路を歩いている最中に、スマホがポケットの中で震えた。
 慌てて取り出して画面を確認してみれば、表示された文字は『遠野杏哉』。実の弟からの電話だ。街明かりが無い真っ暗闇の現状、誰かとすれ違えば、俺の顔が浮き上がっている状況になり、相手にはトラウマを植え付けてしまいそうである。
 まあ、すれ違う人なんて、そうそう居ないのだけれど。
 数コール経ってしまった後で電話に出る。
「もしもし」
『今大丈夫?』
「大丈夫だよ」
 ごう、と音を立てて、俺の横をトラックが走り去った。田舎の分類に入るであろうこの町は、ガードレールや縁石すらない。細い道を示す、白線が掠れながらも存在しているだけだ。
 車の音が聞こえたのだろう、電話の向こうから、外に居るの? と問われた。
「今、帰りなんだ」
『今日、土曜日じゃん』
「今の時期は忙しいんだよ」
『大変そうだね』
 俺の一歳年下の弟は臨床検査技師に就いている。職の名を言われても、当時の俺にはピンと来ないで、どういう職業? と申し訳なく聞いたら、血液検査とか尿検査とか諸々の検査をする仕事だよ、と大雑把に面倒くさがられながら説明された。
 その分野を専門に学ぶ学校に進学し、そこで出会った女性と晴れてお付き合いをし、そのまま二人は同じ職場に就職し、そのままの流れでゴールインを迎えた。彼が22歳のことだ。そしてその同年、二人の間に可愛らしい女の子が生まれた。俺にとっては姪っ子になる。夫婦それぞれの良いとこどりをしたような、可愛らしい少女だった。
『苺音もね、話したがってたよ』
「それは申し訳ないことをしたな……」
 姪の名は苺音ちゃん。初孫となる彼女は大層かわいがられ、身内から沢山の愛を貰っていた。その可愛らしい姿は、仕事で荒れた俺からすれば眩しい物だったし、俺にとっても宝物のような存在だった。

 実家から離れて3人で暮らしていた弟一家。臨床検査技師の給料は、国家資格を必要とする割には、多額ではない。夫婦共働きをしないと、安定した生活をするには難しかった。
 夜勤も存在する職業。弟は、夜勤専属の技師になった。夜勤は手当てが出るために、昼間に働くより給料が良い。一家で暮らすために、弟は必死だったのだろう。
 けれど、二人が結婚し、苺音ちゃんが生まれて3年後。杏哉が25歳、俺が26歳の時。俺が家から返った時、実家に杏哉と苺音ちゃんが居た。
 遊びに来ていたのか、と思ったのが違った。どうにも揃って神妙な顔をしていて、軽率に話しかけて良い雰囲気ではなかった。
「別れたんだよ、嫁さんと」
 妙に凛と張ったその声色に、俺は一瞬自分の耳に違和感を感じた。弟の声だけにピントが合って、あとの音がすべてぼやけているような感覚だ。別れた、口の中で復唱して、その意味を噛み締めるが、いまいち上手く情報を処理出来ない。
 そもそも、当事者である弟が、まるで他人事の様に言うものだから、俺の方が受け止めきれなくて。座卓で腕を組んでいる弟の横に腰かけて、顔を覗きこんだ。
「俺は真夜中だろ? んで、あいつは昼間働いて。時間が全然合わなかった。夜勤だから、昼間は家に居るから、昼間寝て、夕方あたりに起きて、家事をして、俺が迎えに行く。あいつが帰ってくるまで苺音と一緒に居て、あいつが帰ってきたら俺が出勤する。見事にすれ違ってて」
「うん」
「それで、仕事から帰ってからとか、休みの日とかも、俺疲れたりして、あいつのこと、ほったらかしにしてて」
 それは、杏哉が悪かったかもしれない。でも、話し合う機会があれば、この人はきっと努力しただろう。
「俺、全然あいつの気持ちとか、解ってなかったみたいで、それで」
 そこで、杏哉は一度息をついた。深くて、重い。長く長く息を吐ききってから、肺の中を入れ替えるように大きく吸い込んで、杏哉は首を少し傾けて俺に視線を送った。
「俺と苺音を置いて、出て行っちゃった」
「……そっか」
「苺音に悪いことをしたなあ」
「……けれど、がんばったね」
 スムーズに何かをなんて言える訳がない。どれほど緊張していると思う。それでも、確実に今、伝えるべきだと思った。いくら市役所で来客対応して、色々な人と出逢っても、他人と身内とでは全然違うのだ。まさに、他人事では済まされないのだ。
 さて、精一杯の言葉は本人にどう届いたのか。恐る恐る顔を上げると、杏哉はぽかんとした顔でこちらを見ていて、それから、目が合うと一気にぐしゃりと顔が歪んだ。
 あ、零れる。と俺が思った瞬間には杏哉の涙は瞳からこぼれ落ちて、食いしばった歯の隙間に吸い込まれていった。とめどなく追って出てくる雫は顎を伝って、座卓の上に水たまりを作っていった。呻くような声を上げながら泣く弟を、体中の水分が涙になっちゃって、消えてしまったらどうしようと思いながら、俺はただ見つめていた。
 元々、彼は器用な人間であった。自分の力量を大体に理解し、可能な範囲を見極めることができる。失敗、という経験をあまりしないで生きてきたのだ。ある意味、才能であったと思う。逆に俺は不器用な人間であり、自分の力量も見極めきれずに、数多くの失敗を経験してきた。
 だからこそ、俺は弟が羨ましいと、この20数年の間、思っていたのだ。俺にない物を持っている弟が、ズルいと、思ってしまっていた。彼は俺とは違う、他人なのではないかと、思っていたのだ。
 だが、そんな弟が、こうして生まれて初めての挫折を味わっているのだと思うと、俺は最低な事に、生まれて初めて、彼が俺の弟なのだと認識できた。
 そんな俺を認識して、俺は、自分に酷く嫌悪を抱いたのだ。

 まあそれ以降、杏哉は実家に戻ってきたわけだけれど、元々一緒に暮らしてきた身だし。何か関係が大幅に変わるわけでもないし。両親も両祖父母も、何かとやかく言う事は無かった。兎に角、初孫で初曾孫ある苺音ちゃんにデレデレで沢山世話を焼いていたので、杏哉も少しは気を楽にして、転職して、新しい職場で働き始めた。
「おじさん、きょうもごほんよんで」
「ん、良いよ」
 運が良いのか、どうしたことか、俺は姪っ子に懐かれた。気が付けばいつも俺の後をついて、いつも俺を呼んでいた。服を引っ張られたら、彼女を抱きかかえ背中を撫でる。
 甘やかさないでよ、とジト目で杏哉が言うので、どうしたもんかと悩んだものである。
 俺の異動が決まって、実家から離れるとなった時に、一番反対したのは彼女である。
 普段はおとなしいのに、ぎゃんぎゃんと大きな声で泣いて、俺の服を必死に引っ張って、いかないでと必死に叫ぶ。家族にも近所の人にも、後程笑い話にされるネタとなった。
 けれど、決まってしまったのはしょうがない。必死に彼女の顔を拭ってやって、宥めて、頭を撫でてて。
「いつでも遊びに来て良いからさ」
「ぐす、行ぐ……!」
「うん。パパと一緒に遊びにおいで」
「うん」
 大粒の涙をボロボロと零しながら、全ての言葉に濁点が付きそうな声色で言うものだから、思わず笑ってしまった。
「苺音ちゃんの誕生日。一緒にお祝いしようね」
「約束だよ。絶対だよ。これからもずっとだよ」
「うん。分かったよ」
 指切りをして、約束。俺と杏哉は偶然にも誕生日が一緒で、丸々一年歳が離れている。だから、まるで双子のようだと一緒に祝われてきた。苺音ちゃんが産まれ、彼女は毎年欠かさず、父親である杏哉と叔父である俺におめでとうと言葉とプレゼントをくれる。だから、俺等より後に誕生日が来る彼女の誕生日には、お礼も含めて、美味しいケーキをプレゼントするのだ。

『……おい、おい兄さん』
 呼ばれてはっと顔を上げる。随分長く回想してしまっていたらしい。声の主に意識を向ければ、少し困ったよう溜息を吐く弟。
 気が付けば俺は我が家に着いていて、鞄を放って、ジャケットも放って、家の中を歩き回っていた。
『あ、そろそろ時間だな』
 それだけ言うと、ガサゴソと電話の向こうから音が聞こえる。
 遠くから、おーいと誰かを呼ぶ声。通話を繋げっぱなしだから、スマホを耳にあてながら、テレビをつけた。
 時間は、丁度日付が変わろうとしている瞬間だった。
 パッと時刻が0:00を表示した瞬間――……
『パパ、おじさん、おたんじょぉびおめでとお!!!!!!』
 スマホの向こうからの突然の大きな声に、キーンッと耳鳴りがした。思わずスマホを耳元から離してしまったが、すぐに元の位置に戻す。
 大きな声で多少音が割れてしまっていたが、声の高さ的に女性で、更に言うと、彼女からのメッセージなのだとすぐに察した。
「苺音ちゃん?」
『……はい』
「ははっ、声がショボショボしてるよ。こんな時間まで起きてくれてたんだ?」
『つい数秒前まで寝てたんだよ』
「なんだ、起こしたの?」
『どうしても、おじさんにもおめでとう言う! って聞かなくて』
「それはそれは、ありがたいねえ。苺音ちゃんありがとうね」
『ん……』
 寝てる寝てる。思わず笑いながら言えば、おやすみなさい……と言う声が遠くなっていくのが聞こえた。6歳の子がこの時間まで起きているのは辛かっただろう。ありがたいけれど、申し訳なさもあるな。
「そっか、今日、俺もお前も誕生日だったか。誕生日おめでとうございます」
『あちがとうございます、おじさん』
「一歳違いだって毎年言ってるだろ……全く」
 額に手を添えて、小さく溜息を吐く。
『誕生日だけど、あと、あのじいさんの命日』
「そうそう。ああ、あと、何人か居たよね。今年は誰も死なないと良いな」
 俺達が祝福されるべき誕生日に、亡くなる人が多い因果があるのかもしれない。その度に葬列に参列したものだ。幼い頃は、その度毎に、新しい喪服を着た。
 誰が居たかな、と片手で指を折り曲げて、頭の中で数字を唱えて数える。
『それで、もう今日になったけど、苺音と遊びに行こうって話、してたじゃん』
「あ、」
 思わず口元に手を添えて、慌てて声を封じようとした。
 彼の言葉を聞いて、俺の脚は風呂場へ向かった。ビールを飲んで夕飯を終えて、明日の朝にシャワーを浴びようかと思ったが、予定変更だ。
 大変申し訳ないことに、予定を忘れていた。
「お祝いするって苺音ちゃんが言ってくれたの、嬉しかったよ。大丈夫だよ。お前も一緒に来るんでしょ?」
『まあ、ね』
「どこ行く予定なの」
 シャツの腕を捲って、バスタブに洗剤をかけてからブラシで擦る。今の洗剤はバスタブを擦る必要はありません、とCMしているが、本当に大丈夫なのだろうか……と不安になる為、つい擦ってしまう。
『決まってない……』
「なんだよ。決めてから言ってくれよ」
『じゃあ、アンタはどこか行きたいところあるの』
「えー……最近はどこも出掛けてないからな。どこが良いのかも分からない」
 世間ではどこが話題に出ているのだろうか。SNSをやってはいるが、最近は流し読み、それどころか疲れてアプリを開いてすらいない。疲れている時に、新たな情報を脳に入れるのは、とても疲れる。
 一通りバスタブを洗って、シャワーで泡を流す。最近の洗剤は、泡切れも早くて良い。
『……アンタ、大丈夫か』
 泡を全て流し終えた所で、彼の言葉が耳に響いた。思わず動きが止まって、息も止まったような感覚だった。
 少しだけ開いた口を閉じて、入ってきていた空気をごくんと小さく呑み込んでから、シャワーを止めて、栓をし、お湯を入れた。
「大丈夫だよ」
『うそ。アンタ、嘘を吐く時って、ちょっと間を空けるんだよ』
「そんなことないってば」
 ついやけになって、彼の言う事を否定するように、即座に返答する。その声は、少しだけボリュームが大きくて、乱雑だったかもしれない。
『アンタは旅行が好きで、いつだってどこかに行きたいとか、色々な観光地や穴場スポットを探すのが好きだったよな』
「い、まだって好きだよ」
『それもうそだ』
 真っ直ぐな声を聞いて、眉間に皺が寄ったのが分かった。
『最近、俺達と会わないよな。迎えることが出来ないからって、来るなって遠回しに言ってたし』
「……それは苺音ちゃんには申し訳ないと思ってるよ。だから、明日会うんだろ」
『ねえ、兄さん』
「いつも通り、10時頃に家に来て、どこか食べに行こう。ケーキも買ってさ。そこから、そうだ、海にでも行く?」
『兄さん』
 名を呼ばれて、ぺらぺらと自転車の空漕ぎのように回っていた舌が、急に落ち着いて来た。
『話を聞けよ。だから、出掛けるのは止めようかと思ったんだよ。こっちだって、お前に合わせるし、出掛けるのはいつでもいいんだから』
「大丈夫だよ」
『無理に、俺達を気にし続けなくても』
「大丈夫だって言ってるだろ!」
 俺は、彼の言う通りに疲れていたのかもしれない。
 出来る限り、俺は人と丁寧に接しようと考えて生きてきた。そうすれば、敵を作らないからだ。それは家族も一緒で、弟に対してだって、いつだって笑みを浮かべていたはずだった。
 その化けの皮が剥がれ始めていた。
 それに自分で気が付いて、は、と少しだけ自虐気味に口角が上がった。
「……ごめん、忘れてくれ」
『兄さん、』
 彼の返答を聞かずに、俺は通話を切った。
 スマホの画面には、通話終了を示す画面が表示され、すぐにホーム画面に戻った。
 何をやっているのだろうか。弟に対して、当たってしまった。彼は誤解しているようだったが、俺は決して、彼女と会うのは苦痛ではない。むしろ、会うのは、俺にとっての一番の楽しみでもあったのだ。

 謝らないといけない。
 だけれど、今の気分のまま通話したら、先程の気分が尾を引いて、上手く言葉に出来なさそうだ。
 日が昇ってからでも良いだろうか。大丈夫、俺達は家族だから、いくらでも時間はあるのだ。喧嘩だって何度もして、日付を跨いだことだって何回もある。その都度、互いに素直になれないまま言葉ばかりの謝罪を口にしたのだ。
 今回もそうだろう。
 折角湯を入れたのだ。気持ちを落ち着かせるために、風呂にでも入ろうか。
 スマホの画面を伏せるようにしてテーブルに置いて、着替えを手に、浴室へと足を進めた。

 湯船に浸かるのは随分久しぶりだった。
 少し熱めのお湯に肩まで浸かっていれば、意識がうつらうつらとして来る。もう日付を超えた時間だ。眠気が襲ってきてもおかしくない。
 風呂に浸かりながら思わず欠伸をして、少しだけ、少しだけ寝てしまおうかと、重たい瞼を閉じる。
 こぽり、こぽり、気泡が水面へ向かって行く、心地よいような音が脳裏に響く。
 水の音どれだけ聞いていたかは分からない。けれど、次第に音が何も聞こえなくなってきて、視界が真っ暗になった。
 
 そこからの、記憶はない。