目指していた場所は、バス停から少しだけ距離のある場所だった。
「さっきも言ったけど、本当は早く連れて行きたかったんだ」
「うん」
 ズキン、と頭が痛む。痛みが和らぐわけではないと分かっているのに、額に手を添えて。痛みによって、眉間に皺が寄るのが分かる。
 脳裏に、誰かが過る。
「お前は理解をするべきだと、思い出すべきだと。それが、お前の責任なんだからと」
「うん」
 ズキン、ズキンと頭が痛い。
 脳裏に浮かんだ人物が、俺を呼ぶ。後ろを向いていて、顔が見えない。
「だけどさあ、お前、本当に楽しそうだったんだもん。一緒に笑ってさあ、話をしててさあ。ああ、まだ良いかなあって思っちゃうじゃん?」
 頭が割れるように痛い。
 脳裏に浮かんだ人物が、振り向こうとした瞬間、ざり、と音を立てて、弥生さんは足を止めた。

 目的地に着いたのかと、顔を上げる。そこにあったのは一般的な一軒家だ。二階建てで、瓦屋根で、曇りガラスの引き戸。
 弥生さんがインターホンを押せば、一瞬、空間が静まり返った。インターホンはただのボタンだけ。室内との通話機能は備わっていない。家主は誰も居ないのだろうか、と思うと同時に、ぱたぱたと駆け足気味にこちらへ向かってくる足音があった。
 少しだけ、聞き覚えのある、軽やかな足音だった。大人ではなくて、身体の軽い、子供のような。
 長考する間も無く、引き戸は開かれる。
 弥生さん越しに、玄関先に人影が見えた。
 玄関先に立っていたのは、苺音ちゃんだった。思わず驚いて目を開く。彼女が出迎えた、ということは、ここは、彼女の家なのだろうか。
 ふわふわと長い髪を風で揺らし、訊ねたのが俺達なのだと分かると、少し驚いたように目を開く。彼女はサイズの合っていない、誰かのサンダルを履いて俺達を迎えた。大人の誰かが愛用している物なのだろう。
「おじさん、どうしたんですか?」
「あ、え、えっと……」
 目の前にやってきた彼女の視線に合わせるように、少しだけ膝を曲げてみれば、彼女は相変わらず真っ直ぐと俺の目を見る。
 目が合うと、彼女の瞳が一瞬だけ揺らいだように見えたが、彼女は少しだけ目を伏せて、すぐにまた俺の顔を見る。
「入ってください」
 彼女の声は少しだけ震えていた。どうしたのだろうか、そう思って彼女の頭に手を乗せようとしたとき、よし! と弥生さんが声を上げたので肩が跳ねて動きが止まる。
「お言葉に甘えて、おじゃましよう」
「え、ちょっと待って。大人が居ないのに、入るのは……杏哉くんもいないし」
「まあ色々と準備があるんだろ。だから大丈夫だって。寧ろ今このタイミングしかないし」
 それだけ言うと、彼は小さく鼻歌を歌いながら、軽い足取りで歩きだす。
 おじゃましまーす、と軽い声色で挨拶をして、靴を丁寧にそろえながら、家に上がる。
 彼の背中を少し見送っていると、くいっと服の裾を摘ままれた。見下ろせば、苺音ちゃんが引っ張っていて、俺を見上げている。
 小さく苦笑いを浮かべて、俺も彼の後に続いた。

「ただいま」

 自分が口にした言葉に違和感を覚えたのは、靴を脱いで、玄関マットを両足で踏んでからだ。
 どうして、俺はただいまと口にしたのか。
 俺の家は、あの、大きくて古い本の山で。ここは、苺音ちゃんと杏哉くんの家なのに。
「おじさん?」
 家の中から呼ばれて、はっと意識を戻した。彼女は真っ直ぐと俺を見ていて、疑問気に首を傾げている。
 どうしてこないの? と問うているように思えた。
 まるで足の裏に根が生えたんじゃないか、と思う程に自由に動かせなかった一歩を踏み出す。ぶちぶち、と根っこが引きちぎれるような音が聞こえた気分がした。
 こっち、こっち、と弥生さんが呼んでいる。そんな彼の呼び声に応えるように、苺音ちゃんが俺の手を引っ張る。
 玄関から上がると目の前に十字路の廊下があった。右は、二階へ続くのだろう、階段と階段のスペースを利用している靴箱。左は、各部屋へ続く廊下。目の前は、キッチンへ続く廊下。俺を呼ぶ声は、左側のとある一室からしているようだった。
 ズキン、ズキンと頭が痛む。
 一番手前にあった障子戸を開けば、8畳ほどの居間が2部屋繋がっていた。座卓と座布団が数枚置いてあり、薄型のテレビが置いてある、至って普通の部屋だった。
 声がするのは、手前の部屋と隣り合わせの位置にあるであろう、襖で遮られている部屋からだ。
 ゆっくりと襖を横に引いた。そこはどうやら仏間だったようだ。部屋の隅に、金色の仏壇が置かれている。
 弥生さんは、その部屋で正座をして、こちらに背を向けていた。
「……なあ、本当はどこか察してたんじゃないか?」
 ズキン、ズキン、ズキン、と頭が更に大きく痛む。
 弥生さんと向かい合う様に置かれているのは、小さなテーブルのようだった。主張が激しいわけではないが淡い色合いの菊などの花々。灰が小さな山のように盛られ始めた線香立て。真ん中に置かれた、白い箱。俺はこれを知っていた。
 そして、何よりも主張が激しいのは、笑みを浮かべている、俺の写真だ。
 は、と小さく息を飲む。

「知唐が、死んでるってこと」

 窓でも開いていたのだろうか。ふわり、と空気が入れ替わったような心地がした。

「……え、」
「……まず言うけど、遠野知唐、お前と遠野杏哉くんは、兄弟だ」

 脳裏に居た人が、完全に振り向いた。
 振り向いた顔は、俺の良く知った顔、杏哉くんだった。脳裏に浮かぶ彼は、寂しそうな、今にも泣いてしまいそうな顔をして、俺を見ている。
「彼は遠野杏哉。遠野家の次男。そんな彼の兄が、お前、遠野知唐。身に覚え、あるんじゃねーの」
 ぼう、とした意識の中、一歩、二歩、と足を後ろに動かした。
 仏間と隣り合わせの部屋をふと見渡せば、沢山の額縁が飾られていた。賞状が数枚、苺音ちゃんが笑みを浮かべている写真。入園式当たりであろう、制服を着ている苺音ちゃん。七五三なのだろうか、鮮やかな着物を着つつ、少し目元を赤くして、少しだけ不機嫌そうな顔をしてる苺音ちゃん。
 その中に、二人の男性が並んでいる写真が何枚か飾られていた。
 そのうちの一枚に、俺は目が離せないでいた。
 一つのホールケーキを前にして、二人並んでピースサインをして、満面の笑みを浮かべている少年二人だ。ホールケーキにちょこんと乗っているチョコプレートには『お誕生日おめでとう 知唐くん 杏哉くん』と書かれていた。
 右の隅に、日付が記されている。今から20年以上前の、3月1日だった。
 頭が痛くなってきて、痛みを逃がすようにくしゃり、と前髪を握りしめる。

 こぽり、こぽり、と水の音が耳に入ってくる気がした。耳に入って、そのまま脳へ直接訴えてくるかのように、身体全体がその音を拾っている。
 こぽり、こぽり。
 口から空気が泡となってぼこりと零れる。
 水に包まれて、視界は最悪。水の中では、とてもじゃないが何も見えない。
 ごぼごぼ、と口から泡が大量にこぼれる。口を開いてしまって、声の代わりに空気を蓄えた泡が大量に逃げて行った。
 視界はぐにゃりと曲がったかのように見えて気持ち悪い。手を伸ばそうとも体は一向にいうことをきかない。
 上も下も右も左も分からない。何が正しいのかも分からない。何にしがみつけばいいのか、縋ればいいのかも分からない。伸ばした腕は、絶対に、何も掴めない。
 「誰か」そう口にしたくても、救いを求めたくても、潰れそうなほどの痛みを訴える肺が、喉が、それを許してくれない。必死に伸ばした腕が、何度も空ぶって何も掴めない。握った拳の中には、何も無い。本当に俺は腕を伸ばしたのだろうか。腕を伸ばして助けを求めたのだろうか。
 本当に?
 恐怖だけが、脳内を占めていた。
 どうどうと大きな音が、目の前に迫る。
 水の中が、恐怖が、どうしてこうも鮮明にありありと思いだされるのか。
 当たり前だ、これは、俺の体験した記憶。

 視界が大きく揺らぎ、恐怖が湧き上がる。ふっ、と一瞬足が宙に浮かんだような気分がする。足場が無くて、バランスを崩す。足元を見れば、俺の身体はもう水に浸かっていた。
 その恐ろしさに息を飲み、その場でたたらを踏む。
 ふらりと大きく揺れた体は、バランスを崩してその場で尻餅をついてしまう。
「おじさん?」
 大丈夫? と、突然座り込んでしまった俺に向けて、少女が問う。
 ――おじさん、そうだ。最初から、答えは出ていた。苺音ちゃんは杏哉くんの娘。そんな杏哉くんと俺が兄弟だったのなら。
 彼女は、俺の姪っ子。幼いころから、ずっと俺に懐いてくれた、可愛らしい姪っ子。彼女からすれば、俺は、叔父さん。
「……思い出した」
 胸元を握りしめて、ぽつり、と呟けば、弥生さんが俺の腕を掴んで立ち上がらせる。苺音ちゃんは、不思議そうに首を傾げていた。