「君は優しい人だね」
 俺はいつの間にか椅子に腰かけていて、机を挟んで向かい側に一人の男性が座っている。
 その男性には見覚えがあった。本人曰く、この世界の管理人さん。テーブルに頬杖をついて、俺をにこにこと眺めている。
 彼の言葉を聞いた俺は一瞬間の抜けた顔をしたが、直ぐに眉間に皺を寄せ、唇を小さく噛んで、目線を逸らす。
「そんな事じゃないです」
 少し乾いたような声色だったと、自分でも思う。
「褒め言葉を素直に受け取ってもらえないの、結構悲しいんだけれど」
「それはすみません」
 けれど、俺からすれば、どうも素直に受け取れるほどの褒め言葉には思えなかったので。
「俺は、優しい人間ではないですよ」
「そうかな。昔からの君を見ても、今の君を見ても、多くの人が君を優しい人だと口を揃えて言うと思うよ」
 彼は自身の手元にあった紙の束に目を通し、薄く目を細めて、薄ら笑いを浮かべた。
「とりわけまじめで、頑張る働き者で、滅多に怒らないで、些細な事でも相手を褒めてしまう。人たらしってやつかな? 簡単な事ではないんだよ」
「……そうせざるを得ないからですよ」
「ほう?」
「その様な動作をするのは、自惚れと爽快感からだ」
 ぽつり、と口から零れて呟いた言葉は、自分でも驚くほどに冷めていた。
「礼を言われれば心が軽くなり、疲れがとれたりもする。人に親切になれば、自分の事も好きになる。自分は優しい人間。自分は余裕のある人間。と、手軽に自分自身に酔えるからだ」
 目の前の彼には嘘は言えない。許されない。正直にならないといけない。
 彼と対峙するときに正直に話そうと考えてはいたが、言葉を選ぼうと、考えようとする前に、口が勝手に動く。脳の考える機能が無くなってしまって、口だけが自立してしまっているんじゃないかって。そう思わざるを得ないくらいに、勝手に動いていく。
「他人の為に自分が犠牲になって貢献しようとする行為そのものが、『自分は意味あって生きている』『自分は価値があって生かされている』『生きるのを許されている』という自己肯定感を生み出すんです」
「うん」
「俺が俺の為を思って、生きるのを誰に許されたいのかも分からないまま、それでも許されたいと思いつつ、自分を認めたくてやる。それだけだ」
 俺は、貴方が言うような、そんな立派で優しい大人なんかじゃない。
 溢れ出てきそうなものを必死にこらえるように唇を噛みしめて、今すぐにでもどこかに逃げ出したい気分でいっぱいだった。誰かが俺を握りしめてしまえば、砂の塊のように、ぐしゃりと、さらさらと崩れ落ちてしまうんじゃないかと思わせる。それほどに、俺は脆くてろくな人間じゃないのだ。
「この世界に認めてもらう為に、生きるのを許されるために、良い人で居ようとした。それだけだ」
「ふうん、そっかそっか。成程ね。人って難しいことを色々と考えてしまうよねえ」
 やれやれ、と言いたげに目の前の彼はテーブルに両肘を乗せ、手を組みながら、その手の上に顎を乗せて、小さく笑みを見せる。
「僕からすれば、生きているだけで勝ちだと思うんだけどね」
「……そう、ですかね」
 脳裏に浮かんだのは、杏哉くんと苺音ちゃんだった。二人揃って此方に顔を向けて、小さく笑みを見せてくれる。

「ケーキ屋の子、どうだった?」
「良い子でしたよ?」
「だよね。まあ、彼もこの世界から卒業したし、寂しくなるな」
 彼はテーブルを推すようにして腕を伸ばし、何かを思い出したように「ああ」と声を零す。
「君があの子たちとよく言っていた喫茶店。あそこも卒業したんだ」
「え?」
「残念だね」
 彼は思い出すためにか紙の束に目を通してから、あまり感情を見せない声色でそう告げた。
 そうか、あの喫茶店も、無くなってしまったのか。
 目に見えて分かる気の落ち具合だったのかもしれない。彼は小さく笑みを浮かべた。
「やっぱり君は優しいんだね」
「だから……!」
「うん、君のことは分かった。これも仕事だからね。色々と聞いて悪かったね」
 彼は納得するように何度か首を縦に振って頷いて、にこりと笑みを浮かべた。
「それじゃあまた来週。来週が最後だからね。寂しくなるなあ」
 それだけを言って、彼は立ち上がってそのまま外へ通じる扉の方へ向かって行った。
 見送りは良いよ、と小さく手を振られたので、俺は立ち上がることもせず、彼の背中を見送るだけにとどまった。
 寂しくなる。嘘をついているんだな、というのは、何となく察した。