中学時代、工藤さんと話したことは一度しかなかった。中二の秋、隣の席になったことがあり、筆箱を忘れてしまった僕は筆記用具を彼女に借りた。工藤さんとはその時に少しだけ話しただけだ。仲の良い友達は、いなかったように思う。『幽霊が見える少女』というだけあって、彼女は周りからは近寄りがたい存在だった。幽霊しか友達がいない、という噂もあった。

 そこから数十メートルほど歩いて、僕が落ちたであろう花壇に足を踏み入れた。僕の未練とやらを思い出すかもしれないと思い、僕はごろんと仰向けに寝転んでみた。
 真上にある太陽が眩しく、目を細める。手のひらで太陽を隠し、今度は僕が飛び降りたであろう屋上を見やる。
 背筋がゾクッとした。屋上の手摺りに手を掛けて、少女が長い髪の毛を垂れ下げて僕を見下ろしていた。
 ここからじゃよく見えないけれど、口元にはうっすらと笑みを浮かべているように見える。
 僕と目が合うと、その不気味な少女はスッと頭を引っ込めた。チャイムが鳴ったというのに、なぜ彼女は屋上にいるのだろう。それに、彼女は明らかに僕を見ていた。工藤さんのように、霊感の強い少女なのだろうか。

「屋上には、行かない方がいいよ」

 先ほどの工藤さんの言葉が、頭を過ぎった。
 彼女の言葉の真相を確かめるべく、僕は屋上へ向かった。
 誰もいない静かな廊下を歩く。階段を上がり、謎の少女がいた屋上を目指す。

 屋上の扉を擦り抜けると、髪の長い少女がいた。僕に背を向けて、先ほどと同じように手摺りに手を掛け、どこか遠くを見ているようだった。
 授業をサボって何をしているのだろう。僕は彼女に歩み寄った。
 しかしそこで、妙なことに気がついた。確か今、屋上の扉には南京錠が掛けられていたはずだ。おそらく僕が飛び降りたせいで、しばらくの間は立ち入り禁止になったのかもしれない。ではなぜ、彼女は屋上に入れたのか。

「うふふふふふふふふふ」

 僕が動けずにいると、彼女は肩を震わせ甲高い声で笑った。こいつはこの世の者ではない。僕は瞬時に悟った。不気味な少女はゆっくりと顔をこちらに向ける。

「痛かった? ……ねぇ、痛かった?」

 長い髪の毛の間から、血走った両眼を見開き、彼女はニタァと笑いながら語りかけてくる。僕は金縛りにあったかのように、一歩も動けずにいた。声も出せない。僕はこの時、あることを思い出していた。

 この学校の屋上では、少女の幽霊が出ると噂があったのだ。どうせ誰かがでたらめに流した悪い噂だろうと信じていなかった。全く気にも留めていなかったので、今の今まですっかり忘れていた。噂の少女とは、きっと目の前にいるこの女のことだろう。
 ずりずりと、彼女は少しずつ僕に歩み寄る。勘弁してくれよ、と思いながら僕は必死に身体を動かそうと試みる。しかし指の一本すら動かせない。
 彼女は細い腕を伸ばした。あと数メートルで、僕に届きそうなところまで来た。恐怖のあまり、僕は目を瞑った。その時だった。

「神村!!」

 ハッと目を開けて振り返る。工藤さんが屋上の扉を叩いていた。身体が動くことに気づいた僕は、後ろを振り返らずに走った。扉を擦り抜け、屋上を出た。

「屋上には行くなって言ったよね?」

 工藤さんは強い口調でそう言い、気色ばんだ。僕は呼吸を整えながら、ごめんと謝った。

「工藤さん、授業は?」
「なんか嫌な予感がしたから、抜け出してきた。危ないから、もう少し離れた方がいいよ」
「あの女の人、なんなの?」僕は言いながら扉から離れた。
「わかりやすく言うと悪霊ってやつ。たぶん昔、屋上から飛び降りて亡くなったんだと思う。たぶんだけど、あの子も生きていた頃にいじめられてたんじゃないかな。そんな感じがする」
「……そうなんだ」

 足に力が入らず、僕はその場にへたり込んだ。

「神村は気づいてなかったと思うけど、二週間くらい前からあんたに取り憑いてたんだよ、あの子」
「え……」
「あんたの後ろをぴったりくっついてたもんだから、気にはなってたんだけど、まさかこんなことになるなんてね」

 今しがた見たばかりの、あの少女の顔が頭に浮かんだ。乱れた長い髪、血走った両眼、荒れた肌にひび割れた唇。思い出すと背筋に寒気が走った。

「じゃあ僕は、あの女に取り憑かれたせいで飛び降りたってこと?」
「断言はできないけど、少なからず影響してると思う」

 僕は自分の意思で飛び降りたはずだ。あの女の怨念のようなものが、僕の背中を押したのだろうか。

「私、そろそろ教室戻らなきゃ。何度も言うけど、ここには近寄らない方がいいよ」
「うん。そうするよ」

 工藤さんは階段を下りて教室へ戻っていった。
 ふう、と深いため息をついた直後、ドンドンドン! と屋上の扉が強く叩かれた。ビクッと僕の身体は跳ね上がる。あの女だろうか。よろよろと立ち上がり、その場を離れた。


 学校を出た僕は、当てもなく歩き続けた。どんなに歩こうが、疲れることはないのだ。
 一時間ほど歩き続けて、小さな公園があったので中に入りベンチに腰掛けた。
 公園には小学校低学年くらいの子どもたちが元気よく走り回っていた。屈託無く笑う彼らを見て、僕も自然と頰が緩んだ。

 これから、どうしよう。
 そう考えてみても、僕がするべきことは決まっている。
 僕の未練とは何か。そのことについて、真剣に考えなければならない。僕が死んでしまうまでの、残り二十一日間でなんとか思い出さないと、僕の魂は成仏できなくなってしまう。それができなければ僕も、学校の屋上にいた不気味な少女のようになってしまうかもしれない。未練なんて思い出さなくてもいいや、と思っていたけれど、あの少女と遭遇したせいで、僕の考えは一変した。
 僕の心残りは一体なんだろう。自分のことなのに、見当もつかなかった。

 しばらく熟考していると、老年の男性が杖をつきながら、僕が座るベンチに向かってゆっくりと近づいて来ていた。おぼつかない足取りで僕の目の前までやってきて、彼は僕と重なるようにベンチに腰を下ろした。
「うわっ」と思わず声が出た。当然、僕と老人の身体はぶつかることなく擦り抜けた。
 身体が重なっている状態がなんだか気持ち悪くて、僕は立ち上がって公園を出た。

 そこから一時間ほど歩いて、僕は僕が入院している病院に足を運んだ。ここへ来る間、何人もの人とすれ違った。それが生きている人間なのか、はたまた幽霊なのか、今の僕にはわからない。
 幽霊のように生気のない表情で歩く人が数人いて、そういう人はまるで判別がつかない。僕のように彷徨っている幽霊かもしれないと思い、軽く会釈はしたけれど、返してくれる人は一人もいなかった。

 病院の中に入ると、さらにわからなくなる。ただの入院患者なのか、未練を残して死んでしまった幽霊なのか。この病院の屋上にいた、あの女性のように明るい幽霊もいるもんだから、お手上げだ。
 誰とも顔を合わせないように下を向いて僕は自分の病室へ向かった。

 僕の病室には母さんが来ていた。僕の爪を切ってくれたり、声をかけたりしている。
 頭に痛々しく包帯が巻かれた僕は、当然ながら無反応だ。
 数分後、病室の扉がノックされた。

「はい、どうぞ」母さんがか細い声で言った。
「失礼します」

 扉を開けたのは工藤さんだった。彼女は一瞬驚いたように目を見開き、僕を見た。そしてすぐに母さんに小さく頭を下げて、それからベッドで眠る僕に視線を落とした。

「翔也のお友達かい?」
「はい。同じクラスの工藤玲香と言います。神村くんとは、中学も同じでした」
「そうだったの。わざわざ来てくれてありがとね。よかったら、ここ座って」
「ありがとうございます」

 そう言ってから工藤さんは、先ほどまで母さんが座っていた丸椅子に腰掛けた。
 彼女はベッドで眠る僕を見つめるだけで、しばらく言葉を発さなかった。

「翔也、学校で何か悩んでなかったかしら。友達とうまくいってないだとか、いじめられてるだとか、そういうの、何か聞いてない?」

 母さんがそう訊ねた。工藤さんは首だけで振り返り、「いえ、そういうことはなかったと思います」と無表情で答えた。

「……そう。学校でのこととか、何も話してくれない子だったから、何が原因なのかわからなくてね……」

 母さんは消え入りそうな声でそう言った。工藤さんは応えず、幽体の僕を一瞥してから、もう一度ベッドで眠る僕に顔を向けた。
 不意に母さんの携帯が鳴って、「ゆっくりしていってね」と工藤さんに声をかけ彼女は病室を出ていった。
 工藤さんと二人きりの病室は、嫌に静かだった。彼女はベッドで眠る僕を見つめたまま、じっと動かない。時計の針の音が、やけにでかく感じられた。

「……神村のお母さん、悲しそうな顔してたね」

 工藤さんは沈黙を破り、ぽつりと呟いた。僕は先ほどの母さんの顔を思い出し、「そうだね」と頷いた。

「工藤さんは、どうしてここに来てくれたの?」

 まさか工藤さんが僕のお見舞いに来てくれるとは思っていなかったので、素直にそう訊いてみた。しかし彼女はベッドで眠る僕を見つめるだけで、言葉を発さなかった。

 数分の気まずい沈黙の後、やがて工藤さんは立ち上がった。

「じゃあね、お大事に」

 彼女はそれだけ言い残して、病室を出ていった。

「あら、工藤さん帰っちゃったの」

 今度は入れ替わりで母さんが病室に入ってきた。

「うん、帰ったよ」

 僕は言い終えた後、それが母さんの独り言だったことに気づく。母さんは工藤さんが座っていた椅子に腰掛け、悲愴な面持ちでベッドの僕を見ていた。居た堪れなくなって病室を出ようと踵を返したその時、突然母さんは涙を流し、嗚咽を漏らした。
 ごめんね、ごめんね。気づいてあげられなくて、ごめんね。
 しゃくり上げながら、彼女は子どものように泣き続けた。その様子を見ていると悔恨の情に駆られ、僕は静かに病室を出た。胸がギュッと締め付けられるように苦しかった。