翌朝、目を覚ました僕はすぐに時計を確認した。時刻は午前七時半。完全に遅刻だ、と布団を投げ出して起き上がる。
 そこで思い出した。
 そうだ、僕はもう、学校へ行かなくていいんだ。
 がっくりと項垂れて、ベッドに腰を下ろす。あんなに辛かった学校へ行かなくていいのに、心にぽっかりと穴が開いたような虚無感に襲われた。

 これから僕は、どうすればいいのだろう。
 大男──エンドーさんの話では、僕の容態が急変するまでの二十二日間で、未練とやらを断ち切らない限り僕は死んだあと成仏できないらしい。
 でも別に、それはそれでいいのではないか、と僕は思ってしまった。
 成仏できないからといって、何の問題があるのだろう。
 今の僕は学校に行かなくても、勉強をしなくても親に怒られることはない。それにいじめられることだってないのだ。受験や就職、不況だとか物価の上昇、増税や年金、老後の心配などは一切不要だ。

 そう考えると僕は賢い選択をしたのではないか、とさえ思えてきた。
 僕の唯一の失敗は、死に切れなかった、という点だけだろう。おそらく僕は花壇に落っこちてしまったのだ。そのせいで辛うじて命を落とし損ねてしまった。わけのわからない二十二日間なんて、なくたっていい。それに未練なんてものは、たぶん無いはずだ。

 家にいてもすることがないので、僕は部屋を飛び出して学校へ向かった。
 朝ご飯を食べなくてもお腹は空かないし、車に轢かれる心配もない。意味もなく道路のド真ん中で、ゴロリと横になる。大の字で空を見上げ、ほうっと息をついた。雲一つない青空が視界いっぱいに広がる。なんて美しいんだろう。最近は下を向いて歩いてばかりいたから、空を見上げるのは久しぶりだった。

 大の字で寝転ぶ僕の頭上を、何台もの車が走り抜ける。もちろん、ぶつかることなんてない。
 僕は本当に、いい身体を手に入れてしまった。もっと早く、こうするべきだった。
 身体を起こし、僕はいつも利用しているバスに乗り込んだ。当然ながら、運賃は必要ない。終点まで乗っても一円もかからない。なんなら運転中にバスを降りることだってできる。まあ、そんな馬鹿なことはしないけれど。
 僕は空いている適当な席に腰を下ろした。車窓の外は、いつもと変わらない景色が流れていた。


 学校に着いて、教室へ向かう。
 僕のクラスは相変わらず騒がしい教室で、わざとらしく顔を歪めてやった。
 大声で笑う生徒。ひそひそと静かに仲間内で話している生徒。いつも通りの教室だったが、やや緊張感がある。
 昨日僕が飛び降りたのは夕方頃。すでに知っている生徒もいるのだろう。耳をそばだてると、僕の話をしている生徒が何人かいた。

 数分後、遠山が子分たちを引き連れて教室にやってきた。眉間に皺を寄せて、機嫌が悪そうだ。彼は朝に弱いのか、この時間帯は特に気性が荒い。僕は毎朝、遠山の朝のストレスを肩で受け止めていた。

「なんだよ。神村のやつ来てねーのか? 朝はあいつに肩パンしねーと目が覚めないんだよな」

 そう言って、遠山は子分たちとケラケラ笑い合う。その肩パンで目が覚めるのは、僕の方だ、と遠山を睨みつける。普段できないから、僕は数十秒遠山を睨みつけてやった。
 さらに数分後、予鈴が鳴って担任の澤田先生が教室に入り険しい表情で教卓についた。

「お前ら! 席につけ!」

 澤田先生はいつになく声を張り上げる。教室内は水を打ったように静まりかえり、生徒たちは渋々それぞれの席についた。

「知ってる人もいると思うが、昨日、神村が屋上から飛び降りた。現在は意識不明の重体らしい。遺書は見つかってないそうだ。お前ら、何か心当たりはないか?」

 静かだった教室が、再び騒がしくなる。
 僕が飛び降りた理由を、クラスメイトたちは知っているはずだ。けれど、手を挙げる生徒は一人もいなかった。

「まあいい。お前らは、間違っても飛び降りるだとか、そういうことは絶対にするなよ。じゃあ、出席をとるぞ」

 僕の件に関しては、たったそれだけで終わった。
 遠山は負い目を感じている様子はなく、眠たそうに欠伸をしているだけだった。
 僕は別に、遠山に反省や後悔をしてほしかったわけではない。僕はこの毎日から抜け出したくて、自由になりたくて自殺を決行しただけだ。だけど、いくらなんでもその態度はないだろう。遠山さえいなければ、僕は今ごろ普通に授業を受けていたはずだ。普通に高校生活を送って、普通に卒業して、普通の人生を送るはずだったのに。あいつのせいで僕は……。

 ふう、と深く息をついた。遠山を恨んでも憎んでも、ただ虚しくなるだけだ。そんな自分が情けなく、惨めにも思えた。ぶつけようのない怒りをぐっと飲み込み、胃の中で消化されるのを待った。

 一時限目の授業はホームルームに変更され、またしてもアンケート用紙が配られた。その後空き教室に生徒一人ずつ呼ばれ、澤田先生による事情聴取が始まった。おそらく何らかの対策を取れ、と校長先生などの偉い人に言われたのだろう。澤田先生も不承不承といった様子でやっているように見えた。


 結局僕は、昼休みになってから教室を出た。
 教室内をウロウロしてみたり、机に突っ伏して寝てみたりしたけれど、とにかく退屈ですることがなかった。

「神村!」

 教室を出たところで、突然背後から名前を呼ばれた。誰かが僕の噂をしているのだろう、と振り返る。そこにはクラスメイトの工藤さんが立っていた。髪の長い少女だ。彼女はその大きな両眼で、僕をじっと見つめていた。
 僕は背後を確認してみた。後ろには、誰もいない。もう一度、前を向いて彼女を見る。間違いなく、僕と目が合っている。
 僕は自分を指差した。こくんと工藤さんは頷く。
 そうだ、と僕はあることを思い出した。この工藤玲香さんは、僕と同じ中学出身で、中二の頃同じクラスだった。工藤さんは僕の中学では、いわゆる『幽霊が見える少女』として有名だった。真偽のほどはわからないけれど、今、はっきりとわかった。彼女は本物だ。
 工藤さんに手招きされ、僕は彼女の後を追った。

「生きてる人の霊を見るの、久しぶりかも」

 校庭に出ると、工藤さんはやっと口を開いた。彼女は驚く様子はなく、やはりこの手のことに関しては慣れているようだ。

「病院に行くとたまにいるんだよね。ベッドで眠っている自分を見下ろしてる、生き霊っていうのかな」
「……そうなんだ」
「いじめられるのが辛くて、飛び降りたの?」

 彼女は躊躇うこともなく、僕に訊いた。

「……辛いというか、自由になりたかっただけだよ」
「ふうん。それで、自由になれたの?」
「……たぶん、なれたと思う」

 僕は言いながら、これは僕が求めていた自由なのだろうか、と自問した。何か、少し違うような気がする。

「まあいいけど、早く目を覚ますといいね、神村の本体」
「もう目は覚めないって言われたよ」
「誰に? 医者?」

 僕は仕方なく、エンドーさんのことや、僕の置かれている状況をかいつまんで説明した。

「遠藤さん……ねえ。にわかには信じ難い話だけど、本当なんだろうね、きっと」

 説明を終えると、工藤さんは腕を組み難しい顔をして言った。

「遠藤さんじゃなくて、エンドーさんだよ」

 僕が訂正すると、彼女は首を傾げた。

「よくわかんないけど、二十二日間のうちに未練を思い出して断ち切ることができれば、神村の魂は成仏できるってことね」
「うん、まあ、簡単に言えばそんな感じだと思う。僕もよくわかってないんだけどね」
「じゃあ、なんとしてでも思い出さないといけないね。その、未練ってやつ」
「それなんだけどさ……」

 僕の言葉の途中で、昼休みの終了を告げるチャイムが鳴り響いた。それは今の僕には関係のない、どうでもいい鐘の音だ。

「教室戻らないと。神村はどうするの?」

 どうすると言われても、どうすればいいのか逆に教えてほしい。教室に戻ってもすることがないし、かと言って行くあてもない。

「とりあえず、学校の中をぷらぷらしてるよ」
「そっか。……屋上には、行かない方がいいよ」

 意味深にそう言い残して、彼女は教室へと戻っていった。なぜ行かない方がいいのか、工藤さんは何も言わなかった。