次の日から僕はさっそく、どうやって死のうか考え始めていた。首を吊ろうか、それとも早川さんのようにホームに飛び込もうか、などと授業中にも関わらずそんなことを熟考していた。
 死というものに恐怖は感じなかった。この辛い毎日から脱却できるのなら、これほど嬉しいことはない。なぜもっと早く考えなかったのか、とさえ思った。

「神村、放課後職員室に来てくれ」

 昼休みに担任の澤田先生に声をかけられ、クラスメイトたちから一斉に視線を浴びる。そして教室が騒つく。
 きっといじめの件だろうと誰もが思ったに違いない。澤田先生が教室から出ていくと、遠山が僕の髪を鷲掴みした。

「おい神村、アンケートに俺の名前書いてねーよな?」
「……書いてないよ」
「本当か? 嘘だったらぶっ殺すぞ」

 掴んでいた手を離し、僕の頭を平手打ちして遠山は教室を出ていった。不良仲間の田口と徳井が彼の後を追う。僕は主に、この三人からいじめを受けていた。彼らだけではなく、他のクラスメイトたちからも僕はいじめを受けている。
 あの三人からは暴力やカツアゲ、嘲罵を浴びせられることが多く、他の奴らからは、無視されることが多かった。無視というより、なるべく僕と関わらないように避けているのだ。下手に僕に優しくすると、今度は自分がターゲットにされるのではないか、とみんな恐れているようだった。


「神村、お前いじめられてるのか?」

 放課後、職員室に出向くと澤田先生は開口一番にそう言った。ある程度予想はしていたけれど、あまりにも直球すぎるその言葉に、僕は一瞬動揺してしまう。
 澤田先生は四十代の体育教師で体格が良く、威圧感がある。彼は切れ長の鋭い目で僕を見つめる。

「……いえ、いじめとか、そういうことは全くされてないです」

 澤田先生の威圧的な眼光に気圧され、僕は俯いて答えた。

「本当か? 匿名のアンケートで、神村がいじめられてるって書いた生徒がいたんだが……」
「……たぶん、いたずらだと思います」
「そうか。まあ、本人がそう言うなら、これ以上は追求しないけど、もしいじめられてるなら隠さずに話すんだぞ」
「……はい」

 小さく頭を下げて、職員室を出た。
 担任に話したところで、何も解決しない。それは中学の頃に、僕が学んだことだった。
 先生に話したことで相手が逆上し、さらにいじめが酷くなったことがあった。だから僕は、差し伸べられた救いの手を、掴もうとはしなかった。
 中学の頃から毎日のように続くいじめに、僕は疲弊していた。抵抗できない自分に辟易し、心身はすり減り、不登校になった時期もあった。それでも僕はめげずに、学校へ通い続けた。
 僕が一体、何をしたというのか。理由のわからないいじめを繰り返し受けて、もう何もかもどうでもよくなってきた。僕も早川さんのように自由になりたかった。


 それから三週間が過ぎた。
 結局いじめのアンケートの効果は皆無で、僕に対するいじめが終わることはなかった。
 そこで僕に残された道は、三つある。
 一つ目は、卒業までの約二年半続くであろういじめに耐え抜き、このまま辛い高校生活を送る。
 二つ目は高校を中退して、定時制、もしくは通信制の高校へ通う。
 そして三つ目は、『自由になる』というものだ。
 僕がこの三週間考えた末に出した答えは、三つ目の選択肢だった。残り二年半耐え抜くのは難しい。僕の心がもたない。中退して別の高校に通うことは逃げたことになる。それに逃げた先でもいじめの標的になる可能性だってあるのだ。
『自由になる』ことは、逃げではない。これは前に進む為の、殊勝な行いだ、と変なプライドが邪魔をして、無理矢理自分にそう言い聞かせた。


 僕はこの日、死のうと決めていた。迷いはなかった。
 人生最後の授業は、当たり前だけどいつもと何ら変わりなく終了した。こんな日にも僕は、遠山に小銭を奪われ肩を殴られた。最後に反撃をしてやろうかと思ったけれど、やめにした。
 僕が自殺した後、自分のしてきたことを悔いて、罪悪感に苛まれるがいい。それが僕にできる、精一杯の反撃だった。
 放課後、僕は自由を求めて誰もいない屋上へ向かった。優しく吹く風が心地良く、一時間はぼうっとしてたと思う。
 そして僕は、太陽が沈んだ頃に飛び降りた。


 人は死んだら、どうなってしまうのか。
 天国や地獄は、本当に存在するのだろうか。
 存在するとしたら、自殺をしてしまった僕は地獄へ行くのかもしれない。それとも、辛い毎日を耐え忍んだご褒美に、天国へ行けるのだろうか。
 わからないけれど、僕はこれで、自由になれたのだ。辛い毎日から解放され、自由を手にしたのだ。
 きっとどこか静かで、空気の綺麗な河原で目を覚ますのだろうと思っていた。そこはいじめや争いのない、平和な世界に違いない。色とりどりの花が咲いていて、小鳥が気持ち良さそうに飛んでいる。
 そこは、僕の理想の自由な世界。
 人は死んだらどこへ行くのか、僕にはわからないけれど、なんとなく漠然とそんなイメージを抱いていた。

 しかし、次に僕が目を覚ました場所は、そんな美しい世界ではなかった。
 僕は確かに、学校の屋上から飛び降りたはずだ。見えない何かを掴むように、空へと駆け出したのだ。けれど、気づいたら僕はなぜか校舎を見上げていた。
 確か、あそこから飛び降りたんだよなぁ、と僕が飛び降りたはずの場所を見つめる。それから自分の身体を確かめた。
 怪我なんてしてないし、どこも痛いところはない。四階建ての屋上から飛び降りて、無傷で済むなんてありえない。それについ先ほど陽が沈んだばかりなのに、空は真っ暗で星たちが輝いていた。
 夕方に屋上から飛び立って、着地したかと思えば夜になっていた。一瞬の出来事のはずなのに、なぜ空の色が変わってしまったのか、理解の範疇を超えている。
 どうしてこうなってしまったのか判然としないが、とにかく僕の自殺は失敗に終わったらしい。もう一度屋上へ上がり、飛び降りを試みようにも、すでに気勢をそがれていた。
 何か釈然としないけれど、この日は諦めて帰宅することにした。


 家に帰ると、リビングは真っ暗で誰もいなかった。
 時刻は夜の八時を回っていた。こんな時間に父さんや母さん、弟の竜までもが僕を置いて外出しているなんて、そんなことは今まで一度もなかった。
 先ほどの学校での出来事といい、自宅でも理解に苦しむことが続いて、頭の中が混乱していた。不思議と腹も空いていないので、このまま眠ることにした。
 僕は自室に行き、ベッドに潜り込んだ。


「おい、起きろ」

 うとうとしかけてきた頃、聞いたこともない野太い声がどこかから聞こえた。
 目を擦りベッドから起き上がると、肥満体質の大男が僕を見下ろしていた。僕は恐怖のあまり、言葉を失っていた。

「神村翔也だな? まったく、面倒なことしやがって」

 この大男はなぜ僕の名前を知っているのだろう。そもそもどこから入ってきたのか。面倒なこととはなんだ。いや、その前にこいつは誰だ。今日は何かがおかしい。立て続けに非現実的なことが起こり、何が何だかわからない。
 僕は大男を見上げる。部屋が暗くて表情が窺えない。

「なに呑気に寝てんだよ。お前、自分の身に何が起こったのか覚えてねーのか?」

 大男にそう言われ、僕は今日一日の出来事を振り返る。いつも通りに登校して、いつも通り遠山たちにいじめられて、放課後になって自殺を試みようと屋上から飛び降り、無傷で着地。なぜか空の色が変わっていて、そして何事もなかったかのように帰宅した。家に帰ると、家族はこんな時間に外出していて、それから謎の大男が僕の前に突如現れた。

 今日起こった出来事を何度も反芻して、ピンときた。そうか、そうだ。僕は死んだのだ。何度思い返しても、屋上から飛び降りた後がどうもおかしい。僕が死んだと仮定するならば、この奇妙な状況も頷ける。
 そもそも屋上から飛び降りたというのに、無傷なんてありえないのだ。つまり今の僕は、幽霊ということなのだろう。家族が不在なのは、おそらく学校もしくは病院から連絡を受けて、僕の遺体が搬送された病院へ向かったからだろう。
 やっぱり僕は、死んでしまったのだ。ただ一つだけ釈然としないのは、この目の前にいる大男の出現だ。本来であれば、死んだ人間の前に現れるのは天使かそれっぽい美少女と相場が決まっている。しかし僕の前に現れたのは、そんな天使ちゃんとは遥かにかけ離れた、でかいおっさんだ。

 思考を終えた後、僕は再びゆっくりと大男を見上げる。
 カーテンの隙間から月の光が差し込み、大男の顔を照らす。彼は無表情で、僕を蔑むような目でこちらを見ていた。

「おい、聞いてんのかお前」
「あ、すいません。思い出しました。僕、死んだんですね」

 僕は自殺をしたから、きっと天国には行けないのだ。この大男は僕を地獄に連れて行く為に現れた、悪魔か何かなのだろう。

「死んでねーよ。説明するの怠いから、ついて来い」

 大男はそう言って、壁を擦り抜けて僕の部屋を出た。やはり、彼はただの人間ではなかった。僕も同じように壁を擦り抜けて部屋を出た。壁を擦り抜けられるということは、やっぱり僕は死んでいるのではないだろうか。でも大男は死んでないと言った。もう何が何だかわからない。これは夢だ。僕はそう思うことにした。考えることに疲れてしまった。

「おい、早く来い」
「……はい」

 僕は考えることをやめて、大男の後を追った。