「……これで全部、のはずなんですけれど」
蘭舟宮を駆けずり回り、一室に集めた呪具、呪符の山を前にして、芙蓉は額に浮かんだ汗を拭った。黒い靄のある場所全てを巡り、天井裏まで這いつくばって探したのだ。おかげで麗鈴に施してもらった化粧は流れ落ち、襦裙も被帛も埃まみれで薄青がくすんでいるが、大したことではなかった。
呪いが見えるのは如閑と芙蓉だけなので、二手に分かれて蘭舟宮を探し回った。侍女たちと協力し、地面に埋められているものは一緒になって掘り出した。ボロボロの有様なのは皆同じ。それでも誰も文句一つ言わなかった。今は大方捜索が終わり、大体の侍女が沐浴に行っている。室にいるのは芙蓉と如閑、貴妃と浪浪だけだった。
「……私への悪意をこう形にされると堪えるわね」
貴妃は口元に手を当て、長椅子に座り込んだ。浪浪が慌てて背をさする。その様子を見ながら、如閑が芙蓉に声をかけた。
「お疲れ様でした。呪具は拙が預かりましょう。下手人の特定に繋がるでしょうし、浄化もしないといけませんから」
「いえ……」
芙蓉も貴妃に目を向ける。恐らく、如閑も同じものを見ている。
──依然として黒い靄に包まれている貴妃の姿を。
芙蓉は両手を握りしめ唇を噛む。どこかで見落としがあった? いや、それはないはずだ。庭院を掘り返し、池の中に入り、調度の一つ一つを確かめた。蘭舟宮の中にはもう、呪具も呪符もない。現に、宮には靄が見えないのだ。
ならば。
芙蓉は意を決した。
「……劉貴妃。大変恐れ入りますが、衣を脱いでいただけないでしょうか」
貴妃の目が見開かれる。憤然と立ち上がり、芙蓉に向かって怒鳴った。
「この無礼者! この私に向かってなんということを!」
「違うんです。まだ貴妃に何かが取り憑いております。蘭舟宮の呪具は全て取り除きました。だから、残るは貴妃自身しかないのです」
芙蓉に掴みかかろうとした貴妃を制したのは、浪浪だった。
「芙蓉の捜索によって実際に呪具は見つかっているんだ。信じてみるのも一興じゃないかい」
「けれど……」
「もし何も見つからなかったら、それはそのとき考えればいいだろう。違うかい」
「それは……そうね」
浪浪の説得に、貴妃は落ち着きを取り戻す。低い声で芙蓉に告げた。
「陛下の他に、私の衣を暴くことを許す。この意味が分かるわね」
「……御意」
見誤れば制裁が下るということだろう。芙蓉は唾を飲み込んだ。ここまで来た以上、やるしかなかった。
「芙蓉姫」
如閑がそっと囁きかけてきた。芙蓉の右腕を取り、筆で手の甲に何かを書く。
「退魔の陣です。呪いを見つけたらこの手で触れなさい。そうすれば祓えます。……拙がそばにいるわけにはいきませんから」
「あ、ありがとうございます」
浪浪が如閑を追い出す。如閑は閉められる扉の隙間から、励ますようにひとつ頷きかけてきた。芙蓉も退魔の陣が書かれた手を握りしめ、頷き返す。
「……ほら、これで満足かしら」
背後から衣ずれの音がした。はっと振り向くと、一矢纏わぬ姿になった貴妃が、挑むように芙蓉を見据えている。
その首元に、何かがぶら下がっているのを確認して芙蓉は目を見開いた。
「貴妃、それは?」
「え? ああ……安産祈願のお守りよ。肌身離さず身につけているの」
それは確かに、絹紐で首からかけられるようになったお守りのようだった。小さな巾着の中に護符が入っているようである。
芙蓉の背中に冷たい汗が流れた。芙蓉の目には、呪具越しにも悪意が伝わってくるほどのどす黒い塊に映った。
「それです。お貸し下さい」
その瞬間、落ち着いていた貴妃が激昂した。
「嫌よ! これは大切な人に貰ったものなの! 外したら私と陛下の子供が流れてしまうわ!!」
「そんなことはありません。それは呪具です。しかも相当な悪意がこもっています」
芙蓉が貴妃に近づくと、お守りを握りしめ、腹を守るように背を向けた。さらに一歩近寄ると、手をむちゃくちゃに振り回す。あ、と思った時にはもう、爪が芙蓉の頬を引っ掻いていた。熱さを感じて頬に手を当てると、血が滲んでいた。
けれど貴妃は呼吸を荒げて芙蓉を睨みつけている。瞳孔が開いて、瞳が異様に黒くなっていた。
「貴妃、本当に申し訳ありません!」
貴妃が怪我をしないように気を使いつつ、首元に手を伸ばす。身重の貴妃との力勝負なら芙蓉に分があった。揉み合いの中、何とかお守りを引きちぎる。
「ああ!」
悲痛な声をあげてお守りを取り戻そうとする貴妃を押し除けながら、お守りを開ける。その瞬間、巾着の中から何かが飛び出してきた。
貴妃が悲鳴をあげる。それは禍々しい赤色をした毒虫だった。あの小さな巾着の中にどうやって入っていたのか、手のひらほどもある。
毒虫が頭をもたげる。不気味な鳴き声をあげて、触角を擦り合わせる。すると、毒虫の姿がどんどん大きくなり、外殻の模様まで確認できるほどになった。
芙蓉の隣で貴妃がへなへなと座り込む。今にも気を失いそうに、顔から血の気が引いている。
芙蓉は萎えそうになる足を叱咤して、右手をかざした。
(私がやらなきゃいけないんだ)
何の力もない、術だって知らない。けれど、この事態を引き起こしたのは芙蓉で、信じて力を託してくれた人たちがいる。ならば、それに応えなくては。
毒虫が芙蓉に向かって足を振るった。
「──退きなさい!」
芙蓉は精一杯叫んで、右手を突き出し毒虫に突っ込んだ。指先が硬い何かに触れた、と思った瞬間、苦悶の声がして毒虫の姿が弾けて消え、芙蓉は床に倒れ込む。
「瓏宝林……芙蓉!」
貴妃の悲鳴じみた声に、何とか手をあげて無事を知らせる。扉の向こうから、焦ったような如閑の声が聞こえてきた。
「芙蓉姫! ご無事ですか!? 急に気配が消えたと思ったら、退魔の陣が発動したようですが……」
貴妃と顔を見合わせる。さっと両腕で体を隠した貴妃に襦裙を着せ掛け、芙蓉は叫んだ。
「私は無事です! だから絶対に入ってこないでください」
「これが例の呪具ですか」
貴妃が着込んだあと入室を許された如閑が、床に転がったお守りの残骸を観察して唸った。破れかけた巾着と干からびた毒虫の死骸をつまみあげ、面白そうに笑う。
「誰にもらったものか心当たりはないのですね?」
「ええ。それをつけている間は、とても大切な人にもらったと思っていたわ。それに、外したらとても良くないことが起こると頑なに信じていたの。周り全部が敵に思えて……今思えば、それも呪具に操られていたのね」
麗鈴の淹れた茶を飲みながら、貴妃は肩を落とした。その顔は憑き物が落ちたように穏やかだ。柔らかな仕草で芙蓉を呼び寄せる。
「ごめんなさい、芙蓉。私、あなたにとてもひどいことを言ったわね。それに怪我までさせて……謝って許されることではないけれど、どうか謝らせて。何か欲しいものがあれば何でも言って頂戴」
「いえ、そんな……」
芙蓉は顔を真っ赤にして首を振った。まだ心臓が激しく跳ねている。自分があんな大それたことをしでかしたなんて信じられなかった。
私は、何にもできない役立たずだったのに。
それが人を守り、助け、感謝されている。今までの人生で一度もなかったことだ。芙蓉はどうしたらいいか分からなくて、ただ必死に首を振ることしかできなかった。如閑がそんな彼女を微笑ましそうに見つめている。
劉貴妃が明るく笑った。
「さっきまであんなに凛々しかったのに、おかしな子ね。いいわ、また思いついたら何でも言いなさいな。私の手の及ぶ限り、叶えてみせましょう」
「いっそ、碧楼宮なんてやめて蘭舟宮で働いたらどう? 芙蓉なら大歓迎よ」
麗鈴が目を輝かせる。劉貴妃が手を叩いた。
「いいわね、それ。私もそうして欲しいわ」
けれど、それが叶えられる日はついぞなかった。
惜しまれながら碧楼宮に一人戻った芙蓉を待っていたのは、意地悪げな玉環の笑み。その紅唇からは、毒のような言葉が吐かれた。
「お帰りなさい。お姉様の下賜が決まったわよ」
「は……?」
芙蓉は呆然と立ち尽くす。玉環は開いた扇で口元を隠しながら、芙蓉に顔を近づけた。
「さっき、陛下から使いがやってきて、そう告げたのよ。うふふ、それから、今宵私には御通りがあるって」
「わ、私は誰に下げ渡されるの」
「朱太保だそうよ。太保なんて名誉職、まだ誰かが就いていたのね。よぼよぼの爺じゃないかしら。せいぜい励みなさいよね」
凍りつく芙蓉をその場に残し、玉環は手を打ち合わせて侍女を呼んだ。今宵の閨に備えて、着飾るために。
その夜、玉環は胸を弾ませて碧楼宮の門をくぐった。初夜以上に着飾った煌びやかな装いは、月光を受けて輝いている。周囲を皇帝から寄越された迎えの兵に囲まれ、しずしずと歩いた。
──皇后にふさわしいのはこの私よ。
御通りが絶えてからこっち、ずっと抱えていた不安が霧散して、玉環は微笑みを浮かべた。やはり天は玉環を愛している。御通りが絶えたのは何かの間違いだったのだろう。
そもそも、生まれたときからそうだった。玖蓮国でも屈指の名家である瓏家に次女として生を受けたが、姉が愚鈍だったおかげでほとんど長姫と同じ扱いを受けた。そのまま淑妃として後宮入りし、皇帝の閨に呼ばれた。まだ懐妊してはいないが、それも時間の問題だろう。きっと東宮を産んで皇后になれる。玉環は信じて疑っていなかった。
だから、それを見たときは我が目を疑った。
連れられて来たのは閨ではなく、皇帝の執務室。目の前には玉座に座す皇帝。その右には大きな腹を撫でる貴妃が寄り添い、左には如閑。そして如閑の隣には。
「お姉様──」
神妙な顔で床几に腰掛ける、芙蓉がいた。黒色の襦裙を着て、艶やかな髪を瑠璃のあしらわれた簪で結いあげている。髪を上げているとその顔立ちが美しいことがよく分かった。黒の襦裙は、肌が雪のように白いことを目立たせた。
玉環の背後で扉が閉まる。皇帝が口を開いた。
「──それでは、劉貴妃を呪った下手人の詮議を始める」
その厳しい眼差しは、玉環に向けられていた。
「お待ちになって、陛下」
玉環が真っ直ぐに皇帝を見上げる。芙蓉はその様子を見て、さすが玉環、どんなときでも落ち着いているな、と内心感心していた。芙蓉はここに連れてこられて、動揺が全くおさまらないというのに。
あれから芙蓉は、後から追いついてきた如閑に碧楼宮から外朝に連れ出された。下賜の衝撃も冷めやらぬまま着替えさせられ、髪を結われ、呆然としたまま執務室にやって来た。そこでは皇帝と貴妃が待っていて、床几に座らされたと同時に玉環が現れたのだ。
それでも、何が始まるかは分かる。皇帝は、玉環を劉貴妃を襲った下手人として弾劾するつもりなのだ。貴妃に仕掛けられた呪いを調べて見当がついたのだろうが、仕事が早い。
玉環は悲しげに両手を組み合わせる。
「私が劉貴妃を呪うだなんて、そんな恐ろしいことをするはずがありませんわ。悲しい誤解です。一体誰がそんなことを」
「だ、そうだが、如閑」
皇帝は如閑に顔を向ける。如閑は懐から何かを取り出した。
「これは、劉貴妃が大切にされていたお守りの残骸です。といっても、実態はお守りの中に毒虫が入っていて、貴妃を害そうとするものです」
皇帝が目を細めて如閑の指先を見る。芙蓉も目を凝らした。確かにそれは、芙蓉が祓った毒虫の死骸だ。
如閑はにっこりと笑う。
「幸いにも、この呪いは瓏芙蓉が祓い、事なきを得ました。もしもそれが失敗していれば、劉貴妃は母子ともども無事では済まなかったでしょう」
「だからなんだと言うのです。それを私が劉貴妃に送りつけたと言う証拠でもあって?」
眉を吊り上げる玉環に、如閑は首を振る。
「いいえ、劉貴妃は誰にお守りをもらったのか覚えていらっしゃらないということでした。それもまた忘却の術がかけられていたのでしょう。刑部の人間がひそかに後宮を調べましたが、そこからも手がかりは得られませんでした」
「ならば、下手人は私ではないわ。その呪いとは無関係よ」
「左様ですか。……しかし呪いのことは、呪いに聞くしかありますまい」
如閑の声が低くなる。ぞっとするほど愉しげな笑みを浮かべて、今度はひと抱えはある布の包みを取り出した。それを玉環の足元に放ると包みがほどけ、中から呪具や呪符が飛び出した。それは芙蓉にも見覚えのある、蘭舟宮で見つけた呪いの数々だった。
「呪詛返し、というものをご存知ですか? 貴妃に仕掛けられた呪いは一つだけではありません。まだ浄められていない呪符、呪具が山ほど見つかっています。これも瓏芙蓉の尽力によりますが……それら全てが主に返ったら、どうなるのでしょうね?」
玉環は俯いて震えている。足元に散らばった呪符と呪具を見つめ、
「……違うわ」
「はい? よく聞こえませんでした」
「違うと言っているのよ! 私じゃない! 疑うのならやってみなさいよ。呪詛返しなんてもの、できるのであればね」
「それがお望みならば仕方ありませんね」
如閑は肩をすくめ、ぼそりと呟いた。
「耐え切れるか分かりませんが、まあいいでしょう」
如閑の手が空気を撫でるように動く。次の瞬間、玉環の体がびくりと跳ね、床に倒れ込んだ。絶叫が彼女の唇からほとばしり、耳をつんざく。芙蓉の目には、呪符や呪具から湧き起こった黒い靄が玉環を包み込んで、口や耳から飲み込まれていくのが見えていた。
陸に上がった魚のように、玉環は床の上で痙攣している。簪が外れ、綺麗に結われていた髪が解けた。見開かれた目は血走り、悲鳴に裂かれた口の端には泡が付いている。
如閑はつまらなそうに首を傾げた。
「なんだ、何か策があるのかと思いきや虚勢でしたか。用心して損しました」
絶え間なく悲鳴は響き渡る。芙蓉は如閑の腕を掴んだ。
「あの、如閑さま。死んでしまいます」
「何がですか?」
「ふざけている場合ですか!? 玉環が死んでしまいます」
「ああ、でしょうね」
さらりと頷く。玉環の方に顔を向ける。その目には、何の感情もこもっていなかった。
「問題ありますまい。貴妃に仕掛けられた呪いは瓏玉環に還った。ならば下手人は明らかです。成したことが報いただけのこと。それで良いのでは?」
「良くないです」
即答して、それから周りを見回した。下手人の取り扱いは、芙蓉が決めることではない。しかし皇帝が黙って頷いたので、言葉を続けた。皇帝の隣では、貴妃が耳を塞いでいた。胎教に悪過ぎる。
「……罪人にふさわしい罰が死なのかそうではないのかなんて、私には分かりません。けれど、これだけは分かります。──私は、如閑さまにこんなつまらないことで手を汚さないで欲しい」
如閑の目が見開かれる。悲鳴は続いている。芙蓉は必死に言い募った。
「呪いを利用して他人を苦しめるのなら、玉環と同じです。如閑さまであればこんなことしなくとも、他に方法はいくらでもあるのではありませんか」
如閑は少しの間考え込んでいた。そうして目を伏せ、手を動かす。玉環の悲鳴がぴたりと止んだ。決まり悪そうに、
「……まあ、そうですね」
芙蓉はほっと胸を撫で下ろした。皇帝が玉環を顎で指し、壁際に並んだ兵士に向かって「連れていけ」と指示する。
けれど、玉環はそれを拒んだ。床に這いつくばったまま、髪を振り乱して叫ぶ。
「違うのです! 私ではありません! 私は瓏芙蓉に命令されたのです!! だって呪いに通じているのはその娘です! 逆らえなかったのです!!」
芙蓉は息を呑む。この期に及んで何を言うのか。
反論しようと口を開いたとき、如閑が手を打ち鳴らした。それが合図だったようで、執務室の扉が開く。兵士に連れられて来たのは、碧楼宮の侍女たちだ。彼女たちは玉環と芙蓉を見比べて目を丸くし、慌てたように叩頭する。
如閑は悪辣な笑みを浮かべた。
「そうだ、彼女たちの尋問を忘れるところでした。ええと、何でしたっけ?」
促され、頭を垂れたまま、彼女たちは口々に言う。
「申し訳ございません。淑妃に命じられて貴妃に呪具を送ったのは私たちです」
「従わなければ家族を呪うと脅され、逆らえませんでした」
「蘭舟宮の下女のふりをして忍びこみ、呪符を貼りました」
「そうするしか無かったのです」
玉環は呆然とその様を見つめている。駒のように利用していた侍女たちが、自分を裏切る様を。
「ということだそうですよ、瓏玉環」
「違う、違うわ! こんな下賤なものたちの言い分が何になります。信用できませんわ。ねえ、陛下、私を信じて……」
憐れっぽく片手を差し伸べ、皇帝に語りかける。それをピシャリと撥ねつけたのは、劉貴妃だった。
「いいえ。私は芙蓉が懸命に呪いを探す姿をずっとそばで見ていました。だから私は芙蓉を信じられます。この娘は私を呪ってなどいませんわ」
「劉貴妃……」
芙蓉は胸元を押さえ、貴妃を見つめた。貴妃は優しく微笑み、親しみをこめて頷きかける。一転して厳しい顔つきになり、玉環を見下した。
「下賤のものは信じられぬと言うけれど、貴妃の言葉なら十分ではなくて?」
「この女……っ」
玉環は口汚く罵ろうとして、口を閉じた。皇帝の前で貴妃を侮辱するのは得策ではないと気づいたのだろう。代わりに如閑を睨め付け、
「……私の侍女たちに何をしたの」
地の底から響くような低い声で呻く。如閑は首を傾げた。
「特に何も。ただ、碧楼宮は解体されますから、就職先を斡旋しますよと言っただけですよ」
「そんな……そんなことで主人を裏切ったというの!?」
歯を剥き出しにして玉環が侍女たちを睨みつける。侍女たちは身を寄せ合いながら、汚いものを見るような眼差しを返した。
「私たちだって自分が大切なのだもの、仕方がないでしょう」
「先に脅してきたのはそちらでしょ? 文句を言われる筋合いはないわね」
「そもそも、ただ金子が欲しかったから侍女をやっていただけで、別に主人と思ったこともないわよ」
玉環が奥歯を噛みしめる。
「あんたたち……!!」
今にも侍女たちに掴みかかろうとしたとき、皇帝が足を鳴らした。
「くだらない争いはもう良い。さっさと退出しろ」
しっしと手を振ると、侍女たちは恭しく頭を下げながら引き揚げた。
芙蓉は眉をひそめる。本当に、碧楼宮には保身と虚栄と下心しかなかったのだ。
室が静まり返る。針の落ちる音も聞こえそうな静寂の中、突然、玉環が玉座を振り仰いだ。そのまま視線を横に流し、自分を裁こうとする面々を一人一人睨みつける。ついで大きなため息をついた。
「……これで終わりということ?」
「玉環」
芙蓉はたまらなくなって声をあげた。それに対し、玉環は憎々しげに芙蓉を見据える。
「お姉様、お分かり? ずっと昔から妖怪が見えるだの何だの言っていたけれど、それは私も同じだったのよ。だから自分で呪符を作ることができたのよ。でも侍女を使ったのは失敗だったわね。……私は馬鹿じゃない。わざわざ言いふらして周りの関心を得ようだなんて思わなかった。そんなことをしなくても私は特別だったから」
芙蓉は息を呑み、玉環の黒い瞳を見つめた。芙蓉と同じ色の瞳を。
「私はこの力を利用してやろうとしたわ。自分に備わったものを使って何が悪いの? 絵が上手いから絵描きになるのと同じじゃない。才能を活かしただけよ。その辺りの妖怪を捕まえて式にして、高官の弱みを握って淑妃にまで上り詰めた。笑っちゃうほど簡単だったわね。何よりこの美しさだもの、何とでもなったわ」
高慢な笑みを紅唇にのせる。しかし芙蓉の胸に去来するのは、ただの引き潮のような寂しさだった。
「……妖怪を捕まえるのは、恐ろしくはなかった?」
「……は」
玉環が笑おうとして失敗した。嘲笑するような、困ったような中途半端な表情で硬直する。
芙蓉は言葉を続けた。
「私は一人では妖怪に立ち向かえなかった。いつもひたすら自分の存在が消えるように念じてやり過ごしてきたわ。恐怖と悲鳴を噛み殺しながら。玉環だってそうでしょう」
「適当なこと言わないで! お姉様に何が分かるっていうのよ!!」
「分かるわよ。同じものが見えているのだから。この世ならざる理を生きるモノがどれほど恐ろしいか、私は知っている」
玉環は顔を歪め、芙蓉に向かって簪を投げつけた。それは弧を描き、芙蓉の足元に澄んだ音を立てて落ちる。
「……私はお姉様みたいに弱くないわ! 怖くなんてなかった。私は、私は……!」
「私、玉環と二人で手を繋いで恐怖をやり過ごしたかった。そうすればきっと、もっと楽に立ち向かえたわ」
「私は絶対にお断りよ。お姉様を囮にして逃げてやるわ」
「そう」
芙蓉は笑った。やっぱり、逃げるくらいには怖かったのだと思いながら。
けれどももう、全ては遠い夢だ。もはや二人の道が重なることはないし、手を繋ぐことはありえない。
「瓏玉環、罪を認めますか」
如閑の問いかけに、玉環は顔をしかめる。
「だいたいお前は何偉そうにそっち側に座っているのよ。本質的には私とお前は何も変わらないわ。分かってるの?」
「……そうかもしれませんね」
如閑は静かに頷いた。口を開こうとした芙蓉を制し、いっとう誇らしげに笑う。
「たぶん、あなたと拙との違いは、身近にあった善良な魂を、美しく思ったか否かの一点だけなのでしょう。あなたはそれを疎み、拙は愛した。それだけですよ」
玉環の眉根が寄せられる。まじまじと如閑の顔を凝視し、訝しげに呟く。
「あんたもしかして、昔うちの屋敷にいた……?」
その声に、芙蓉もハッとして如閑を見つめる。呪符に隠された右目の下は杳として知れないし、片眼鏡を外せばぐっと印象は変わるだろう。それに、こんなに目立つ白い髪の知り合いはいない。けれど、それらを全て取り払うと、記憶の片隅で何かが瞬きそうになった。
如閑が優しく笑う。手のひらでそっと芙蓉の目元を覆った。
「あなたは一生知らなくて良いのですよ」
それで閃きの尾を掴み損ね、もう何も分からなくなった。
皇帝が足を踏み鳴らす。一同は体勢を改め、皇帝に膝を向ける。
厳かに罰が告げられた。
「──瓏玉環を貴妃呪殺未遂の下手人として流刑に処する。連座として瓏家は断絶。ただし、瓏芙蓉は貴妃を守った功により免罪する。以上、異議のあるものは申し立てよ」
室内から声は上がらない。ただ一人、玉環が白い喉をそらし、肩を揺らして狂ったように笑い始めた。
「……連れていけ」
皇帝が苦々しげに兵士に命ずる。兵士に腕を掴まれても玉環は抵抗せず、室を出ていった。
「──瓏芙蓉」
皇帝に名を呼ばれ、芙蓉は背筋を伸ばした。真っ向から皇帝の視線を受け止める。その面持ちを見て、皇帝はふっと微笑んだ。
「ずいぶん良い顔をするようになったな。初めてこの室に呼びつけたときは、居るか居ないかも分からぬ有様だったが」
「お褒めいただき恐縮です」
「こうすると、一度も閨に呼ばず下賜するのは惜しいことだったかもしれないな」
「ああ……」
下賜のことが思い出され、芙蓉の表情が翳った。その様子を見て、皇帝が眉をひそめる。それから如閑の肩を叩いた。
「おい。お前の孺人はあまり喜んでいないようだぞ。大丈夫か朱太保」
「……朱太保!?」
ガバリと顔を上げ、食い入るように如閑を見つめる。如閑は気まずげに目を逸らした。
「陛下、早いです」
「は? お前まだ言ってなかったのか?」
皇帝がポカンと口を開ける。如閑はもごもごと、
「きちんと説明できる機会がなかったんですよ! じきに碧楼宮は解体されますから、劉貴妃の下へ行ってしまう前に下賜していただいたは良いものの、突然拙が太保なんですよと言うのも怪しいじゃないですか!?」
「まあ、確かにな」
皇帝は腕を組んで頷いた。この風体の異様な方術士が太保だとは誰も思うまい。任命した自分を棚上げして、彼は海より深く納得していた。
そうはいかないのは芙蓉である。下賜を聞かされてからの不安や如閑への掴みどころのない気持ちなど、繊細な感情がめちゃめちゃに踏み荒らされ、開いた口が塞がらない。痛む頭を両手で抱えて呻いた。
「つまり、私は如閑さまのもとへ輿入れするということですか?」
「……芙蓉姫がそれを望んでくださるならば」
如閑が神妙な顔つきで言うと、全員の視線が芙蓉に集まる。とりわけ如閑に穴の開きそうなほど強く見つめられているのを感じながら、膝の上で拳を握りしめた。目を閉じ、頭の中に渦巻く、掴みどころのない思いを捉えようとする。瞼を上げ、震える声でなんとか言葉を紡ぎ始めた。
「……私には、恋も愛も分かりません。今だって如閑さまのことは好いていますが、それが劉貴妃に対する好意とどう違うのかは説明できないんです」
室に気まずい沈黙が落ちる。皇帝が気遣わしげに如閑の肩に手を置いた。
「でも」
芙蓉は顔を上げる。無表情の如閑を真っ直ぐに見つめた。緊張で心臓が破裂しそうだった。
どうして如閑が芙蓉を望むのか。それは結局分からないままだ。如閑が知ってほしくないというなら、それで良い。いずれ知る日が来るかもしれないし、来ないかもしれない。
それよりも大切なのは、芙蓉がどうしたいかだ。それはもう決まっていた。蘭舟宮で過ごした宝物のようなひととき。そのきっかけをくれたのは彼で、自分でも蔑ろにしていた芙蓉自身を、初めて慈しんでくれた。それだけで十分だった。
芙蓉は決然と言い切った。
「──それでも、私の知らない感情を知るなら、如閑さまが良い。そう思います」
「……つまり?」
如閑の声が優しく促す。明らかに表情が和らぎ、安堵していた。それで芙蓉は、緊張していたのは自分だけではなかったのだと知った。笑みがこぼれ、肩から力が抜ける。
「喜んで、下賜を受け入れましょう。不束者ですが、よろしくお願いいたします」
如閑の両腕が伸ばされる。芙蓉は思いきりその腕に飛び込んだ。苦しいくらいに抱きしめられる。
「……一生をかけてあなたに教えます。だからどうか、もう二度と手の届かないところへ行かないように」
耳元で囁かれ、芙蓉はくすぐったくなって身をよじる。芙蓉を抱く腕の力が強くなった。
「返事は?」
「はい。私もそうしますから、如閑さまもそばにいてくださいね」
「……言われずとも」
如閑がそっと腕を解き、芙蓉の顔を覗き込んだ。甘やかに微笑み、
「最初からそのつもりです」
皇帝が呆れたように鼻を慣らした。
「瓏芙蓉、本当にこいつで良いのか? 尋問でもよく理解できたと思うが、この男は相当いかれている。俺にとっては手綱が取れて良いが、お前の人生は台無しじゃないか?」
貴妃も残念そうに頬に手を当てた。
「やっぱり蘭舟宮で働くのはどうかしら? みんな喜ぶと思うのだけれど」
「少し黙っていただいて良いですか!」
如閑が大声で遮る。その耳がほのかに赤い。何か思い当たる節があるらしい。芙蓉はまた笑い声を上げた。
「良いんです。自分で選んだ道に後悔はありません。何があっても、それはきっと、成したことの報いを受けるだけですから」
たった一度のことでも、焼きついて離れない一瞬がある。
その少年は、幼い頃からこの世ならざるモノがよく見えた。行く先々で気味悪がられ、流れ着いたのがとある貴族の下働きだった。
その屋敷には、娘が二人いた。一人は都でも評判の美しい少女で、もう一人は異様に影の薄い少女だった。少年にとっては、どちらも雲の上の存在だった。
その日は屋敷に呪いや妖怪が満ちていた。どうやら王宮から勅使が来て、娘を妃嬪にと望んでいるようだった。そいつらが持ち込んだモノらしい。少年は怯えて暗い室の隅で膝を抱えて震えていた。室の外を妖怪が這いずっていた。と、室に置かれた櫃の中から、ひょこりと頭がのぞいた。
「──誰かいるの」
少年は悲鳴を飲み込む。影の薄い娘だった。驚きと恐怖が渾然となって、ひっく、という嗚咽になった。
「ごめんなさい。驚かせるつもりはなかったの」
少女は櫃の中から抜け出して、少年の隣に座った。震える少年の手を握り、優しく微笑む。それで気づいた。少女の手も負けないくらい震えていて、冷たかった。
少女は少年の背をさすった。
「大丈夫。怖いモノも、誰かといれば乗り越えられるわ。一人ぼっちより、ずっと良いもの」
確かに、そうしていると恐怖が和らぐ気がした。いつになく落ち着いた気持ちで妖怪をやり過ごし、隙を見て室を抜け出す。少年は少女に訪ねた。またこうしてそばにいてもいいか、と。
けれど少女は首を振った。
「私は後宮へ行くわ。妹の下女として。だからもう会えない。……もっと早く出会えていれば良かったのにね」
さよなら、と手を振って、少女は背を向けた。
その一瞬が永遠よりも長く尾を引いて、今もまだ彼の目を灼いている。
〈了〉