二ヵ月後。
裏庭の木々の葉がすべて散り、かつてのひまわり畑が白銀に覆われた十二月のある日、俺は無事退院した。
痛熱病完治の原因は不明――とされている。
一応、定期的に検査に来るよう言われているが、その大半は医療貢献の意味合いが大きい。なんでも、発症中の検査データと完治後の検査データを比較し、その原因を突き止めるのだそうだ。いろいろな検査があるので正直めんどくさいが、彼女との思い出が詰まったこの場所に来れるのは嬉しいのでまんざらでもなかった。
「ふう。準備と整理はこんなところか」
お世話になったサイドボードを最後に確認し、パタンと引き出しを閉める。
もうしばらくしたら、バスの時間だ。迎えに行くと両親に言われたが、どうしても寄りたいところがあったので断った。渋い顔をされたが、帰ったらたくさん話をしようと言うと、なんだかんだで了承してくれた。
「行くか」
下に降りようと、着替えやタオルを入れたボストンバッグを背負った。
パサッ。
その時、肩にかけていたトートバッグから何かが落ちた。
「夏生……」
ボストンバッグを一度置き、俺はそれを拾う。
ひまわりが端々に咲いている、可愛らしい封筒。
彼女がくれた、退院後の俺に宛てた手紙…………いや、ちょっと違うか。
封筒を開け、二つ折りにされた便箋を取り出す。
――佳生へ
そんな宛て名に視線を滑らせ、手紙を開けると、
びょびょーん
という文字が飛び出した。
いや、決してふざけているわけではなく、文字通りに。
「……ったく、なんで退院後の俺に向けた手紙が飛び出す絵本みたいになってんだか」
小さく笑みを零しながら、揺れているその文字を見つめる。
まぁおそらく、落ち込んだ気持ちを察してのことなんだろうけど。それにしたって、もう少し何かなかったんだろうか。
一枚目はそれだけで、二枚目も一言だけ。
――タイムカプセルを埋めた木の裏側に、レッツゴー!
「ははっ……やれやれ」
手紙を畳んで封筒にしまい、ボストンバッグを再び担ぐと、トートバッグからイヤホンを取り出した。そして、何度も押した再生のボタンを、手探りで押す。
彼女とお別れした翌日。その「タイムカプセルを埋めた木の裏側」で見つけた箱に入っていた、ボイスレコーダーだ。
「あーあー。えー、本日は八月の……何日だっけ? えーっとー……まぁいいや! あれ? 今これ、音声入ってるのかな? 入ってるよね? うん、そうだと信じよう。
えー……コホン。佳生、退院おめでとう!
たまたま佳生のお母さんから、ぼいすれこーだあ? をもらったので、最後くらいは声でメッセージを届けたいと思い、録音しています。
あーでも。佳生のことだから、退院前に聞いちゃってそうだなあ。佳生、せっかちだし。最初に会った時も、早く用件を言えよこのやろうっ、とか急かしてきたしなー。佳生、もうちょっとのんびり生きないと、早死にするよ?」
んなこと言ってねーだろ、と心の中でツッコむ。
最初もグダグダだし、ボイスレコーダーは片言だし……なんだか、夏生らしい。
そんな懐かしさを感じつつ、俺は病室を出た。
「さて、この音声を聞いている時、私はあなたのそばにいないと思います。
もしかしたら、私のことを恨んでいるかもしれません。
本当にごめんなさい。
でも、私はどうしても、あなたのことを助けたかった」
イヤホンをしていない片耳からは病院のエントランスのアナウンスが聞こえ、今日も多くの人が来院していた。
エントランスでは先生と待ち合わせしている。
けれど。俺はその前に、どうしても寄っておきたい場所があった。
階段のすぐ前にある廊下を歩き、角を二回ほど曲がってから、見慣れた扉を静かに開け放つ。
「私はあなたのおかげで、本当に幸せでした。
あなたが裏庭でくれた名前――夏生。
嬉しかった。
本当に嬉しかった。
心の底から、嬉しかったです。
でも実はね。覚えてないみたいだけど、佳生と私は、昔に一度会ってるんだよ? その時にも、佳生は私に名前をくれたの。しかもね、なんとなんと同じ名前だったんだよ!
理由もだいたい同じで、佳生の名前から一文字くれたの。すごく驚いちゃった。
変わってないんだなーって、思いました。あ、でも、十歳の時から変わってないって、なんか面白いかも……ふふふっ。あーごめん! そんなつもりはこれっぽっちしか思ってないよ⁉ うん!
…………でも、変わってなくて良かったなーって……心の底から思います」
「これっぽっちは思ってたのかよ、あいつ」
今度会った時にどついてやろうか。……いや、また成長してないとか言われて氷像にされそうだからやめとこう。
葉が全て落ち、枝が目立つ裏庭には、もう夏の気配はなかった。
そして……冬であるにもかかわらず、彼女の気配もない。
一時期、俗世と離れたような雰囲気に惹かれてよくここに通ったものだったが、今は全くと言っていいほど、何も感じられなかった。
そこにあるのは、ただの冬の気配。
くたびれた芝の上には新雪が積もり、太陽の光を受けてキラキラと輝いていた。
「幼い頃に会って以来、私はあなたのことが気になっていました。
最初はただ、初めて名前をくれた大切な人でした。
でもある時、病院であなたを見て、痛熱病だと知りました。
あなたは日が経つにつれてどんどん生気を失くしてて、そんな様子を見るのがとても辛かった。
どうにか治して、そして――前みたいに笑ってほしい。
その一心で、あの日、私はあなたと再会しました。
覚えてなかったのはちょっとだけショックだったけど、それで良かったと思っていました。最初は一定の距離を保とうって、思ってたから。
雪女だって言う時は、正直ちょっと怖かったです。もしかしたら、今度は怖がられるんじゃないかって、逃げ出されるんじゃないかって、思ったから。
でもあなたは、雪女だってわかっても、変わらずに、普通に接してくれた。
嬉しかったよ。
人として、夏生として接してくれて、本当に嬉しかった……。
本当に、ありがとう」
病院内に戻り、エントランスに向かうと先生が出迎えてくれた。
無茶な外出届やお願いを何度もして困らせ、時には怒られもしたが、すごくいい先生だったと思う。そんなことを謝りつつ言うと、「生意気言うんじゃありませんっ!」と笑いながら𠮟られた。
でも、いつか俺も、こんな医者になりたい。
痛熱病を、今度は夏生みたいな雪女が出ずとも治るようにしたい。
いつか見た夢を、タイムカプセルを埋めた日に夏生に話した夢を、今度はしっかり叶えていきたい。
そう、思った。
「岡本くん。奈々ちゃん。
二人にも、本当は直接、いろいろ言いたかった。
いろんなお話をしてくれて、たくさん遊んでくれて、本当にありがとう。
そして、実は正体が雪女だって言えなくて、ごめんなさい。怖がらせたくなくて、嫌われたくなくて、二人とは最後まで友達でいたくて……隠してました。本当に、ごめんなさい。
みんなで一緒に過ごした時間は、思い出は、私の一生の宝物です。
…………なんか、しんみりしちゃったね。
よしっ、ここでひとつ、いやふたつだけ!
岡本くん。奈々ちゃんを泣かせちゃダメだよ? 岡本くんはどこか本音を隠してるところがあるから、心配だなー。もしケンカでもしようものなら、全力で仲直りさせに行くからね!
そして奈々ちゃん。岡本くんは意外と心が繊細なんだから、しっかり支えてあげてくださいっ! 多分だけど、それができるのは奈々ちゃんだけだと思います。そんな奈々ちゃんだからこそ、岡本くんも、好きになったんだと思うよ。自信、持ってね!
二人とも、いつまでも仲良しでいてください。
あ、佳生とも、仲良くしてあげてね!
雪女からの、お願いですっ」
先生と別れ、バス停まで歩いて行くと、ちょうどバスが到着したところだった。
「おっす! 霜谷!」
「退院おめでとう! 霜谷くん!」
今度は、座席に着く前に二人と目が合った。
岡本と佐原さんには、これを見つけたその日に呼び出して聞かせた。
二人ともいろいろ言っていたけど、号泣していてなんて言っているのかわからなかった。わかったのは、
「俺は絶対作詞家になって、雪村さんのことを、雪村さんの気持ちを歌詞にしてみせる!」
「私は小説家になって、夏生ちゃんのことを物語にする! もし文句があったら、今度会った時に、全部聞くから!」
という、去り際の言葉だけ。
二人とも、もう一度夏生に会えることを信じてくれている。
それがすごく嬉しくて、二人が帰った後に俺はひとりで泣いていた。
「霜谷! 今から、行くんだろ?」
岡本の言葉に、ふと我に返る。
「ああ」
二ヵ月ぶりの、バス旅だ。
「佳生と過ごす日々は本当に楽しくて、幸せで、かけがえのない大切な時間でした。
私は、佳生のことが好きです。
大好きです。
愛していると言っても、言い過ぎじゃありません。
今なら、織姫の気持ちもよくわかります。
愛する人とのお別れは、本当に辛くて、胸が張り裂けそうで、悲しい。でも、一年に一度だけでも会えるのは、正直羨ましいです。
織姫と彦星に願い事をするなら、
消えた後に一度だけ……もう一度だけでいいから、
佳生に、会いたいな。
……ふふっ。最後までわがままを言って、ごめんなさい」
岡本と佐原さんのイチャコラをBGMに、俺はそっと目を閉じた。
俺たちが今から向かうのは、示ヶ丘キャンプ場。
だがもちろん、キャンプではない。
こんな時期にキャンプでもしようものなら、彼女に会いそうだから。
……いや、本当に会えるのならそれもいいかもしれない。
いつかのやり取りを思い出して、俺は短く笑った。
「佳生と歩いたひまわり畑は、私のお気に入りの場所でした。
佳生との思い出がたくさん生まれた、大切な場所です。
ひまわりも、私の大好きなお花です。
だから、そんなひまわりにまつわるプレゼントを、佳生のために作りました。
それは、私からの、最初で最後の贈り物です。
どうか、大切に使ってください」
ボイスレコーダーが入っていた箱には、一緒に小さな袋が入っていた。
中を開けると――ミニひまわりの押し花でできた栞があった。
夏生は、昔の思い出を大切に覚えていてくれた。そのことに、俺は嬉しさもさることながら、忘れていた自分に心底腹が立った。
でも、もう忘れない。
初めて会った日のことも、その後に再会して築いた思い出も。絶対に……。
「それと、奈々ちゃんから聞いたんだけどね、ひまわりの花言葉も好きなんだ。その花言葉をふたつ、一緒に贈ります。
ひとつめは――私は、あなただけを見てる
ずっと、ずっと見守っています。
幸せになってください。
あなただけの、幸せをつかんでください。
幸せにならないと、氷漬けくらいじゃ許さないからね!」
ボイスレコーダーと一緒に、俺はひまわりの栞をそっと握りしめた。
「それと、もうひとつ――未来を見つめて
生きることを、諦めないでください。
未来はきっと、きっと大きな希望で満ち溢れています。
過去ばかり振り返らないで。
佳生には、未来を見つめていてほしいです。
キャンプの日の夜、契約の後のことを聞いてくれて嬉しかった。私とのこともそうだけど、佳生が、生きることを諦めかけていた佳生が、未来を見つめてくれた。
そのことが、本当に嬉しかった。
これからも、未来を、見つめ続けていてください」
閉じていた目を、そっと開けた。
「私の人生は、ずっと孤独でした。誰とも関わり合うことなく、ひっそりと終わるのだと、そう思っていました。
でも、あなたと出会って変わりました。
佳生と出会えて、私の人生は孤独から解放されました。
佳生のおかげで、私は全然寂しくなかったです。
消える時も、絶対満たされた気持ちでいっぱいだったと思います。
ただ、最後にひとつだけ、お願いがあります。
私は、夏空の下以外でも生きてみたかった。
春も、秋も、冬も。佳生と、みんなと一緒に生きてみたかった。
この世界がどんな世界なのか、もっともっと知りたかった。見たかった。感じたかった。
だから、私の代わりに、佳生が生きて、知って、見て、感じてください。
そして、笑ってください。
それだけで、私は満足です。
これが私との、最後の契約……ううん、一生のお願いで、約束です。
最後まで……最後の最後まで、自分勝手で、わがままで、ごめんね。
ほんとに、本当にありがとう……!」
耳から聞こえる彼女の声は震えていて、俺の視界も薄っすらと、ぼやけていた。
「ずっと話していたいけど、もうそろそろ終わるね。
私は、悲しいのは好きじゃありません……。だから最後は……ぐすっ……最後くらいは、私らしく締めたいと思います。
……コホン。私は、そもそも人間じゃありません! 見くびってもらっちゃあ困ります。
私は雪女なの。こわい、こわーい妖怪なの!
つまり! たぶん、おそらく、きっと! また出没します!
雪はね、溶けて消えても、また雪になって降るんだよ!
もし、次会った時にみんなが未来を向かずに幸せになってなかったら……氷漬けにします。本気です。そして千年は解放しません。
わかった? わかったら、前を向いて、ほらっ!」
バスを乗り継ぎ、全てが、本当の意味で始まった場所へと降り立つ。
「私の、雪村夏生の一生は、最高に幸せだった!
今度は、みんなの番だよ?
大好きな……かけがえのない、
佳生と、
岡本くんと、
奈々ちゃんの幸せを、
心から……
心の底から、
願っています!
悔いなく、生きてねっ!」
涙は、流れなかった。
だから、俺は笑って、青空の下に広がる白銀の世界へと一歩踏み出す。
「さて。退院報告、しないとな!」
「ああ!」
「だね!」
――夏生より
彼女もきっと笑っている、そう思った。
*
局所的な曇り空の下。
「あんな別れ方をしたのにな……。消える時期、間違っちゃったかな」
冬は、雪が降る季節。
「まっ、いっか!」
そんな明るい声とともに。
また冬が始まり、そして――夏が始まる。
《fin》