*




 私は、自分の目を疑った。
 だってここは……この場所は、私と、子どもの頃の佳生しか、知らない場所だから。

「やっぱり、ここに、いたのか」

 相好を崩し、彼はそう言った。そしてゆっくりと、私の方に向かってくる。

 なんで、どうして……?
 彼は、七年前のことをすっかり忘れていたはずなのに。
 私は、あなたの前から一方的に逃げ出したのに。
 あなたのことを、あんなに苦しめて、あんなに悲しい顔をさせたのに……。

 いつかの夜のことが、脳裏に浮かんだ。

 ――夏生っ!

 あなたがくれた、私の名前を呼ぶ声。その時の顔は、今でも忘れられない。今までみたことがないくらい歪んでいて、潤んだ黒い瞳に映った私は大きく揺れていて、悲痛な感情が詰め込まれた声はかすれていて……。私はそれ以上聞いていたくなくて、発作を抑えるとともに佳生の体温を下げ、眠らせた。

 その後も、私は深夜にたびたび病室を訪れた。
 少しずつ、少しずつ、彼の病根を消滅させるために。
 佳生は起きなかったけど、いつもうなされていた。苦しそうに手を伸ばして、私の名前を呼んだ時もあった。

「夏生。やっと、会えた……」

 私のすぐそばまで歩いてきた直後、彼の体が大きく傾いた。

「佳生っ!」

 日光と気温のせいで体が異常なくらい重かったのに、その時の私は咄嗟に動いて彼を抱きとめていた。ふわりと、少し汗っぽい匂いが鼻先をつついた。遅れて、彼独特の、安心する香りが私を包み込む。

 ……でも、私は安心するどころか、愕然とした。彼の体温が異常に高かったから。

「佳生!」

 名前を呼んでも、返事がなかった。彼の体には力が入っておらず、意識を失っているようだった。

「くっ……!」

 彼をそっと横たわらせると、うなじと胸に手を当てた。

 ――佳生の病気は私が治すから心配しないでね

 いつかした約束を果たすべく、私は指先に力を込めた。




    *




 日差しが、眩しい。
 目の前をちらつく陽光に、俺は目を細める。
 いつだったか。夏生と一緒に歩いたひまわり畑でもこんなふうだったけな、とぼんやりした頭で思った。あたり一面に広がるひまわり畑に興奮して、白いワンピースを翻して喜んで、病気で沈んでいた俺の気持ちを明るくさせてくれた、そんな夏生が…………夏生?
 そこで、まどろみの中にあった思考が一気に覚醒した。

「夏生っ!」

「きゃっ⁉」

 勢いよく飛び起き……そして、額に衝撃を受けた。

「痛ってて……」

「っ~~……もう佳生! いきなり飛び起きないでよ!」

 頭を押さえ、涙目になりながら彼女は恨み言をあげた。

「え、え?」

 おでこの痛みのせいだろうか。状況が呑み込めず、俺はあたりを見回した。
 天まで伸びる常緑樹に囲まれ、風を受けて揺れ動くミニひまわり畑。遅咲きの野草だからか、そのサイズは知っているミニひまわりよりもさらに一回り小さい。上を見上げれば、そこには突き抜けた青空が広がっており、温かい日差しが優しく降り注いでいた。
 まるでここだけが、切り取られた夏であるかのように。

「ようこそ。私の秘密の場所へ」

「あ……」

 ――ようこそ! 私の秘密の場所へ!

 いつの日かの彼女の言葉と面影が、ぴったりと重なった。

「ひどいよね。雪女との真夏の出会いを忘れちゃうなんて」

 夏生は座ったまま、むくれたように言った。

「いや、十歳のことなんて普通ほとんど覚えてないって」

「えーそうかなぁ」

「そうだよ」

 なんだか照れくさくって、俺は目を背けた。陽の光を受けて輝く雪のように夏生は光っていて、とても綺麗だったから。

「あれ? そういえば、岡本と佐原さんは?」

 二人の姿が見えないので、俺は立ち上がりつつそう聞いたが……

「あっ、危ない!」

 バランスを崩し、彼女の方へと倒れ込んだ。

「あれ……?」

 足に、体に、思ったように力が入らない。

「相当無理してここまで来たでしょ? ダメだよ、佳生。まだ完全に治ってないのに」

 夏生は俺を抱きかかえるようにして受け止め、そのままゆっくりと寝かせてくれた。……なぜか頭は、膝の上だったけど。

「お、おい……」

「ふふっ。そんなに照れなくってもいいんじゃない?」

「うるせー」

 目の前には、反転して見える彼女の顔。青い瞳に、真っ白な肌と髪。何度も見てきたのに、一段と輝いて見えるのはなぜだろう。

「それはそうと、岡本たちはどこに行ったんだ?」

 やっぱり恥ずかしくて、俺は視線を逸らしつつ聞いた。

「んー帰ったよ?」

「は⁉」

 帰った⁉ あんなに長時間探して、やっと見つけたのに?
 衝撃的な内容に、俺は思わず聞き返していた。

「私がね、佳生と二人っきりになりたいってお願いしたから」

「えっ⁉」

 ちょっと待て。それはそれでかなり緊張する……。ただでさえ、今は夏生の顔を直視できないのに。
 彼女の膝の上でうろたえていると、我慢できなくなったように夏生は吹き出した。

「……ぷっ、あははは! 冗談だよ~もう」

 そんなわけないじゃんかー、と彼女は笑い続ける。くそ、久しぶりに会ったからって遊びすぎだろ。そう心の中でぼやいてみるも、どこかそれを心地よく感じる俺がいるのも、また事実だった。

「それで? 本当のところはどうなんだよ?」

 一向に笑い止む気配がないので、不満の意味も込めてぶっきらぼうに聞いた。

「ふふふ、ごめんね。二人にはね、少しだけ席を外してもらってるの」

「席を?」

「うん。二人っきりで話したいってお願いしたのは、本当だから」

 今度は悪戯っぽくない、純粋な笑顔を浮かべて、彼女はそう言った。
 見慣れた笑顔のはずなのに、それはとても愛おしく感じた。

「……そっか」

 やっぱり夏生には敵わないな、と思った。どこまでも素直で、真っ直ぐで、相手の心を暖かくしてくれる。雪女なのに、雪女っぽくなくて。彼女がくれる冷たさには、暖かさがあって……。

 そんな夏生だから……俺は好きになったんだ。