「はぁ……はぁ……こ、ここまで来れば……大丈夫、だろ……」

 肩で息をしつつ、後ろを振り返る。追いすがってくる人もなければ、物音も聞こえない。どうやら、完全に撒いたみたいだった。

 俺と夏生がいるのは、人気のない職員専用の駐車場。西側の階段を下り、職員専用通路と書かれた扉を開けて出ると、この場所だった。
 幸いにも、これからまた忙しくなるショッピングモールにおいて帰宅する人は少ないらしく、そこには誰もいなかった。俺たちはそのまま駐車場を突っ切り、隅の方にある茂みの裏へと身を潜めていた。

「はぁ、はぁ……ごめんね……佳生」

 彼女らしくない力ない声が、俺の耳に入ってくる。

「気にすんなよ。それより早く、今のうちに耐性もらえって」

 いつ誰に見つかるかわからない。そんな焦りに駆られ、俺は夏生を急かした。

「いやでも! 奈々ちゃんが、まだ見つかってなくて……!」

 途端に、彼女は小さく叫んだ。フードの下から、青い瞳が顔をのぞかせる。

「私、勢いで仲直りを勧めて……よく考えもしないでこんな提案しておいて……」

 目元に溜め込んだ雫が一滴、白いパーカーに吸い込まれていく。

「岡本くんと奈々ちゃんにまた辛い喧嘩させて……」

 言葉とともに二滴、三滴と染みをつくり、それは広がっていく。

「このまま奈々ちゃんが見つからなかったら……二人が離れちゃったら……私……」

「大丈夫! 大丈夫だからっ!」

 一息に話し、泣きじゃくる彼女を、俺は慌てて抱きしめた。ひんやりとした感触が、布越しに俺の肌に触れる。

「佐原さんは屋上で見つけたから、だから……大丈夫」

 子どもをあやすように、俺は彼女の背中をさする。それは小さくて、華奢で、普段の彼女からは想像もできないくらい弱々しかった。

「岡本も呼んだし、二人が仲直りできたかはわからないけど、きっと大丈夫……」

「ほ、ほんと……?」

 俺の腕の中で、彼女が顔だけをこちらに向けてきた。その拍子に、パーカーのフードがさらりと脱げ落ち、彼女の素顔が露わになる。

「ああ。だから、耐性をもらって、二人のところに行こう?」

 綺麗だな、なんて思いながら、俺は笑いかけた。

「……うん」

 それに応えるかのように、彼女は俺が大好きな笑顔を浮かべた。間近で見る彼女の表情は眩しくて、全身で冷気を受けているのに、体中がひどく暑かった。……そして心の中は、とても暖かかった。

 やっぱり、俺は――。

 もっとよく見たくて、視界に焼き付けたくて、さらに顔を近づける。

「え……⁉」

 驚いたような声が聞こえた。けど、抵抗はされなかった。
 もっと、もっと……。

「……これ以上は、ダメだよ」

 その時、俺の口元に人差し指が添えられた。

「どうして?」

「……どうしてもっ」

 そう言うと、パッと夏生が後ろに跳んだ。芝の上に着地した弾みに、近くに留まっていたトンボが空へと舞い上がる。
 そのトンボの動きを追うように、俺は顔を上げた。

「夏生……?」

 視界に入った、彼女の表情。
 そこには、さっきまでとは違う微笑みがあった。
 キャンプでの夜の、彼女の表情が重なった。
 あの時と同じ、俺の知らない、夏生の笑顔だった。

「こうなっちゃったら、もう仕方ないよね……」

 夏生の視線が、俺の背後に向けられた。
 それにつられて、振り返る。

「岡本……佐原さん……」

 いつの間にいたのか。そこには、呆然と立ち尽くす二人がいた。

「ご、ごめん。その、えっと……」

 言葉にならない空気が、彼の口から出たり入ったりしている。

「夏生ちゃん……」

「奈々ちゃん。仲直りできたみたいで、ほんとに良かった」

 岡本と佐原さんの手は、さっきまでの俺たちと同じように、固く繋がれていた。それを見て、夏生は馴染み深い笑みを短く浮かべた。

「もう、思い残すことはないよ」

「夏生っ!」

 俺が一歩踏み出したのとほぼ同時、彼女はすぐ後ろにある林の中に駆け込んだ。
 佐原さんの時の教訓を活かしてすぐに走り出せたのは良かったと思う。
 でも、体に突如走った痛みと熱は、疲れ切った俺の意識を容易に刈り取っていった。