次に灰姫が起きたのはもう昼時だった。
明晶の祖父母の屋敷での歓待でまだ胃がもたれていた。
簡単な汁物で食事を済ますと、皇后から呼び出しがあった。
緊張しながら李燈を伴い、皇后の部屋へ向かった。
「ようこそ、ああ、剣は外させなくてよろしい。ここで一番に偉いのはもうわたくしではないのだから。お前達もわきまえなさい。この方が新しいここの主です」
皇后は李燈を留めようとした兵にそう声をかけると、灰姫に椅子を勧めた。
「今日からこの後宮の全権をあなたに委任します。皇帝陛下と明晶殿下からの言い付けです」
「……お、恐れ入ります」
「わからないことがあれば、なんなりと。異国のお方ですから、わからないことはいくらでもありましょう」
「恐れ入ります」
「ふう……」
灰姫の同じ返事に不満げに皇后はため息をついた。
灰姫は肩を震わせたが、それ以上、皇后は特に文句もつけなかった。
「……これが後宮の図面です。予定ですが」
皇后の言葉に三十路ほどの女官が紙を持ってくる。
広げられた紙にはいくつかの四角が描かれていた。
「ここが私達のいる明央殿。隣のこれが明叔殿、完成したらわたくしが移り住む予定です」
「は、はい」
皇后は続けて、後宮の建物を一個一個解説してくれた。
それを終えると、紙を持ってきた女官を皇后は示した。
「こちら女官の春英です。わたくしの元についてまだ二年ですが、間違いなく才媛です。あなたにつけます」
「春英にございます」
春英は拱手の形を取った。
「よ、よろしくおねがいします」
灰姫は慌てて頭を下げる。
「明晶殿下の後宮を頼みましたよ」
「はい……」
皇后の部屋を辞する頃には体中に汗をかいていた。
灰姫は自分の部屋に戻ると、さっそく春英と卓を囲んで、これからのことを話し合うことにした。
「ええと、春英殿……わ、私、何から始めればよろしいかしら……」
「皇后陛下が今まで割り振られてきた役職図がこちらにあります」
春英は複数人の宮女に大量の巻紙を持たせてきていた。
「まずはこれを埋めることから始めればよろしいかと。私は皇后陛下の侍女頭となっていますが……これは良皇后陛下ではなく、新しい皇后陛下のことを想定されていたようです。つまり明晶殿下に嫁がれる灰姫様のことですね」
「そう……私の……」
「どうされます? まずは兵の筆頭に……その方を置きますか?」
春英は李燈を、いや、李燈の剣に目を留めた。
「どうやら王太子殿下からの信も厚いようですし」
「と、とりあえず……いえ、この後宮に配置される兵で……大済国の兵で偉い方は?」
「でしたら司将軍になります」
「その方を置きましょう。李燈は……私の側付で……」
「はい」
春英は紙にさらさらとその人事を書き付けていく。
「他にも連れてこられた方々がいますね」
「え、ええ。そういえば景美人さまと項成様は?」
「今は明央殿の客室にお通ししていますが……どうします、屋敷を一つ与えましょうか。それとも後宮の外に住んでもらいましょうか」
「……そ、そうね。どこがいいのかしら……」
「どちらにしても皇后陛下となるお方の弟君となれば、それ相応の居住を用意するべきですね」
「と、とりあえず、後宮の中に……。景美人さまにはこれからも力になっていただきたいし……」
「明晶殿下に景美人さまを妃嬪として迎えるかどうかお訊ねするのがよろしいかもしれませんね」
「……え、ええ。そうね、そうするわ」
妃嬪。明晶は自分を皇后にと言ってくれたが、まさか妃を一人しか娶らないということもあるまい。
景美人と明晶の寵愛をかけて渡り合うことになるかもしれないと思うと、勝てる気がしなかった。
景美人はまだ二十代も半ばだ。明晶の妃として並んでも遜色はないだろう。
「…………」
春英はしばらく逡巡する灰姫の様子をうかがっていたが、結局、何も言わずに紙をしまわせた。
「では、わたくしは近くの部屋に控えていますので、何かあったらお呼びください」
「あ、あの、春英殿」
「はい」
「お願いがあるのですけれど……」
「なんなりと」
「も、文字を、教えてください……」
灰姫はうつむいた。十歳の頃からうち捨てられて、生きてきた灰姫は簡単な文字しか読み書きができなかった。今までそれで困ることはなかったが、皇后や春英がさらさらと文字を読んだり書いたりする様に、それではいけないと思い至った。
「……まあ」
春英は目を見開いた。
「……わかりました」
しかし、それ以上余計なことは言わずに春英はうなずいた。
「この国のことを教えるのと同時に、文字の勉強もいたしましょう。なに、読み書きなどできなくとも皇后になった方はいくらでもいますよ」
慰めるように春英はそう言って、今度こそ去って行った。
「……ふう」
灰姫はため息をついた。
「俺もろくに文字は書けませんよ。宦官の中でも文官としてではなく武官として雇われましたから」
李燈が慰めるようにそう言った。
「李燈……。私ね、李燈の名前なら書けるわ。いつだったか高台に教わったから」
文官の宦官である高台もまた、ここまでついてきている。
「そ、そうでしたか」
李燈が少し照れたように笑った。
「……でも、困ったわね、私、明晶殿下の名前が書けないと思う」
灰姫は落ち込むようにそう言った。
「……妃になるのにね」
灰姫はどこか自嘲的な笑みを浮かべた。
明晶の祖父母の屋敷での歓待でまだ胃がもたれていた。
簡単な汁物で食事を済ますと、皇后から呼び出しがあった。
緊張しながら李燈を伴い、皇后の部屋へ向かった。
「ようこそ、ああ、剣は外させなくてよろしい。ここで一番に偉いのはもうわたくしではないのだから。お前達もわきまえなさい。この方が新しいここの主です」
皇后は李燈を留めようとした兵にそう声をかけると、灰姫に椅子を勧めた。
「今日からこの後宮の全権をあなたに委任します。皇帝陛下と明晶殿下からの言い付けです」
「……お、恐れ入ります」
「わからないことがあれば、なんなりと。異国のお方ですから、わからないことはいくらでもありましょう」
「恐れ入ります」
「ふう……」
灰姫の同じ返事に不満げに皇后はため息をついた。
灰姫は肩を震わせたが、それ以上、皇后は特に文句もつけなかった。
「……これが後宮の図面です。予定ですが」
皇后の言葉に三十路ほどの女官が紙を持ってくる。
広げられた紙にはいくつかの四角が描かれていた。
「ここが私達のいる明央殿。隣のこれが明叔殿、完成したらわたくしが移り住む予定です」
「は、はい」
皇后は続けて、後宮の建物を一個一個解説してくれた。
それを終えると、紙を持ってきた女官を皇后は示した。
「こちら女官の春英です。わたくしの元についてまだ二年ですが、間違いなく才媛です。あなたにつけます」
「春英にございます」
春英は拱手の形を取った。
「よ、よろしくおねがいします」
灰姫は慌てて頭を下げる。
「明晶殿下の後宮を頼みましたよ」
「はい……」
皇后の部屋を辞する頃には体中に汗をかいていた。
灰姫は自分の部屋に戻ると、さっそく春英と卓を囲んで、これからのことを話し合うことにした。
「ええと、春英殿……わ、私、何から始めればよろしいかしら……」
「皇后陛下が今まで割り振られてきた役職図がこちらにあります」
春英は複数人の宮女に大量の巻紙を持たせてきていた。
「まずはこれを埋めることから始めればよろしいかと。私は皇后陛下の侍女頭となっていますが……これは良皇后陛下ではなく、新しい皇后陛下のことを想定されていたようです。つまり明晶殿下に嫁がれる灰姫様のことですね」
「そう……私の……」
「どうされます? まずは兵の筆頭に……その方を置きますか?」
春英は李燈を、いや、李燈の剣に目を留めた。
「どうやら王太子殿下からの信も厚いようですし」
「と、とりあえず……いえ、この後宮に配置される兵で……大済国の兵で偉い方は?」
「でしたら司将軍になります」
「その方を置きましょう。李燈は……私の側付で……」
「はい」
春英は紙にさらさらとその人事を書き付けていく。
「他にも連れてこられた方々がいますね」
「え、ええ。そういえば景美人さまと項成様は?」
「今は明央殿の客室にお通ししていますが……どうします、屋敷を一つ与えましょうか。それとも後宮の外に住んでもらいましょうか」
「……そ、そうね。どこがいいのかしら……」
「どちらにしても皇后陛下となるお方の弟君となれば、それ相応の居住を用意するべきですね」
「と、とりあえず、後宮の中に……。景美人さまにはこれからも力になっていただきたいし……」
「明晶殿下に景美人さまを妃嬪として迎えるかどうかお訊ねするのがよろしいかもしれませんね」
「……え、ええ。そうね、そうするわ」
妃嬪。明晶は自分を皇后にと言ってくれたが、まさか妃を一人しか娶らないということもあるまい。
景美人と明晶の寵愛をかけて渡り合うことになるかもしれないと思うと、勝てる気がしなかった。
景美人はまだ二十代も半ばだ。明晶の妃として並んでも遜色はないだろう。
「…………」
春英はしばらく逡巡する灰姫の様子をうかがっていたが、結局、何も言わずに紙をしまわせた。
「では、わたくしは近くの部屋に控えていますので、何かあったらお呼びください」
「あ、あの、春英殿」
「はい」
「お願いがあるのですけれど……」
「なんなりと」
「も、文字を、教えてください……」
灰姫はうつむいた。十歳の頃からうち捨てられて、生きてきた灰姫は簡単な文字しか読み書きができなかった。今までそれで困ることはなかったが、皇后や春英がさらさらと文字を読んだり書いたりする様に、それではいけないと思い至った。
「……まあ」
春英は目を見開いた。
「……わかりました」
しかし、それ以上余計なことは言わずに春英はうなずいた。
「この国のことを教えるのと同時に、文字の勉強もいたしましょう。なに、読み書きなどできなくとも皇后になった方はいくらでもいますよ」
慰めるように春英はそう言って、今度こそ去って行った。
「……ふう」
灰姫はため息をついた。
「俺もろくに文字は書けませんよ。宦官の中でも文官としてではなく武官として雇われましたから」
李燈が慰めるようにそう言った。
「李燈……。私ね、李燈の名前なら書けるわ。いつだったか高台に教わったから」
文官の宦官である高台もまた、ここまでついてきている。
「そ、そうでしたか」
李燈が少し照れたように笑った。
「……でも、困ったわね、私、明晶殿下の名前が書けないと思う」
灰姫は落ち込むようにそう言った。
「……妃になるのにね」
灰姫はどこか自嘲的な笑みを浮かべた。