後宮を守る九竜あやかし妃 -不幸の娘は妃になって愛される-

 常夜の霄で暮らしていた星蔡にとって、八年ぶりの太陽は眩しく感じた。霄がじめついたのに比べ、永は自然豊かで緑色が濃い。特に永の宮都(みやこ)中心にある宮廷は、花や緑が豊富で色鮮やかだ。
 呉星蔡は妖妃として迎えられ、その宮は霄妖(しょうよう)(きゅう)と名付けられた。
 だが霄妖宮に仕える者は少なかった。書に残らぬ国であった霄の名を冠した宮であることから、妖妃を恐れたのだ。あやかしの妃であると噂する者も少なくない。

「あ、あの……妖妃様……」

 霄妖宮の宮女長となった()寧明(ねいめい)もそのひとりだった。妖妃の元へやってくるたび彼女は怯えている。星蔡は彼女の恐怖心に気づかぬふりをし、笑顔で問う。

「どうしたの?」
「そ、その……陛下からの文が……」

 文を載せた盆までかたかたと震えている。星蔡が文を手に取ると、速やかに拝礼し、逃げるように部屋を出て行く。

(そこまで怖がらなくてもいいと思うけど)

 寧明が去って扉は固く閉まる中、星蔡はため息をついた。
 (とう)に腰掛けて文を開こうとすると、水盤の上からもぞりと小さなものが動いた。
 それは小亀の大きさまで小さくなった負屓(ふき)だった。星蔡が心配だからとついてきてしまったのである。人間たちに恐れられぬよう体を小さくし、周りに人がいない時は亀らしく振る舞って口を閉ざしている。外に出る時は袖に隠れたりと、彼なりに永の生活に気を遣っているようだ。
 負屓は部屋に誰もいないことを確認した後、水盤から這い出る。

「それなに?」
「陛下からの文だよ」
「うわ。ぼく、あいつきらい」

 ()奉遜(ほうそん)は霄で名乗った通り、永の帝だった。とはいえ九竜とっては、突然現われて妹を拉致していった男だ。九竜からの評価は低い。
 うえ、と顔をしかめる負屓を宥めつつ、星蔡は文を開く。そこには夕刻に挨拶にくる旨が記されていた。

「なんて書いてあるの?」
「陛下が会いにくるみたい」

 負屓は芸術を好む。特に好むのは文学だ。今回は負屓の好みに合わなかったようで「はずれだなあ」とぼやきながら水盤に戻っていった。
 星蔡は腕輪を一撫でした。この腕輪は霄を出る時に九竜から送られたものだ。九つの珠が埋め込まれ、これを用いれば、目の前にいなくとも九竜の力を借りることや会話をすることができる。

「ぼく、星蔡についてきてよかったよ」

 水盤からひょこりと顔だけ出して負屓が言ったので、星蔡は首を傾げた。

「どうして?」
「だってここはさみしいもん。さっきのおねえさんだって、星蔡がこわくてすぐ隠れちゃうし」
「そうね……でも負屓や兄さん姉さんがいるからさみしくない。国が違ってもこの腕輪があれば繋がっていられる」

 確かにこの場所はさみしいと、星蔡も思う。怖がられ遠ざけられるというのは悲しい。だが、嘆いてばかりではいられない。
 霄を守りたい。そのためにも、永にいるというあやかしや鬼火について調べなければ。


 夕刻。奉遜がやってきた。侍従を従えて現われたが、人払いをしたので部屋には星蔡と奉遜の二人しかいない。奉遜は負屓のことを知っているので、水盤から出して肩に乗せる。星蔡は負屓とともに奉遜の対応にあたった。

「永の国はどうだ、妖妃よ」
「馴染むのは時間がかかりそうです。陽光も眩しくて」

 素直に答えると、奉遜は小さく笑った。

「光の下に出るのが、懐かしいとは思わなかったのか」
「それは、ありますけど」

 確かに懐かしいとは思ったが、しかしどうも引っかかる。

(色々と事情があって霄にいた人間と話したのに、陛下はわたしが永の出身であることを知っている?)

 奉遜には、霄で暮らすことになった詳細を明かしていないのだ。彼が知っていることを疑問に思うが聞く隙はなく、その瞳がこちらを向く。

「今日は鬼火の件について、少し話しておこうと思ってな」

 名目上は夫婦であるはずが、淡々とした物言いにそれは感じない。いまだ妃らしいことは何もなく、それどころか後宮には星蔡以外の妃もいた。

(形式として、妃に迎えただけだろうな)

 愛や恋だの夢を見てはいないが、嫁ぐという単語から身構えていた星蔡は空振りを食らったような心地だ。
 星蔡の任は、永に逃げていったあやかしについて調べ、鬼火の害を祓うことである。妃という立場はただの名目だ。

「まず鬼火が確認された場所は宮都――特にこの後宮だ」

 これには星蔡も驚いた。てっきり遠くの村や里で被害が出ているものと思ったが、人の多い宮都の、それも厳重な守りを敷いている後宮で多く出ていると言うのだ。

(いくらあやかしといえど、人間が多くいる場所に忍びこむのは難しいはず)

 強い妖術を持つ妖は人間に化けることができるが、霄のあやかしは人間を恐れることが多い。これほど人が多い場所に好んで忍びたがると思えなかった。

「後宮には四人の妃がいたが、いまは二人ほど後宮を出て、静養地にいる。現在は二人しか残っていない。妖妃を迎えたから三人になったがな」

 奉遜は即位してから日が浅く、永の民は若き皇帝陛下に期待を寄せていた。世継ぎがいないのもあり、後宮には美しい娘が集められている。

「どうして二人の妃は静養地へ?」
「鬼火に襲われたのだ。一人は足を大火傷し、もう一人は顔に怪我を負った」

 鬼火を呼び出せるのは妖術、つまりあやかしだけである。それがどうして妃を狙うのか、理由は見当がつかなかった。
 しかしひとつわかることがある。

「なるほど。これがわたしを妃にした理由ですね」

 鬼火を祓うだけならば妃にならずともよい。しかし後宮で起きているとなれば、後宮を自由に動ける立場の方がよい。妖妃として迎えた意味が納得できた。
 そう考えて星蔡は告げたのだが、なぜか奉遜は苦笑していた。

「まあ、そういうことにしておこう」
「……ということは他の意図があるのでしょうか」

 星蔡の問いに答えようと奉遜が口を開こうとし、その瞬間だった。

「きゃあああ、だれか!」

 庭から悲鳴が聞こえた。女人の悲鳴だ。
 星蔡が立ち上がるのと同時に腕輪が光った。第三子・嘲風(ちょうふう)の宝玉が白く光り、声が聞こえる。

『霄妖宮の庭に鬼火が出ている。人間の女が襲われている、急げ』
「わかった。いますぐ向かうね」

 嘲風は遠視を得意とする狗竜だ。霄からでも星蔡の様子を見守っているのだろう。
 星蔡と奉遜は、急ぎ庭へ向かった。


 庭に碧の鬼火があった。勢いよく燃える鬼火は庭から霄妖宮へと近づこうとし、その先に宇寧明の姿があった。宮の壁に背をつき、腰を抜かしている。鬼火は彼女を囲むようにして広がり、逃げ道は断たれていた。
 他の宮女も水桶を持って集い、寧明を救うべく炎に水をかけているが、相手は人知を超えた妖術の炎。人間が水をかけても鬼火は消えない。

「寧明、いま助けるよ! 他の人は離れて」

 星蔡は叫び、宮女らの前に立った。鬼火に近づけばその熱さを肌に感じる。星蔡は腕輪を一撫でした。

「九竜は第九子、鴟吻(しふん)

 名を呼ぶと、鴟吻の宝玉が金色に光った。

「お願い、あの鬼火を消して欲しいの」
『わかったわ。任せてちょうだい』

 宝玉から伸びた光が、竜魚・鴟吻の姿を映し出した。本体は霄にいるのでこれは妖術が送り込まれただけ。鴟吻は鬼火に向けて、かぱりと口を開く。瞬間、竜魚の口から鬼火めがけて水が放たれた。
 鴟吻は、水や雨に関する妖術を得意とする。妖術で呼び寄せた水は鬼火を包み消していく。

 すべての鬼火を消すと腕輪の光は消えた。星蔡は壁にもたれている寧明の元に駆けつけた。

「怪我はない?」

 鬼火に襲われて恐ろしかったのだろう、顔は血の気を欠いている。一人では立ち上がれぬだろうと星蔡が手を差し伸べたが、寧明は体を震わせるだけで手を取ろうとはしなかった。
 あたりには宮女や、駆けつけてきた奉遜もいる。星蔡が鴟吻を呼び出す場面も見ていたことだろう。

(人では消せない鬼火を消すあやかしの妃――いままで以上に遠ざけられるかもしれない)

 一抹の寂しさを抱きつつ、星蔡は寧明に背を向けた。

「妖妃様、」

 霄妖宮に戻ろうとしたところで、声がかかった。振り向いて確かめれば宇寧明が立ち上がりこちらを見ている。

「助けていただきありがとうございました」

 その瞳は正面から星蔡を見つめ、恐怖心は見当たらない。そのことを嬉しく思い、星蔡は微笑んだ。

 あの炎は間違いなく妖術によるもの。先ほどは寧明を助けることを優先としてしまったため、あやかしの気配を探れなかった。

(霄妖宮に鬼火が出た理由が、妃であるわたしを狙ったものだとしたら――いま後宮に残っている二人の妃も狙われるかもしれない)

***
 霄妖宮の鬼火事件があって、宮女らの態度は変わった。鬼火が出ても守ってもらえるという信頼を得たのだろう。余所余所しかった寧明も星蔡と距離を近づけていった。

「他の妃に会えないかな?」

 寧明が茶を運んできたのを見計らって、星蔡が問う。二人の妃がいることは知っていたが名前も、どこの宮にいるのかもわからない。ならば寧明に聞いた方が早いと考えたのだ。

「後宮に残ってらっしゃるのは、関妃(かんひ)呉妃(ごひ)ですね。お会いになりたい旨、文をお出しすることもできますが……」

 そこで寧明は言葉を濁した。途切れた言葉の想像がついたので星蔡は苦笑する。
 霄妖宮では信を得たが、他の妃らはいまだに妖妃を恐れている。文を出したところで断られるのが容易に想像できた。
 できることならば一度顔を合わせたかった。思案に暮れていると、寧明がおずおずと口を開く。

「気分転換に北御苑(ほくごえん)へ出てみてはいかがでしょう」
「北御苑?」
「内廷にある風雅な苑でございます。いまは季がよく、花がたくさん咲いていると聞きました。妖妃様はここに籠もってばかりですので外に出てみてはいかがでしょう」

 確かに星蔡は宮に籠もってばかりだ。外に出るのもよいかもしれない。
 そして負屓(ふき)も北御苑が気になったようだ。風雅な場と聞いて興味を持ったのか、水盤からひょこりと頭を出している。


「みて! 花がたくさん!」

 北御苑に着くなり、負屓は首を長く伸してあちこちを眺めている。霄に花はなかったので、負屓はこういったものを見るのが初めてだろう。高揚しているのか宮女らがいるというのに声をあげるほどだ。

「この花はなに? あの花は?」
「これは海棠(かいどう)ね。あっちに見えるのは芍薬(しゃくやく)
「じゃあ、あれは?」
「あれは――」

 八仙花(はっせんか)だ、と答えようとしたが、それ以上の声はでなかった。
 八仙花の影から出てきた者は見覚えがある。嫌な記憶が掘り起こされ、体が固まった。喉の奥が締められたように苦しく、ひゅ、と嫌な音が鳴る。

 柿子色の襦裙を纏う宮女たち。その先頭に立つのは、煌びやかに着飾った()梨喬(りきょう)だった。
 寧明が耳打ちをする。

「妖妃様。あの方が呉妃です」
「梨喬が、呉妃……」

 柿子色は彼女に与えられた宮の色だろう。霄妖宮は紫羅藍の色と決まっている。このように宮女たちはそれぞれの宮色の襦裙を着る。
 梨喬はひときわ華やかだった。八年ぶりに会うが、簪や耳飾りに負けぬほどその美貌はより磨かれている。
 その梨喬がこちらを向いた。目を見開いていることから、星蔡がここにいることに驚いているのだろう。梨喬は宮女らを連れて、こちらにやってきた。

「妖妃があんただとは。死んだものだと思っていたのに、どうしてここにいるのかしら」

 汚いものを見るかのように、梨喬は星蔡を睨みつけている。星蔡はというと何も言い返せなくなっていた。手をぐっと握りしめて耐える。

「どうして生き延び、誰に取り入って妖妃になったのかわからないけれど、後宮はあんたに相応しくない場所よ。とっとと出て行きなさい」

 早口にまくし立てても梨喬の気は晴れないようで、そばにいた宮女に何かを命じた。宮女は駆け足でその場を離れていく。

「それとも妖妃になって陛下の寵を得て、呉家に復讐するつもり? やめておきなさいよ、あんたなんて愛されるわけがない。選ばれるとしたらわたしよ」
「わ、わたし、復讐するつもりは……」
「陛下だって醜い者を選ぶわけない。初めての夜を供にするのは、わたし以外にありえないの!」

 その言葉が引っかかった。

(初めて、ということは……陛下はいままでどの妃の元にもお渡りをしていない?)

 後世に血を残すことは皇帝にとって重要な仕事と言える。そのために陛下の元に美女が集められ、陛下はたくさんの妃を持つ。だが梨喬の口ぶりから察するに、陛下は妃を五人揃えておきながら、誰とも夜を供にしていないのだ。
 若き皇帝である奉遜は、いまだ子がいない。ここで子を授かれば、妃の地位は確立される。それが男児であればなおのこと。
 名門呉家を背負って入宮した梨喬としては奉遜の寵を得たいところだろう。その苛立ちが、星蔡にぶつけられているようだった。

 梨喬の宮女が戻ってきた。水をたっぷりと汲んだ桶と(しゃく)を持ってきている。おそらく北御苑の庭師が使っていたものだろう。
 梨喬はそれを受け取るなり、星蔡めがけて水を放った。

「あんたには、これがお似合いよ」

 ばしゃり、と水音が響く。避ける間はなく、星蔡の顔や裙は水をかぶるしかなかった。
 昔と同じである。呉家で虐げられていた日々がまざまざと蘇る。髪から滴りおちる水まで、あの日と変わらなかった。

「行くわよ。この奴婢と同じ空気を吸いたくないの」

 梨喬は桶と杓を放り捨てて、その場を去って行く。
 残された星蔡の元に、霄妖宮の宮女らが集う。呉妃からこのような仕打ちを受けると思っていなかったようで慌てている。

「妖妃様、大丈夫ですか」
「うん。これぐらい平気だよ」

 寧明と話していると、誰かがこちらにやってきた。奉遜だ。彼も花見に来ていたらしい。

「ひどくいじめられたものだな」
「こういうのは、慣れてますから」
「……昔と変わらないな」

 奉遜は苦笑していた。呉妃が、他の妃に対してひどい仕打ちをしたというのに彼はなぜか動じていない。それどころか()と語っている。星蔡は首を傾げた。

「わたし、陛下とどこかで会ったことがあります?」

 問うも奉遜は教えてはくれなかった。彼は手巾を取り出すと星蔡に渡し、遠くに止めた輿へ戻っていく。

「これより関妃の元に行く。私から話を通せば、関妃はお前を拒絶しないだろう」

 妖妃が恐れられていることを奉遜も知っていたのだ。皇帝自ら妖妃は害がないと話せば、関妃も会ってくれるだろう。
 配慮に感謝しつつ、奉遜を乗せた輿を見送る。彼が向かったのは関妃の宮、黄鷺(おうろ)(きゅう)だ。



 あたりが暗くなってきた頃だった。星蔡の腕輪が急に光りだす。見れば嘲風(ちょうふう)の宝玉が光っている。

『鬼火が見えた。艶黄色の服を着た人間たちがたくさんいる宮だ』
「艶黄……どこの宮だろう」
『わからぬ。東の方角だ。急ぎ火を消しにいくぞ』

 頷き、星蔡は立ち上がる。水盤の中で微睡(まどろ)んでいた負屓を起こして袖に入れると、すぐに外へ出た。


 霄妖宮より東へ近づくと焦げた匂いがする。騒ぎ声のする方へと向かうと、火元は容易に見つかった。黄鷺宮だ。嘲風が遠視した通り、艶黄の襦裙を着た宮女らが出ている。みな水桶を持って火を消そうとしているが、碧色の炎にはまったく効いていなかった。

「離れて! 鬼火はわたしが消す!」

 鬼火は拡大し、宮の内部まで至っているようだった。宮女の一人が、駆けつけた星蔡に気づきしがみつく。

「妖妃様、どうかお助けください。中に人が残っております」
「まさか、関妃も?」

 関妃らしき姿は見当たらない。宮の中に残っているのかもしれない。
 星蔡は急ぎ腕輪を撫でた。

「九竜は第九子、鴟吻(しふん)

 鴟吻もこの状況を把握しているらしく、すぐに竜魚の姿が浮かび上がる。

「お願い、この鬼火を消したいの」
『範囲が広いわね。鬼火を消す雨を呼ぶわ』

 鴟吻は空に向けて口を開き、水を吐き出す。その水は雨雲となって空を覆う。そして黄鷺宮全体に向けて雨が降りそそぐ。それは鬼火を消す雨だ。雨の勢いは増していく。

(関妃が、無事でありますように)

 火が消えるまで宮の中に入れない。突入する機を窺いあたりを見渡していると、何かが落ちていた。きらきらと光る黄金色の毛だ。人の髪にしては固く、獣の体毛に似ている。

(これは、あやかしの毛?)

 鴟吻が水を吐き出している間に、他の宝玉を撫でる。

「九竜は第五子、狻猊(さんげい)
『お、星蔡じゃん。何かあったか?』
「この毛を手がかりにして、鬼火を呼んだあやかしを調べられないかな」

 狻猊の宝玉の前に獣毛をかざして尋ねる。

『なんだそれ』
「落ちてたの。犯人の毛かなって」
『じゃ調べてやるよ。なんかわかったら教えてやる』

 狻猊は火と煙の妖術を得意とする。相反する水を用いる鴟吻とは相性が悪いが、同じ火を用いるあやかしとは気が合うようで顔が広い。鬼火を呼び出すあやかしはたくさんいるが、獣毛を足がかりに絞り込むことができるだろう。
 庭に面している部分は焼けているが、奥は無事のようだ。できることなら関妃が奥に逃げていればいい。それを願うしかない。
 翌日のこと。星蔡は関妃の元に向かった。
 宮廷内で起きた事件は禁衛府の管轄となり衛吏が調査などを行うのだが、此度の件はあやかし絡みのため、妖妃にも関わらせるよう奉遜が命じたのだ。衛吏も帝の命とあれば背くことはできず、別の宮で静養している関妃を尋ねても咎められることはない。

 部屋に通されると、臥床に伏していた関妃が身を起こす。梨喬に負けず劣らずの美貌を持ちあわせているが、妖艶な美を持つ梨喬に対し、関妃は清麗さを感じさせる。昨日のことがあるので顔色はあまりよくない。

「あなたが妖妃ですね」

 弱々しい声で関妃が告げた。

「妖妃が鬼火を祓ってくれたのだと陛下からお聞きしました。妖妃が駆けつけてくださらなかったら、宮女やわたくしは命を落としていたかもしれません。助けてくださりありがとうございます」

 関妃、そして艶黄色の襦裙を纏った宮女らが頭を下げた。彼女たちの瞳に、あやかしの妃に対する恐れは感じられなかった。

「陛下から鬼火の件について調べていると伺いました。わたくしにできることならば協力いたします」
「では鬼火が出る前の状況を教えていただけますか」

 これに関妃は頷いた。とはいえ昨日の今日であるから、あまり時間はとれないだろう。手短に有力な情報を得なければならない。

「わかりました――昨日、黄鷺宮を尋ねてきたのは陛下だけです。妖妃のお話を聞いておりました。火が出ていると宮女たちが騒いだのは、陛下が戻られてしばらく経ってからです」
「出火元は庭でしょうか」
「ええ。あれは不思議な炎ですね。碧色の火は異常な速さで宮を囲みました。逃げ遅れた宮女とわたくしたちは火の勢いが弱い後殿へと逃げました」

 庭からということは、鬼火を放ったあやかしは黄鷺宮内に入れなかったのだろう。
 星蔡が気になったのは来客のこと。昨日、ここを訪れたのが陛下だけということだ。

「以前、鬼火に襲われた妃も、陛下が尋ねた後に襲われたのでしょうか?」
「ええ。どちらも陛下とお会いした日の夜に襲われています」

 前例、そして今回の関妃。よく考えれば霄妖宮が鬼火に襲われた時も陛下が来ていた。

(つまり陛下が行く先に鬼火がでる?)

 そこで関妃はうつむいた。物憂げにため息をついた後、静かな声音で呟く。

「わたくしは、妬みが鬼火を生んだのではないかとおもいます」
「妬みとは?」
「陛下はどの妃にも興味を持っておりません。一度も、妃の宮を夜に尋ねたことはありません。皇太子の頃の陛下を知るわたくしはその理由が思い当たります。ですが、他の者たちは何も知らず、陛下の気を引こうとしているのでしょう」
「その理由を、聞いてもいいのでしょうか」

 すると関妃は頷いた。「命を助けていただきましたから」と微笑んで、再び口を開く。

「陛下は幼年の頃に出会った方を想っているのです。その方は不幸な育ちだったようで殺されてしまったのだとか。陛下はその方を助けようとしたようですが、間に合わず目の前で失ったようです」
「……そんな」
「そのため陛下はどの妃にも触れることがありません。きっとこの先も、失ったその方を想いながら生きていこうとするのでしょう」

 星蔡は言葉を欠いた。まさか奉遜にそのような事情があったとは知らなかった。どれだけ美しい妃を集めたところで奉遜が後世に血を残すことはない。しかし、永の民らは若き皇帝に期待を寄せている。

(……重圧だろうな)

 奉遜が背負うものは星蔡が想像するよりも大きなものだろう。想像し、ずきりと胸が痛んだ。



 気分は重たく、霄妖宮に戻る気にはなれなかった。花を眺めたくなり寄り道をする。
 北御苑に入れば見覚えのある輿が止まっていた。奉遜の輿だ。彼もこちらに気づき、寄ってくる。

「お前も北御苑にきていたのか。もう黄鷺宮には寄ったのだろう?」
「はい。話を伺ってきました」
「鬼火の件が進展するとよいな――少し時間はあるか、海棠(かいどう)がよく咲いているから共にどうだ」

 奉遜の誘いに頷き、共に海棠の木に寄る。見上げれば淡桃色の花がびっしりと咲いて美しい。春を思わせるよき色だ。

(呉家の庭にも海棠が植えられていた)

 春の季になると海棠の花を咲く。呉家の海棠はよく手入れされていて、他の屋敷よりも美しいと自慢だったらしく、咲き誇る頃にやってくる来客は海棠を見に来たものだ。星蔡も海棠の花を見上げるのが好きだった。

(あの時の男子も、花を見ていた)

 最後まで名を聞くことのできなかった男子を思い出す。星蔡が寿陵山から落とされたあの日も彼は追いかけてきていた。あの子はいま、どうしているのだろう。

「……よい花だ」

 隣で海棠を見上げていた奉遜が、しみじみと呟いた。その見上げ方、声、言葉も呉家で出会ったあの男子を彷彿とさせる。あの時と同じ花が咲いているからそう考えてしまうのだろう。星蔡は小さくかぶりを振って幼年の記憶を追い払った。

 奉遜が花を見上げたまま言う。

「私が思っている以上に、妖妃はたくましいのだな。呉妃からあのような仕打ちを受けていたくせ、他人を助けようと鬼火に立ち向かう。九竜に愛される理由がよくわかる」

 その言葉を聞いて、袖に隠れていた負屓がにょいと頭を出した。小亀の姿をしているが自慢げな顔をしていた。星蔡が褒められたことが負屓にとって嬉しかったのだろう。
 負屓だけではない。霄の国にいる父竜や九竜たちはみな星蔡を可愛がってくれた。

(だからこそ、わたしはここで、霄のために頑張りたい)

 そう考えていると奉遜が、海棠からこちらに視線を移した。

「妖妃がここに来たことで鬼火の害は減った――けれど、お前自身のことを思うとここに呼び寄せてよかったのか、悩んでしまう」
「妃にしなければよかったということでしょうか」
「お前は霄にいた方が幸せだったのではないかと考えたのだ。後宮は人の思いが渦巻き、よどんだ場所。私の目の届かぬところで、また虐げられるのかもしれない」

 するりと手が伸びた。奉遜の指先は風になびいた星蔡の髪に触れている。
 見上げれば奉遜の瞳は切なげで、こちらまで胸が苦しくなる。不安を抱く子供のように見えて、星蔡は柔らかに微笑んだ。

「わたしは平気です」

 その言葉を聞いて、星蔡の髪を撫でていた奉遜の指先がぴたりと止まる。

「昔、死を覚悟したことがありました。死ぬはずであったわたしは幸運にも助かり、霄の国で第二の生を得ました。虐げられたとしても、わたしは抗ってみせます」

 例え梨喬に水をかけられたとしても、崖から落とされたとしても。霄や九竜をのためなら諦めず立ち向かえる。そう星蔡は考えている。

「強くなったな」

 ぽん、と優しく頭を撫でられた。奉遜の瞳は穏やかに細められ、懐かしむように星蔡を見つめている。

「私はお前のことを勘違いしていたのかもしれない。守られるだけではなく、立ち向かう強さを得ていたのだな。だが、たとえ九竜の加護を得ているとしても命を(なげう)つような真似はしないでほしい」

 まるで星蔡の過去を知っているかのような物言いが引っかかる。けれど奉遜はその理由を明かそうとはせず、星蔡の頭を撫でていた。

「危機が迫れば、臆さずに助けを求めろ。私が駆けつけると約束することはできぬが、お前が助けを求めても許される立場であることは保障し続ける」

 奉遜の言が鼓膜を揺らし、瞬間、昔のことを思い出した。

(そういえば、呉家で会った男子も言っていた)

 星蔡が寿陵山に向かう前日。あの男子と交わした言葉だ。

『どうして諦めている。抗おうと思わないのか。逃げ出したり助けを求めたりせず、受け入れるなんておかしいことだ』

 その問いに星蔡は『助けを求めても許される立場なら、そうしている』と答えた。はっきりと覚えている。まもなく来るであろう星蔡の死に、異論を唱えたのは男子しかいなかったから。
 はっとして奉遜を見上げる。ここにいるのは星蔡よりも背が低い男子ではなく、背丈は星蔡を遥かに超え、冕冠をかぶった永の皇帝陛下だ。

「昔、呉家で会った……気がします」

 おそるおそる問う。確かめるように奉遜を見上げれば、彼は穏やかな表情をしていた。

「私が答えたら、お前は――」

 その唇が返答を紡ごうとし、彼の指先が星蔡の頬に触れようかという時だった。

 星蔡の肩から何かが飛んだ。それは奉遜めがけて跳び、小さな口が何かをかぷりと噛んでいる。
 負屓だ。奉遜の指に噛みついてぶらさがり、してやったりと言わんばかりの顔をしている。

「負屓!」

 慌てて星蔡が負屓を引き剥がす。両の手に乗せると、負屓は鼻息荒く奉遜を睨みつけた。

「星蔡にさわるな!」
「噛みつくのはだめだよ」
「ぼく、あいつきらいだもん!」

 まだ怒りが収まらんと騒いでいたが、小亀の姿をしていたので手で覆って押さえる。手中で「出してよー! あいつ噛んでやるー!」と騒いでいたが無視して、奉遜に向き直った。

「申し訳ございません。お怪我は……」

 噛まれた指先は血が出ていないが歯形が残っていた。何てことをしてしまったのかと青ざめる星蔡だったが、意外にも奉遜は笑っていた。

「私が手を出したことが悪いのだから気にするな。この程度なら平気だ」

 お咎めないことに安堵する。しかし、先ほど奉遜が言いかけたものは飲みこまれてしまった。気になることはわからないままだ。

「そろそろ戻ろう。お前を独り占めしていては、元気な兄上にまた噛まれるやもしれぬ」

 それは手中に閉じ込めた負屓にも聞こえていたのだろう。「また噛んでやるー」と小亀の叫びがした。


 北御苑を出て行く陛下の輿を見送る。星蔡も宮に戻ろうとしたのだが、そこで腕輪が光った。第七子・狴犴(へいかん)の宝玉だ。

「狴犴、どうしたの?」
『近くに、よくない気を放つ者がいる。お前の後方、八仙花の影だ』

 そう聞いて、星蔡は振り返る。
 すると何かがさっと身を隠したのがわかった。ここから去って行く沓音(くつおと)もする。ここに人がいたのだ。
 追いかけても間に合わないだろう。去って行く後ろ姿から考えるに妃ではない、宮女だ。その襦裙は柿子色をしている。

『あの者は淀んだ気を放っていた。妬みや怒りといった感情に支配され、他を害することを厭わない。悪道を走る特有の気だ』

 狴犴が得意とする妖術は善悪の感情を見極めることである。だが狴犴曰く、たとえ悪いことであっても本人が善と信じていることがあるのだという。正義はその者が信ずるものによって形を変える。今回の場合は、星蔡に害を成すか成さぬかで判断をしていた。

(柿子色の襦裙ということは梨喬がいる宮)

 いやな予感がした。その不安を感じ取ったらしい負屓が肩をよじ登り星蔡に声をかけた。

「星蔡、だいじょうぶ?」
「心配しないで。わたしは大丈夫だから」

 その言葉は負屓をなだめるようで、自分にも言い聞かせるようでもあった。



 その夜は鬼火が出なかった。黄鷺宮の調査が続いているため、内廷には禁衛府の衛吏が多くいる。鬼火を呼ぶあやかしも出てこられなかったのだろう。
 星蔡は臥床に腰掛けていた。

(妃らは陛下の寵を得ようとしていたけれど、陛下は誰も選ぼうとしない。そして陛下と会った妃が襲われる)

 関妃は鬼火に襲われた。そして霄妖宮の妖妃――星蔡も一度襲われている。残るは呉妃である梨喬だ。

(梨喬も鬼火に襲われたのかな)

 燭台の炎が揺らめいている。それをぼんやりと眺めていたところで腕輪の、第五子・狻猊の宝玉が緋色に光った。

『獣毛について調べたぞ。ありゃ狐の毛で間違いねえな』

 霄の国に狐のあやかしは多い。妖術の弱い者から、父竜や九竜に匹敵するほどの妖術を持つ狐まで様々だ。他を化かし(そそのか)すことを好む者が多く、九竜からも好まれていない種族だ。

『黄金色の狐毛。鬼火。高位の妖術使いだとは思うんだけどなあ。特定するってなると情報が足りねえ』
「ううん……困ったな」

 すると話を聞いていたらしく、他の宝玉が光った。

『星蔡。思い出したことがある。八年前の寿陵山のことだ』

 碧色の光を放って語るは、第二子・睚眦(がいさい)の玉だ。戦や争いを好み、怒ると手がつけられなくなることから九竜の中でも少し浮いた存在の彼が、こうして連絡をしてくるのは珍しい。

『我と父竜が寿陵山に向かったのは、あの山を巣とする金火(きんか)(きつね)を捕らえるためだった』
「金火狐?」
『金火狐は、自らの国を作りたいがために永と霄を争わせようと画策していた。やつの企みを知った我と父竜が向かったが金火狐の姿はなく、いまだに行方はわからん』
「もしかして、その日にわたしが落ちてきた?」
『ああ。我らが金火狐を捕らえにいかなければお前は谷底で死んでいただろう』

 恐ろしい話を、睚眦はあっさりと言ってのけた。金火狐を逃したことはよくないのだろうが星蔡にとっては幸運である。

(呉家の『末娘を寿陵山に捧げると一族が繁栄する』という言い伝え。寿陵山の金火狐。そして今日、陛下と会っていたのを盗み見ていた柿子色の宮女――ぜんぶ繋がっている気がする)

 梨喬や呉家に問うたところで答えはでないだろう。となれば、他のところで証拠を探すしかない。
 腕輪の光が消えてもしばらく星蔡は考え、ついに行き先を決めた。
 寧明に頼んで文の用意をしたのは数刻前のことだった。そろそろ読んだ頃かと思いきや、文の送り先であった奉遜が血相を変え、慌てた様子で霄妖宮に乗りこんできたのである。
 彼は星蔡と会うなり、開口一番に告げた。

「寿陵山に行くなど私は反対だ」

 その内容から文は読んでもらえたのだろう。文には鬼火について調べるため寿陵山に行くと(したた)めていた。

「どこかの家から密命を受けたわけではないだろうな」
「違います。鬼火について調べたいだけです」
「だめだ。お前をあの山に向かわせるわけにはいかない。他の者に頼めばよい」

 寿陵山は険しい山として知られるが、奉遜の焦りはそれだけが理由ではないのだろう。ここまで反対されるとは想像もしていなかった。鬼火の件を解決したい気持ちは奉遜も同じだと思っていたのだ。
 しかし星蔡も折れるわけにはいかない。鬼火が出た時すぐに駆けつけられなければ被害は拡大する。死者だって出るかもしれない。

「わたしは、陛下に反対されようが寿陵山に向かいます。鬼火の件を解決するために」
「それは霄の国を思ってか? 霄のために自らを犠牲にしようとしているのか」

 この問いには少し悩んだ。霄の国を守りたいのはもちろんのこと。だがそれだけではない。

「霄だけではありません。わたしは永も、守りたいです」
「なぜだ。お前は永によい思い出がないだろう」

 永の国が好きなわけでも妃を守りたいわけでもない。ただなぜか、奉遜のことが浮かんだのだ。
 皇帝である奉遜は、ひとりで永の国を背負っている。奉遜が会った妃が襲われることも、奉遜を悩ませているだろう。代わりに背負うことも悩むこともできないが、守ることはできるかもしれない。共に北御苑で花を眺めるような穏やかな時間ぐらいは。
 その気持ちを素直に述べる。奉遜をじいと見つめて、告げた。

「陛下がいるこの後宮を守りたい。わたしは寿陵山に向かいます」

 これには奉遜も言葉を詰まらせた。困惑したように視線を外し、考えこむ。
 しばらく経ってようやく、彼が動いた。

「……約束しろ。けして無理をするな。無事で戻るように」

 ついに奉遜が折れた。表情は見るからに納得せず、渋々といった様子だったが。

***

 妖妃の寿陵山詣りが決まった。大事にせず秘密裏に進めたかったのだが、寿陵山行きの条件として奉遜が多くの護衛をつけたため、後宮の誰もが知ることとなってしまった。

 大所帯での移動ということもあり、寿陵山の(ふもと)についた頃には日が暮れていた。夜に山道を行くのは危険とのことで、麓の村で一泊することを考えていたのだが――村に入ろうかというところで腕輪が光った。光る宝玉は第三子・嘲風である。

『星蔡、大変だ』

 腕輪を見やると同時に嘲風の声がした。物怖じせず落ち着いた嘲風にしては珍しく慌てた声音だ。

『寿陵山に鬼火が見える。人間が襲われている』
「急いで助けに行かなきゃ」

 遠視の妖術を得意とする嘲風が言うのだから間違いはない。鬼火を消せるのは妖術だけ。普通の人間ならば鬼火に襲われても抗う術がないのだ。
 星蔡は立ち上がった。そして寿陵山を見上げる。

(夜だけれど、一度通っているから道はわかる)

 護衛や宇寧明らに知られれば大所帯での移動となり、夜の移動を止められるかもしれない。ならば、ひとりで行動した方がすぐに駆けつけられる。
 幸いにも寧明は村の者と話していたのでこちらに気づいていなかった。護衛らの隙をついて星蔡は抜け出す。

「星蔡、ぼくに乗って」

 山に向けて駆けていく途中で負屓が袖から顔を出した。負屓の妖術を使えば、霄にいた頃と同じ大きさに戻るため、甲羅に乗って移動できる。星蔡が駆けていくよりも負屓の方が早いだろう。
 星蔡は頷き、腕輪に触れる。柔らかく撫でるは第八子、負屓の宝玉だ。

「九竜は第八子、負屓」

 唱えると宝玉が水碧色に光る。負屓が袖からと飛び降りた瞬間、彼の体は大きくなった。久しぶりに見る亀竜の姿である。こちらをちらりと見やり、負屓は言った。

「乗って。ぼくが走っていくから」
「ありがとう!」

 負屓の甲羅に腰掛け、振り落とされないよう大棘を掴む。負屓は勾配も厭わず、短い手足で跳ねるように地を蹴り上げ、するすると山道をのぼっていく。
 そうして寿陵山は中腹まで近づくと、空気が変わった。それは強い妖術が発動していることを示している。おそらく負屓も感じ取ったのだろう。彼は険しい顔つきをし、寿陵山の木々を睨みつけている。

「見えた、あっちにいる」

 負屓の声にその方を見やれば、木々の奥にぼうっと碧の光が灯っているのが見えた。鬼火の光だろう。

「襲われている人がいるはず。すぐに向かおう」

 星蔡がそう声をかけ、いつでも九竜の力を借りれるようにと腕輪に触れる。だがその瞬間、木の陰から人が現われた。

「やはり来たわね」

 その者は大亀に乗った星蔡を見やり、嫌味たらしく微笑んでいる。その顔を確かめ、星蔡は呟いた。

「どうして梨喬がここに……鬼火に襲われていたのは梨喬だったの?」

 嘲風は人が襲われていると告げていた。だが梨喬に怪我らしきものは見当たらない。見渡すと梨喬の周囲には柿子色の襦裙を着た宮女らが控えていた。ひとりの裾は焦げて破れている。どういうことかと事態が飲み込めずにいる星蔡を、梨喬が嗤った。

「襲われたのではなく、襲わせたのよ。あんたは昔から頭が足りないから、鬼火に人が襲われているとなればきっと駆けつける。おびき寄せるために宮女を襲わせるふりをしたの」
「襲わせたって、じゃあこの鬼火は……」

 梨喬は扇を開き、口元を隠した。それでも嗤っているのがわかる。

「呉家の言い伝え、知っているでしょう。末娘を寿陵山に投げ落とすのは金火狐様に捧ぐため。中腹にある呉家の供物殿には金火狐像がある。つまり呉家は、金火狐様の加護を受けているのよ」

 星蔡は息を呑んだ。まさか呉家が金火狐とつながりを持ち、自分が寿陵山の供物になりかけたのも金火狐のためだったとは。
 梨喬の影から人が現われた。ぬるりと現われたのは狐面をつけた男――のように見えたが四つにわかれた狐尾が揺れている。人に化けているのだろう。人に化けるほどの、高い妖術を使うあやかしだ。

「金火狐……」

 負屓が呟いた。金火狐を警戒し、威嚇するように睨みつける。その金火狐はというと狐面をずらして口元のみをみせる。その唇がにたりと弧を描いた。

「我は金火狐。聞けば星蔡は我の供物となる予定であったとか。いやいや残念です。あの煩わしい霄王竜がこなければ我の腹に収まっていたでしょうに」
「あなたが鬼火を呼び出していたのね」

 人に化けるほどの力を持っているのであれば鬼火を放つことも容易いだろう。金火狐はにっこりと頷いた。隣に立つ梨喬が語る。

「金火狐は呉家を助けてくれるのよ。金火狐に頼めば、陛下の寵を得るために邪魔な妃たちを消してくれるの。残るは関妃というところまで追い詰めたのに――なのに」

 そこで梨喬が顔をあげ、星蔡を睨みつける。

「もう少しだったのに、あんたがきてしまった! 不気味なあやかし妃のくせに陛下の寵愛を得ようとしている」
「違う、わたしは寵愛なんて――」
「北御苑で陛下と会っていたこと、宮女から聞いているのよ」

 これまでの鬼火の件は梨喬が、金火狐と手を組んで行っていたのである。皇帝陛下に気に入られるために他の妃たちを襲わせたのだ。唯一鬼火に襲われていない妃が犯人だったとは。

「陛下に愛され、子を成し、皇后になる。そのためなら邪魔なものだって消してみせる」
「まさかわたしを寿陵山におびき出したのは……」
「そうよ――あんたは陛下に気に入られているようだから、早く片付けてしまわないと」

 梨喬が金火狐の方を向いた。金火狐は薄っぺらなほほえみを貼り付けたまま、頷く。そして両の手をかかげた。

「我もずいぶんと腹が減りまして。今度こそこの供物を食べてみせましょう」

 ぼう、と碧の炎が灯る。その炎はあっという間に広がり、星蔡の周囲にある木々に燃え移った。

「星蔡!」

 負屓に名を呼ばれて我に返る。甲羅の大棘を掴むと、金火狐から距離を取るべく負屓が駆けだした。その間に星蔡は腕輪に触れる。

「九竜は第九子、鴟吻(しふん)
『話は聞いていたわ。鬼火を消す』

 事情説明せずとも鴟吻は動いた。空に向けて大口を開くと、勢いよく水が放たれる。それは空に向かい、雨となって落ちてきた。
 しかし今回は黄鷺宮と異なり範囲が広い。寿陵山の木々に鬼火が燃え移り、火の勢いは増す一方だ。

『黄鷺宮よりも広いから火を消すのに時間がかかるわね』
「ここで待っていられないよ。ぼく、焼き亀になっちゃう」

 星蔡は振り返り後方を確かめる。金火狐は両手から鬼火を放ち、星蔡らを追ってきている。負屓に追いつくほどではないが、あやかしなので足が速い。

『まずは逃げて。その間に雨を降らせて火を消すから』
「金火狐はどうしたらいい? 睚眦(がいさい)を呼んでこらしめてもらう?」

 星蔡が問う。すると別の宝玉が光った。正義を重んじ、善悪を見極める第七子こと狴犴(へいかん)の宝玉だ。

『睚眦の力を得ても争いは増すだけだ。ひとたび睚眦が怒れば我々の手に負えず、寿陵山なんぞ吹き飛ばしてしまう』
「じゃあどうしよう。いい方法ないかな」
『平和的な解決を望むのなら、相手の目的を阻止することだな』

 狴犴は落ち着いた様子で告げた。

『呉家に加護を与えていると話していたが、金火狐の性根は歪んでいる。大人しく仕えるような性質ではない。あれの目的を考えろ』
「金火狐は自分の国を作りたい……」
『そうだ。だから人とあやかしを争わせ、その間に国を乗っ取ろうと考えている。これと逆を行えばよいのだ。人間とあやかしは親しいのだと見せつけることだ』

 狴犴はさらりと言ってのけたが、抽象的であるため難しい。星蔡、そして負屓も「うぅん……」と首を傾げていた。

 その間にも金火狐は次々と鬼火を放ちこちらを追いかけてくる。鴟吻の妖術によって空は雨雲が覆い、少しずつ雨の勢いが増していくが、寿陵山の火を消すためにはまだ足りない。それまで時間稼ぎとして逃げ回らなければ。

 星蔡を乗せた負屓が駆ける。しかしここまで登るのも負屓の力を借りてきたのだ。息苦しそうにし、速度はゆるゆると落ちていく。

(負屓はそろそろ限界だ)

 どこかで休ませなければ。よい場所はないかと探していたその時、ふらついた負屓の足が岩に引っかかった。

「あ――」

 転ぶ、とわかった。負屓は何とか残る足で耐えたものの、体勢を崩した拍子に星蔡の体は宙に浮く。負屓から離れ、前方に転がり落ちた。

「おや、これは幸運だ」

 金火狐が嗤った。彼は負屓に目もくれず追い越し、星蔡を追う。

「星蔡! にげて!」

 星蔡は慌てて身を起こし再び駆けた。
 だが――木々の間を抜け、眼前に飛びこんできたその光景は星蔡に絶望を与えた。

「行き止まり……?」

 目の前に広がるは寿陵山中腹の崖。その近くには見覚えのある供物殿もある。

(ここは八年前、わたしが谷底に落とされた場所)

 振り返れば、追いついた金火狐がにたにたと笑みを浮かべていた。

(崖はだめだ。それなら供物殿の中に――)

 逃げ場所を探しそちらに駆けようとした瞬間、供物殿の扉が開いた。中から現われたのは梨喬だ。星蔡と負屓が逃げ回っている間に供物殿に来ていたのだろう。

「八年前のやりなおしのためにね、狐像にお祈りをしてきたの。今度こそ供物を捧げます、って」
「っ……そんな……」
「今度はしっかりと、谷底に落ちたあんたを確認してあげる。二度と顔を合わせないよう、鬼火で炙ってあげるわ」

 梨喬、そして金火狐がにじり寄り、逃げ場所はなくなっていく。気づけば崖淵まで追い詰められていた。後退りをするも、もう地面はない。小さな石が崖を転げ落ち、谷底から冷たい風が吹き上げる。

 いやな記憶が蘇る。崖は苦手だ。恐怖はいまだ抜けていない。足は竦み上がり、体が震える。その様子を見ていた梨喬がにたりと嗤った。

「今度こそさようなら星蔡。今度はちゃんと死んでちょうだい」

 梨喬の手が、こちらに伸びる。
 そして、とん、と星蔡の体を押した。

(あ……落ちる……)

 冷たい風が駆け抜ける。星蔡を谷底に引きずり込むような風だ。
 前は偶然にも父竜がいたから助かったが、そのような奇跡が二度起きるとは考えにくい。死だ。このまま落ちれば死んでしまう。

 頭をよぎったのは、なぜか賈奉遜だった。北御苑で話した時の、彼の言葉が蘇る。

『危機が迫れば、臆さずに助けを求めろ』

 海棠の花。賈奉遜のこと。

(寿陵山に行くなと唯一止めてくださったのに。わたしが死んでしまったら陛下は――)

 また、背負うものが増えるのだろうか。
 そう考えた瞬間。星蔡の手が動いた。岩の隙間から伸びていた木の枝を掴む。小ぶりの枝だったが根元はずいぶんとしっかりしているらしく、枝はしなるも折れることはなかった。そして迷わずに、叫ぶ。

「助けて!」

 この声が誰に届くかはわからない。崖上に味方となるような者はなく、負屓は遠く離れていた。けれど臆さずに助けを求めるしかないと思った。
 梨喬は崖上から覗きこみ、星蔡が枝に掴まるまでを見ていた。彼女はすぐ金火狐に命令している。

「早く星蔡を落としなさい」

 金火狐が鬼火を呼べば、この枝も焼け折れてしまう。危機迫る中、星蔡はもう一度口を開いた。

「奉遜、助けて!」

 夢中だったのでなぜ奉遜の名が出たのかはわからない。
 鬼火の音がする。星蔡はぎゅっと目を瞑り、覚悟を決めた。


「星蔡!」

 聞こえたのは鬼火でも九竜の声でもない。聞き覚えがあり、それを確かめるべく瞳を開けば、崖上からこちらに手が伸びていた。

(あの時と一緒だ)

 八年前、ここから落ちた時もそうだった。あの時は男子が手を伸していたが届かず、星蔡は落ちるだけであった。
 けれど今回は違う。子供の小さな手ではない。その者はずいと身を乗り出し星蔡を助けようとしている。その(かんばせ)は賈奉遜だ。

「いいから手を掴め!」

 まさか幻かと思ったが違う。彼の必死な表情がこれは現実だと語っている。

(どうして陛下がここに……)

 理由はわからなかったが、星蔡は彼の手をしっかりと掴んだ。
 星蔡を助けようとするその表情は、あの日星蔡を助けようとした男子と同じ。

(そうだ。どうして忘れていたのだろう)

 名前を聞かなかったから、わからなかった。名前を聞けばよかったと悔やんでいた。けれどいまになってわかる。あの時の男子は――。

「いま引き上げる!」

 その言を契機に、ぐいと力強く腕が引っ張られた。奉遜は供を従えてきたらしく、他の者も奉遜の体を引いている。

 崖上に着くも、星蔡の体は力を欠いていた。その場にへたりと座りこむ。隣には奉遜も座りこんでいた。額に汗をかき、息があがっている。

「今度は間に合ったな」

 目が合うなり、奉遜はそう言った。『今度』の意味は、星蔡にもわかっている。

「八年前にお会いしたあの子は、陛下だったんですね」
「あの時は間に合わず、お前を助けられなかったがな」
「助けようとしてくれたことを覚えています。彼の名前を聞けばよかったと後悔していました」

 すると賈奉遜は笑った。そして星蔡の頭を撫でる。

「賈奉遜だ。とっくに知っているだろうが」
「……はい」

 視界の端には梨喬とその宮女らがいた。奉遜が連れてきた衛吏に拘束されている。梨喬は星蔡を見るなり声を荒げた。

「あんたのせいで狂ったのよ。あとは関妃を追い出すだけだったのに」

 それを聞いて、奉遜が立ち上がった。梨喬の元へ向かう。

「お前は勘違いしている」

 その言と同時に、乾いた音が響いた。奉遜の手が梨喬の頬を叩いたのだ。梨喬はなぜ頬を叩かれたのかわからないといった顔で、呆然と奉遜を見上げている。

「ひっ……どうしてわたしの頬を……」
「例え後宮の妃がお前だけになろうとも、私がお前を選ぶことはない。お前や呉家が、星蔡をどのように扱ってきたのか私はよく知っている。お前のように醜い心を持つ者を我が後宮に迎えたくなかったほどだ」

 星蔡が呉家でどのような仕打ちを受けていたのか、奉遜は目の当たりにしている。梨喬は名門である呉家の娘であり、入宮を後押しする者は多い。入宮は阻止できなかったとしても、奉遜は梨喬と夜を共にする気がなかったのだ。

「そんな、わたしは呉家の娘なのに」
「家柄など関係ない。私はお前をけして許さぬ」

 梨喬はがくりと項垂れた。だが奉遜は冷徹な面持ちで衛吏に命じている。

「連れて行け。呉妃が鬼火事件の主犯だ」

 梨喬と宮女らが山を下りていく。けれど金火狐の姿はない。どこにいるだろうかとあたりを探すと、のろのろとこちらにやってくる負屓が見えた。

「負屓!」

 星蔡が声をかけると、負屓はぱあっと顔を明るくして、こちらに駆けてくる。

「星蔡。ごめんね、ぼくがころんじゃったから」
「いいの。負屓が無事で何よりだよ」

 さらに腕輪も光る。第九子の鴟吻だ。

『鬼火はぜんぶ消えたわ』
「ありがとう! いつも頼っちゃってごめんね」
『これぐらい平気よ。でも――』

 鴟吻の声音が沈む。代わりに第三子・嘲風の宝玉が光る。

『金火狐には逃げられた』
「そっか。逃げちゃったか……」
『遠視していたが、奉遜が着く直前に姿を隠した。あれは狐だからな、逃げ足が速い』

 金火狐が星蔡に向けて鬼火を放とうとしていたところまでは覚えている。奉遜が着くのに気づいて姿を隠したのだろう。梨喬らはその場に残されてしまったのだ。

(やはり金火狐は梨喬を利用していただけ……)

 鬼火はあやかしの妖術であり、あやかしの仕業となれば、永と霄の争いに繋がるかもしれない。だから金火狐は梨喬を利用したのだ。梨喬が人を想いやる心を持っていたのならここまで利用されることもなかっただろう。

「星蔡、」

 名を呼ばれて振り返ると、奉遜が立っていた。彼は星蔡に手を差し伸べる。柔らかに微笑んで、告げた。

「帰ろう。私たちの場所へ」

 その手を取る。見上げた横顔は、八年前の男子と同じ、優しいものだった。
 鬼火事件の主犯として梨喬は捕らえられ、呉家も金火狐を信仰していた件で咎められ、呉妃が使っていた宮は空き宮となった。
 梨喬と呉家が宮都を追われる頃には怪我をして帰っていた妃らも戻ってきた。後宮に平和が戻ってきたのである。


「だからさあ、霄にもどろうよ」

 ある日の夕刻。負屓は水盤から顔を出し、ふて腐れていた。
 負屓や九竜は、鬼火事件が解決したのだから星蔡が霄に戻ってくると考えていたのだ。それが星蔡は動こうとしない。星蔡は妖妃として、後宮に残ったままだ。

「戻らないよ。妖妃のわたしがここにいれば、永と霄の友好関係は保たれる。これはわたしがあやかし妃としての仕事」

 それに、姿を消した金火狐のことも気にかかる。また人を唆し、悪事を働こうとするかもしれない。その時に妖術を用いて止められる者がいなければ。

「星蔡がのこるなら、ぼくものこるけどさあ……」

 そう言いながらも、負屓は永の暮らしを楽しんでいる。寧明と打ち解けて、書を読んでもらっていることもあるぐらいだ。
 二人が話していると、扉が開いた。やってきたのは宮女長の宇寧明である。

「妖妃様にお伝えしたいことがございます」
「なあに?」
「本日夜、陛下がこちらにいらっしゃるそうです」

 この言葉に星蔡の目が丸くなった。永の皇帝が夜に妃の宮を訪ねるのは初めてのこと。

(どうして奉遜が霄妖宮に……)

 戸惑う星蔡だが、寧明や霄妖宮の宮女は嬉しそうだ。初めての渡りと聞いて、みな慌ただしそうにし、寧明もずいと星蔡に顔を寄せた。

「支度いたしましょう! 湯浴みの用意もできております」

 有無を言わさぬとばかり寧明に手を引かれ、部屋を出て行く。水盤からは負屓がちらりと顔を出し、星蔡を案じているようだった。


 夜。霄妖宮に輿が着いた。賈奉遜の姿は霄妖宮へと消えていく。
 さて妖妃である星蔡はというと、奉遜を迎えるための部屋にて落ち着かぬ心地だった。

(どうして陛下はわたしを選んだのだろう)

 彼について考えると、そわそわして頭が呆けてしまう。寿陵山での時は気分が高揚していたからか面と向かっての会話も平気であったが、いまは違う。奉遜と顔を合わせ、平常を保つ自信がない。何度も頬に手を押し当て、熱を確認する。考えれば考えるほど顔が熱くなりそうだった。

(しかも夜に来るなんて、どうして)

 夜に尋ねてくるとは、そういう意味である。事情があったといえ、星蔡は奉遜の元に嫁いだ身だ。夫婦であれば起こりうることだが、想像するだけで気恥ずかしい。奉遜がきらいなのではなく、奉遜であるから恥ずかしいと思ってしまうのだ。
 臥床に腰掛けるのも落ち着かず、部屋をうろうろと歩き回る。寧明らが気合いを入れて飾り立ててくれたので、動くたびに歩揺(ほよう)が音を鳴らした。

 部屋を端から端まで、数往復ほど繰り返したところである。

「……愉快なことをしているな」

 声がした。はっとして振り返れば、いつの間にか奉遜が部屋に来ていた。彼は榻に腰掛け、くすくすと笑いながらこちらを見ている。

「い、いつの間に」
「ここに入る前もその後も、何度も声をかけたぞ。お前は上の空で何やら考えこんでいるようだったが」

 考えていたのは奉遜のことだが、口が裂けても言えない。星蔡は顔を赤らめうつむくしかなかった。

「そこまで落ち着かぬほど、私が来たことはいやだったか?」

 奉遜が立ち上がり、星蔡の元に寄る。垂らした髪を一房つまみ、それを撫でた。
 いま顔をあげれば、きっとひどい顔をしている。頬に触れていなくとも熱を持っている自覚があった。星蔡は顔を背けたまま答える。

「……いやでは、ありません」
「それはよかった。だがなぜこちらを見ない」

 そこで奉遜の指が星蔡の顎へと動いた。ぐいと顎を持ち上げられ、上を見上げる形になる。二人の視線が交差した。

「私は、小さな頃からお前のことを好いていた。呉家でどれだけひどい目にあっても耐えているお前をいつか救いたいと思っていた」

 奉遜の言は、星蔡の頭の芯を溶かしていくようだった。昔の、あの男子の姿が浮かぶ。あの頃から奉遜は星蔡のことを好いていたのだろう。星蔡はまったく気づいていなかった。自分のことで精一杯だったのである。

「お前を失ったことを悔やんでいた。もっと早く駆けつけていればお前を助けられたのにと何度も夢に見た。即位が決まっても、そのことは頭から消えず、他の者で埋めるつもりなどできない。独り身の帝として名を残してやろうと思っていたぐらいだ――けれど」

 温かな指先が頬を撫でる。顎を持ちあげられていなくとも、視線は外せなくなっていた。奉遜の潤んだ瞳に囚われている。彼の言葉を聞いていたいと願ってしまう。

「霄の国でお前が生きていると知った時、どれほど嬉しく思ったことか。もしもあの場にいたのが星蔡でなかったら、妃にするなど言わなかった。お前だったからあの提案をしたのだ」
「え……てっきり最初から計画していたのかと」
「私はお前と再会したときに決めたのだ。今度こそ失わないと」

 父竜を相手にしても堂々とした物言いをしていたため、霄の者を妃にすることは事前に決めていたのだと思っていた。それがまさか、星蔡を見つけたがための提案だったとは。

「さて、星蔡。私は想いを告げたぞ。お前の心のうちを明かしてほしいところだが」
「わ、わたしは――」

 急かされ、言葉が詰まる。
 奉遜のことは好きだ。この近さで頬や髪に触れるのが奉遜以外の者であれば、星蔡は今頃逃げ出しているだろう。永にいた頃から好いていたと聞いただけで夢見心地になりそうだ。幸せという言葉を用いるのなら、この瞬間が合うのだと思う。

 そのことを伝えようと、奉遜を見上げる。距離は少しずつ近づき、そして――。

 星蔡が気持ちを伝えようとした瞬間である。何かが恐ろしい速さで星蔡の体を登り、跳ねた。
 そしてかぷり、と。小さなその影が奉遜の指を噛む。星蔡は我に返り、叫んだ。

「負屓、どうしてここに」

 奉遜の指に噛みついたのは負屓だった。別の部屋に置いてきたはずが、こっそりついてきてしまったらしい。慌てて負屓を引き剥がすが、負屓は怒りをむきだしにしている。

「星蔡にてをだすなー!」

 これには奉遜も苦笑するしかない。噛まれた指を押さえながら、ぼやく。

「……まったく元気な兄上だ」
「その兄上ってのもやめろ! はらがたつ!」
「もう! どうしてついてきちゃったの」

 ぎゃあぎゃあと騒いでいると、今度は腕輪が光った。第三子・嘲風の宝玉だ。遠視で何かが見えたのだろう。

「どうしたの?」
『宮都で化け(いたち)が人を困らせている。念のため様子を見に行ってほしい』
「今度は鼬か……わかった。行ってくる」

 鼬ということから金火狐とは関わりがなさそうだが、妖術に絡むものであれば対応できるのは星蔡しかいない。腕輪の光が消えたのを確かめて息をつくと、奉遜が拗ねたように言った。

「妖妃は忙しいな」
「宮都で何か起きているようなので様子を見に行ってきます」
「九竜がいるから大丈夫だとは思うが、しかし場を読まずに邪魔が入るものだ」

 奉遜は星蔡を見つめ、不敵な笑みを浮かべた。

「いまは仕方ないとしても、いずれお前を振り向かせてみせる。お前の兄姉にも私を認めさせてやる――聞いているのだろう九竜よ」

 腕輪は光らないが彼らのことだから聞いているだろう。負屓は相変わらず威嚇しているが、奉遜は意に介していないようだ。

「では行くか」
「行く……って陛下もですか?」
「お前一人で行かせるわけがないだろう。そばにいなければ、お前が助けを求めても駆けつけられぬからな」

 そう言って、奉遜はこちらに手を差し伸べる。

「九竜あやかしの妃。お前がこの後宮を守るのなら、私はお前を守ろう」

 星蔡は頷き、その手を取る。温かく、大きなてのひらだ。触れている場所から彼の勇気がこちらに溶け込んでくるかのように、力が出る。

(わたしだって、奉遜を守りたい)

 その決意を胸に、二人は部屋を出る。後宮を守るために。

<了>

作品を評価しよう!

ひとこと感想を投票しよう!

あなたはこの作品を・・・

と評価しました。
すべての感想数:232

この作品の感想を3つまで選択できます。

この作家の他の作品

偽りの男装少女が、凍龍国の聖夜を作る

総文字数/5,674

後宮ファンタジー1ページ

本棚に入れる
表紙を見る
どうしようもなく惹かれていた

総文字数/9,989

青春・恋愛1ページ

本棚に入れる
表紙を見る
学校で繋がる 9つの恋短編集

総文字数/120,789

青春・恋愛9ページ

本棚に入れる
表紙を見る

この作品を見ている人にオススメ

読み込み中…

この作品をシェア