「大陸の「後宮ロマンス」の虚構」
しばしば外国の「後宮」を舞台とした宮中もののロマンスがエキゾチックな関心から美化されて描かれるようだが、現実はずっと過酷であったと思われる。
たとえば「漢の呂后(りょこう)」などで調べてみれば、皇帝や王侯の愛情や後継者争い(さらには我が子の境遇のために妃たちは血眼になる)はしばしば陰惨を極めた。日本では天皇ですら(十七条憲法ではないが)ルールや公正さを尊重したが、中国では権力者が過剰に絶対で日本以上の独裁的暴君であった。
三国志で客人(劉備)をもてなしするに肉がなかったので、妻を殺して食肉にした逸話があるそうだ。また、これは三国志の直後の晋(しん)の時代のことだが、後宮に大量の美女を集めたものの、毎夜の相手を選ぶのに(面倒で)羊の車で「偶然立ち止まった部屋の女」を選んだという話がある。
唐の則天武后にしたところで(記憶が正しければたしか)元は父帝の妾で、自分と一族の権勢を死守するために手段を選ばず凶暴化するしかなかっただろう(敗北は死を意味する)。あの楊貴妃にしたところで、皇子の妃であったのを皇帝が見初めて愛人の妾にした事情がある(貴妃は複数ある皇帝の妃の位階)。
また外戚(母方の親族)の横暴を未然に防ぐため、後継ぎの生母を殺すようなことまで行われていた(漢の武帝や、北方人おうちょうなど)。
中国「後宮」の現実は日本以上に「(女は)非人格的な物扱い」で、生存闘争も数段に過酷であった。
日本の平安時代には女流文学が栄えたし、それ以前から女性の作った詩歌が多く残っている。しかし中国ではほとんど皆無なのであって、極度の男性至上主義の文化であった。
たとえば「内侍(ないし)」という官職は日本では女官の役職であったが、中国では宦官(去勢された男の宮中役人)なのである。中国の「後宮」は、天皇の生ぬるい宮廷のように女性に人としての人格を認めていなかったのである。
しばしば外国の「後宮」を舞台とした宮中もののロマンスがエキゾチックな関心から美化されて描かれるようだが、現実はずっと過酷であったと思われる。
たとえば「漢の呂后(りょこう)」などで調べてみれば、皇帝や王侯の愛情や後継者争い(さらには我が子の境遇のために妃たちは血眼になる)はしばしば陰惨を極めた。日本では天皇ですら(十七条憲法ではないが)ルールや公正さを尊重したが、中国では権力者が過剰に絶対で日本以上の独裁的暴君であった。
三国志で客人(劉備)をもてなしするに肉がなかったので、妻を殺して食肉にした逸話があるそうだ。また、これは三国志の直後の晋(しん)の時代のことだが、後宮に大量の美女を集めたものの、毎夜の相手を選ぶのに(面倒で)羊の車で「偶然立ち止まった部屋の女」を選んだという話がある。
唐の則天武后にしたところで(記憶が正しければたしか)元は父帝の妾で、自分と一族の権勢を死守するために手段を選ばず凶暴化するしかなかっただろう(敗北は死を意味する)。あの楊貴妃にしたところで、皇子の妃であったのを皇帝が見初めて愛人の妾にした事情がある(貴妃は複数ある皇帝の妃の位階)。
また外戚(母方の親族)の横暴を未然に防ぐため、後継ぎの生母を殺すようなことまで行われていた(漢の武帝や、北方人おうちょうなど)。
中国「後宮」の現実は日本以上に「(女は)非人格的な物扱い」で、生存闘争も数段に過酷であった。
日本の平安時代には女流文学が栄えたし、それ以前から女性の作った詩歌が多く残っている。しかし中国ではほとんど皆無なのであって、極度の男性至上主義の文化であった。
たとえば「内侍(ないし)」という官職は日本では女官の役職であったが、中国では宦官(去勢された男の宮中役人)なのである。中国の「後宮」は、天皇の生ぬるい宮廷のように女性に人としての人格を認めていなかったのである。