1
 豊かな羊の群れと家族の憩う天幕ほどに良いモノなどあろうはずがない。
 モフモフとしたメエメエたる生命感の温かな首を抱いて、顔を埋めて羊の臭いを吸い込む。その後ろから牧犬が甘ったれた息遣いで、主人の少女の足と尻に愛のタックルを繰り返している。

 ワンッ、ワンッ

 たとえ振り返らずとも、奴が飛び跳ねながら尻尾を振りたくっていることは容易に想像できる。羊以上に人に懐く犬っころの常、チャンスを逃すはずもなく、遊んで欲しくてはしゃいでいるのだ。
 ユウ(邑)は羊をホールドした細い腕をほどいて、父と兄の忠犬を構ってやることにする。羊は人情よりも食い気を優先させて草を食みに行き、犬とユウが残される。周囲では霞の棚引く草原に羊が何頭も思い思いに草を食んでいるのだった。

「父様、兄様がいなくて、お前も寂しいのか?」

 手を伸ばして頭を撫でてやれば、ご主人様への恭順の意思表示に耳を寝かせ、目を細めて掌に頭を押しつけてくる。そして少しだけ申し訳なさげな気遣わしげな眼差しで、近寄せたユウの顔に優しくキスしてくる。
 これがほんの少し以前の頃ならば、もっと勢いよく無遠慮に飛びついてきたものなのだった。やはり犬コロなりにも状況や胸中を慮っているのだろうか。
 十日ほど前にわかったことだが、彼女の父と兄は羊の群れの放牧中に、殷王の兵士たちに捕まって連れて行かれてしまったのだという。遠出して帰りが遅いので皆が心配ていたのだが、じきに命からがらに逃げ帰った氏族の男の何人かの知らせで、絶望的な真相がわかった。

(父様も兄様も、もう帰ってこないのだろう)

 殷(いん)王は強大な権力を持ち、たくさんの城塞の支配者で、その軍隊は人数も多い。
 だから少人数のバラバラで羊の放牧をしている羌(きょう)の者たちなどは、自身が狩りの獲物や家畜のようにされる。捕まると連れて行かれて奴隷にされたり、呪術の祭儀で生贄にされてしまうのだ。
 それならば羌族も集まって住んで自衛すれば良さそうなものだけれども、生活の糧である羊の遊牧をするためには、お互いに適当に離れていないと仕事にならない。一カ所にたくさんの集団がいればすぐに牧草がなくなって不毛の土地になってしまうだろう。

(豚を飼って、みんなで集まって住んでいたらこんなことには)

 羊よりはまだ豚の方がまとめて飼育しやすいし、城壁のある都市などの狭い場所でやっていけるだろう。
 しかし現実は難しい。都市を維持して豚の餌を調達しようと思えば、農耕しなければいけないし、生活スタイルと生業を丸ごと変えなければならないことになる。ノウハウもない上に、土地の向き不向きや農地への改良も必要だから、急に出来るものではない。
 たとえ頑張って幸運にも恵まれ、下手な真似事が上手くいったとしても、城塞都市などは防衛の技術がなければ格好の攻撃目標でしかない。どうせ殷王の軍隊に包囲されて、みんなで仲良く奴隷にされたり生贄に殺されるのが関の山なのだ。だから「今まで通り」に羊の放牧を続け、捕まらないようにせいぜい用心するくらいしか選択肢はない。
 それでも仕方がないとは思いつつも、身内が犠牲になれば気持ちも滅入るし、つかぬ事を考え込むしかない。

(帰りたくない)

 今のユウには、一番良いもののうちで羊の群れはあっても、家族の天幕はない。正確には父と兄がいない。
 こうして羊の放牧で番をしているときには、家に起こった不幸をいくらか忘れていられる。


2
 つい、時間が遅くなってしまった。だから自分が間抜けだった報いなのだろうと思った。
 馬に乗った、皮と金属の鎧をつけた数人の男たちがこちらにやって来る。きっと自分を見つけて捕まえにきたのだろう。金属が光っているあたり、味方の者たちの皮革の防具とは様子が明らかに異なっている。

(どうせ捕まるんだったら、父様や兄様と一緒が良かったかな?)

 もし実際にそうなっていたとしたら、目の前で身内を殺されたり自分が乱暴されたりして、それで半狂乱で悲惨だったことだろう。
 足が竦みながらも、あらぬ考えが頭をよぎる。どうせ追っ手が馬では逃げ切れるはずがない。しかも十人くらいいる。
 だいたい見張りと見回りの男たちもいるはずなのに、こんなに本営の天幕の近くまで、どうやってやすやすと入りこんで来られたのかも不思議ではあった。
 そもそもあれくらいの人数ならば(偵察に来た斥候だろうが)、流石に味方の男どもが蹴散らすだろう。それならばまだ、望みはある。たとえ一時的に捕まっても味方が見つけて救出して貰えるかもしれない。
 沈み込んだ気分のせいで諦めがちになって危うく命や人生を捨てるところだった。頭が生き延びるために急にフル回転し出すけれども、それは杞憂だった。

(あれ?)

 騎馬武者の一人がこちらに手を振っている。数人が馬から下りて、こちらに近づいてくる。

「娘さん、呂(りょ)氏の天幕は、この辺りだろうか?」

 呂とはユウの家の名前だった。
 やがて意味がわかる。
 馬に乗った白ヒゲの老人がゆったりとこちらに近づいてくる。

「ユウ!」
「お祖父様?」

 それは数日前に「釣り」に出かけた祖父のショウ(尚)だった。
 もちろん「釣り」とは表向きの建前で、何か重要な折衝なのだろうと、小娘のユウにも察しはついていたが(利発な方ではある)。羌の中でも名望のある長老格で「大公」(カーン)と呼ばれている人物であった。

「おお、ユウ! いいところで会った。お前に、少しでも早く教えてやりたくて、気を揉んでいたところなのだ」

 祖父のショウはいそいそと馬から下りて、孫娘を抱きしめた。子供や孫が多いとはいえ、つい先日に父親を亡くしたユウのことは気にしていたし、奪われた息子と孫のことでも心を痛めていた。どちらかといえばものに動じぬ好好爺であるショウも、流石に今回のような場合には深刻な表情になって当然だろう。
 それが今は面差しも明るい。

「なあユウ。お前、嫁にいったらどうだ? いい縁談があるんだ」

 彼女とて、もう全くの子供ではない。シチュエーションでおよその憶測はついた。連れてきた武者たちは貴顕の使者や従者であるのは明白で、姿格好から都市の領主の手の者だと想像はつく(殷王の兵士とは違うようだった)。
 どうやら羌の氏族の者たちが生き延びるために、城塞都市(と農村)の有力領主と同盟の交渉をしてきたのだろう。
 そこで政略結婚も兼ねて、秘蔵っ子であるユウを嫁にやろうという腹であるらしい(もののついでで有利な縁談をまとめてくる辺りが抜け目なさなのか?)。常駐大使みたいな面もあるからそこそこ賢いユウは打ってつけで、かつてショウもユウやその父(ショウの息子)にそういう事を話していた。どうも祖父は孫娘に約束を果たしてくれたらしい(注意:現代の感覚では違和感があるかもしれないが、当時の時代を考えれば人権侵害では全くない)。


3
 とうに忘れられた大陸の歴史の初め、ほの暗い時代。
 羊飼いの民である「羌」(きょう)の天幕で氏族の大公(大長老)である賢人ショウ(尚)は、一族を集めて氏族の者たちの訃報と危機を図った。
 華夏国の覇権を握る殷王の暴虐は歴代にもまして甚だしく、羌の氏族の者たちも捕獲されて奴隷にされ、祭儀の生贄に殺される者たちは後を絶たない。
 ショウは近隣の大領主(族長)で人望人徳のある西伯(姫氏の昌)と同盟し、諸氏族の諸侯を糾合して殷王の暴虐支配に逆らおうと考えていたのだ。