司書の仕事も楽ではない。それどころか、毎日苦労することばかりだ。
大学で司書の国家資格を取得たが、むしろ苦労したのはそこからだった。
とにかく求人が少ないのだ。司書の仕事は基本的に欠員が出るまで新しく求人は出さない。
だから毎年、新卒を雇う一般の企業とは全く違う、狭い世界だ。
 しかも、現在の図書館はどこでも大抵、検索機が配置されており、わざわざ司書に聞かなくても利用者が自分で本の位置を探せてしまう。それどころか今は本の有無、貸し出し中か、取り置きの手続きまでインターネットからできてしまうことも多い。
これではますます司書の需要が少なるというものだ。
 
 私も、大学で小さいころから憧れていた司書になるために勉強していたころは希望にあふれていた。
幼いころから読書が好きで、将来大好きな本に囲まれて仕事ができたらどんなに幸せか!
そう考え、大学で指定の科目を履修し、図書館司書資格を取った。しかし、前述のような募集の少なさなど、現実的な問題に直面し、そんな小さいころの夢などはもう消し飛んでしまった。
 今は非正規職員として、なんとか司書の仕事についている状況だ。
働きながら正規職員の欠員が出るまで待つしかないのだが、将来に対する不安は募る一方だ。
 憧れと現実との間で日々悶々としつつ、それでも今日も朝一番から司書の仕事をするために職場の図書館へと私は入っていった。

 今のままでいいのだろうか、引き続きそんなことを考えながら開館の作業を進めていると、ひょっこりと奥から人影が見えた。
 まだ開館時間前だというのに、おかしいなと思い、人影を凝視していると、人影の方も私に気付いたらしくこちらにずんずん近付いてきた。すぐに誰か分かった。

「坂井館長、おはようございます。今日はお早いですね」

人影は館長の坂井だった。それにしても館長が開館時間前に来るとは珍しい。
私はこの図書館で働き出してから一年以上経つが、こんなに早い時間に館長が来たのは初めてだ。

「サカイ?何のことだ?」

「へ?あ、あの・・・」

私がポカンとしていると

「ここはどこだ?お前は誰だ?奴らの仲間か?」

と館長はキョロキョロあたりを見回しながら聞いてきた。

 ・・・何を言っている?朝早いから寝ぼけているのだろうか。
そういえば、来月図書館で行われる地域の子供向けに本を紹介するイベントについての打ち合わせを昨日ずっとやっていたっけ。まさか徹夜でやっていたのだろうか。
それでこんなに寝ぼけて?いやそれにしても様子がおかしい。

「ええと・・・ここは、館長あなたの図書館ですよ。あと私は山田です」

私が答えると、館長は驚いたように周囲を見回し、

「図書館?見るに書物を収集しておく蔵のようなところか。しかし、見事な蔵書の数だ。この蔵はどこの御仁の所有物だ?」

「どこの御仁って・・・公立の図書館ですから、国のものだと思いますよ」

私がそう言うと

「国の?ほう、荊州にこんな蔵書を誇る施設があるとは知らなかった」

荊州?いよいよ話がおかしい。酔っているのだろうか?しかし酒の臭いはしないし、口調もはっきりとしている。

「あ、あの館長、大丈夫ですか?」

私がおずおずと尋ねると館長は私を見ながら

「ヤマダと言ったな。お前は先ほどからワシを館長と呼ぶが、誰と人違いをしている?」

人違いだって?あり得ない。毎日のように見ている館長の顔を間違えるはずがない。

「館長、本当に大丈夫ですか?それともなにかの冗談ですか?」

「冗談など言っていない。それに館長でもない」

そう言うと大きく息を吸って

「ワシの名前は龐統だ」


 私は呆気にとられていた。館長のことはこの一年余り毎日のように話してきたからよく知っている。
真面目を絵に描いたような人でこんな荒唐無稽なことを言い出す人ではない。
ではいったいどうしたというのだろうか。
私はとにかく何か返事をしなければ、と思い頭をフル回転させ、答えた。

「ほ、ほうとう?あの太いうどんみたいな・・・?」

まったく。こんな間抜けな答えしか出てこない、自分の即興力の無さが恨めしい。

「違う。何を勘違いしている。ワシの名だ。龐統。姓は龐、名は統。親しい者は士元と呼ぶ」

「龐統?龐統って三国志の?」

私は昔読んだ三国志の漫画のことを思い出した。龐統は三国志に出てくる武将の名前だ。たしか。
なぜ館長は急に三国志の武将を名乗り始めたんだ?どういうつもりだ?まさか正気を失ったんだろうか?

「なんだお主、ワシを知っておるのか。ワシもなかなか有名になったものだな」

そう言うとガッハッハッハと笑った。

私はさすがに少し呆れてきた。それにしてもなんでこんな朝っぱらから、おっさんの三国志ごっこに付き合わされなければいけないのか。開館時間までまだかなりあるとはいえ、準備だってやらなきゃいけないのに。

「館長、もう勘弁してくださいよ。なんで急に三国志の人物になりきってるんですか。
それにしても知りませんでした、館長がこんな三国志マニアだったなんて」

すると館長は

「冗談を言っているのではないぞ、それにお前は所々わけのわからん話をするのだな。
三国志?それに館長ではないと言ってるだろう」

館長は少々困った、といった具合に口元に手を置くと、ハッとした顔になった。

「むっ!?髭が!ワシの髭が無い!」

そう言うと両手で顔をいじりながら

「ヤマダ!鏡だ、鏡はないか!?」

と言ってきた。

「鏡ですか?それならトイレに大きいのが・・・というかまだ続けるんですか?」

私は半ば呆れてしまった。まったくあの真面目な坂井館長がいったいどうしてしまったのだろうか。

「いいから鏡があるところに案内するのだ!」

顔を見ると館長は本当に慌てている感じだ、もうこうなったら仕方がないと思い、
こっちです。と言いつつトイレまで案内した。

 トイレに入り、正面にある大きな鏡の前まで来ると、館長は腰を抜かさんばかりに驚いた。

「これがワシの顔か・・・?服装も!何もかも変わっている!どういうことだ!」

 その驚いている館長の顔を見て、私は、もしかしたら館長は本当のことを言っているのではないかと思い始めた。
なぜならその驚いている顔はとても演技には見えなかったし、ふざけるにしては度が過ぎている。
目の前の館長の顔はまさしく驚愕の表情で、顔をゆっくり手で撫でまわしながら呆然としている。
私は思い切って声をかけた。

「あ、あの・・・お取込み中すいませんが・・・今が何年かって分かります?」

男はハッと我に返ると

「あ、あぁ・・・今は建安13年だ。まさか、違うのか?ここはいったいどこなんだ?」

どうやら冗談ではない。この人は本気のようだ。
私はとりあえず彼の話を聞いてみることにした。

 私達はトイレを出て、閲覧室まで来るとテーブルを挟んで腰を下ろした。

「それで・・・ええと、なんとお呼びすればいいでしょうか?龐さん?統さん?それとも士元さん?」

「龐統でいいぞ。それで、何がいったいどうなっているのだ」

「分かりませんが、一つずつ、確かめていきましょう。龐統さん。
まず今は建安13年とおっしゃいましたよね」

「あぁ間違いない」

私は図書館にあった三国時代のことを記した歴史関連の本をめくると

「建安13年・・・というと208年ですね。つまり今から1800年以上昔のことになります」

「1800年だと!?」

龐統は信じられないといった感じで、

「しかし、そうだとしてもなぜ、こんなことに。そしてワシはなぜこの見知らぬ男の姿になっているのだ」

私には一つ思い当たることがあった。SF小説で読んだ話だが、今のところ可能性はそれしか思いつかない。

「龐統さんに起こったことはタイムリープと呼ばれる現象かもしれません」

「タイムリープ?なんだそれは」

「人の意識だけが時代を超えて別の人の体に入り込むことです。龐統さんの場合、1800年の時を超えて、なぜか私の上司であるここの図書館の坂井館長の体に龐統さんの意識だけが跳んできたということになります」

龐統は顎をさすりながら考え込んでいる。おそらくは顎鬚を触りながら考えるのが彼の癖なのだろう。
もっとも坂井館長はきれいに髭を剃るタイプの人だったので、今はうっすらとした無精髭程度しかないが。

「タイムリープというのは本来、今の自分の意識が過去や未来の自分の体に跳ぶ、あくまで自分の体に起こる現象なんですが、龐統さんの場合はかなり特殊のようですね。なぜかここの坂井館長の体に1800年の時を超えて意識が入り込んでしまったわけですから」

龐統は話を聞きながら、しばらく考え込んでいたが、やがて口を開いた。

「普段ならそんな与太話、夢物語だと笑い飛ばすのだが、しかし、実際にこうしてワシには起こっている。それは疑いようのない事実だ」

龐統は顔を上げると、

「お主の話、信じるしかあるまい!そのタイムリープとやらをな!問題はだ」

龐統は机に手を置き、ぐっと乗り出した。

「はい、龐統さんがどうやったら、元の時代、建安13年に戻れるか、ですよね」

「その通りだ、お主は何か知らんのか?そのタイムリープで元の時代に戻るためにはどうすればよいのかを」

正直、分からない。物語によって時間跳躍の理由は様々だし、そもそもきっかけもなく唐突に起こるものもある。
そもそも自分のSFの知識だけで合っているのだろうか?
もしかしたらずっとこのままなんてことも・・・

「正直にお話しします。私には戻り方は分かりません」

「そうか・・・」

龐統は暗くため息をついた。

「ですが」

と私は切り出した。

「龐統さんがこの時代に来たということは何か理由があるはずなんです。タイムリープしかり、
龐統さんと私は国も時代も違いますが、こうして会話ができています。まるで自動に翻訳されているかのように。これって何か不思議な力が働いているんだと思います。たぶん今日、龐統さんと私が会話をして、何かの目的を成し遂げる。そうすればきっと・・」

「この時代での目的を達成すれば、また元の時代に送り帰されると?」

「はい、その可能性はあるんじゃないでしょうか。」

「ふぅむ・・・」

龐統は顎に手を置き、考えている。

「よし、やってみよう。こんな奇怪なことが起きているのだからもうどうにでもなれ、だ。
藁にも縋る思いで試してみようじゃないか」

と言い、ハッハッハッと笑った。

 私は入り口に臨時休業の札を下げると、まずタイムリープに関する本をありったけ持ってきた。
何か手がかりはないかと二人で手分けして読み始めた。読みながら龐統から話を聞いた。

「まったく、世にも不思議なことがあるもんだ。まさか1800年も時を超えることになろうとは」

「ここに飛ばされる前はどこにいたんですか?荊州と言っていましたが」

「その通り、荊州にいた。曹操に会いに行くつもりだった」

「曹操ってあの曹操ですか?」

「おお、知っているか。いまや曹操は飛ぶ鳥を落とす勢いで破竹の勢いで北部のほぼ全てを平定している。帝を傀儡にして大義名分を立ててな。その曹操がこの度ついに大軍を率いて南下してきたのだ。そこで江東の孫権と劉備が組み、曹操軍を迎え撃つこととなったのだ」

 曹操、孫権、劉備。全て三国志の主要人物達だ。彼ら三人が後にそれぞれ魏、呉、蜀、という三つの国を建国し、三国志で有名な三国時代へと突入していく。

龐統は続けて

「ワシはある計略を胸に、曹操のもとへ向かう途中でな。荊州で夜になり、眠った。そして起きたらここにいた、というわけだ」

そこでタイムリープしたというわけか。

「目が覚めた時、何事かと思ったぞ。最初は、夜盗に寝込みを襲われて、さらわれたのだと思った。周りを見回しても剣も持ち物も全て無かったからな」

当然だろう。図書館の館長の体なんだから。

「しかし手足を縛られていないし、見張りもいない。これはおかしいと思い、おっかなびっくり部屋の外へと足を踏み出したら、お主がいたというわけだ」

だから最初に会ったとき、奴らの仲間かと聞いてきたのか。ようやく合点がいった。

「それでヤマダ、ここはどこなのだ。お前のこれまでの話を聞く限り、1800年後の漢の都、というわけではなさそうだな」

私はどう説明したものか悩んだが、正直にそのまま言うことにした。

「ここは日本。荊州のもっと東、海を渡った先にある国です」

「なんと!そんな遠くまで来てしまったのか」

龐統は少し、寂しそうな顔をした。
無理もない、1800年後の日本へ急に跳ばされてきたのだから。気持ちは分かります、なんて安っぽい慰めの言葉すら口に出せない。
龐統が日本語で会話ができ、文字も読めるのは幸いだった。どういう原理かは知らないが、不幸中の幸いというしかない。

「龐統さん・・・必ず帰れるはずです。あきらめずに手段を探してみましょう」

私は安っぽいと分かっていながらも声をかけずにはいられなかった。

「なに、曹操の数十万の大軍を相手にすると思えば、このぐらいどうってことはない」

と笑ってみせた。私は話を変えようと先ほどの会話を思い出し、尋ねてみた。

「そういえば龐統さん、計略ってどんなものなんですか」

「うん?計略か、いや実はな・・・」

龐統がバツが悪そうに頭をかくと

「実はな何も思いついておらんのだ」

「え!?そうなんですか!さっきは何か計略があって曹操の元に向かっているといった口ぶりでしたけど」

「そうは言っても考えてみよ、河北を平定した曹操軍は少なくとも3~40万の大軍で押し寄せてきているのだ。対するこちらは孫権、劉備の連合とはいえ、合わせても兵の数は4~5万程度、文字通り桁違いなのだ」

しかし、これはおかしい。三国志の史実では孫権と劉備の連合軍がいくつもの計略を駆使して曹操軍を打ち破っている。その計略の大きな一端を担ったのが龐統だったはずだ。
はずだ、というのは私の記憶が曖昧だからだ。三国志は昔漫画で読んだが、詳しくは覚えていない。龐統の名前やおおまかな歴史の流れは覚えているのだが、誰が何をしたかまでは正直思い出せない。

 確認してみようと三国志の本をあさってみるとあいにくその部分が借りられて抜けていた。
龐統は何をしたのか、それが分からないまま過去に戻ってしまったら手ぶらで龐統は曹操の元に飛び込むことになる。そんなことしたらすぐに殺されてしまうだろう。

 龐統はというと、のん気なものでSF小説を実に楽しそうに読み漁っている。

「すごいな、山田。おもしろい物語がいくつもあるではないか。人間の創造力というのは素晴らしいな!このような話を思いつくなんて」

まったく、人の気も知らないで。

「山田!読み終わったぞ!次の本を取りに行くぞ」

さすが、歴史に名を残す名将なだけあって、読書のスピードも早い。私の3倍ぐらいの早さで読み進めている。

「目的忘れないでくださいよ、帰り方の手がかりになりそうなことを探しているんですからね」

「分かっている、分かっている!」

と陽気な返事を返してきた。
まったく、心配していたのが馬鹿らしくなってきた。

 新しい本を取りにいくと、龐統は目を輝かせ、ワクワクしながらそこら中の本を読み漁っている。
あらゆる知識の宝庫である本を見るのが楽しくてしょうがないといった感じだった。
 私はやれやれと思いながらも、ふと思い出した。かつての私、子供のころの私も彼のように本を読むことが楽しくてしょうがなかった。あらゆる知識がつまっている本、ページをめくる手が止まらず、知識と知恵の虜になったものだ。
 いつからだろうか、あのワクワクした感じがなくなり、ただ頭に情報をつめこむためだけに本を読むようになったのは、本を読むことが楽しいと感じなくなったのは。

 龐統さんを見ているとそんなことを思い出し、なんだか彼のことがうらやましくなった。

「龐統さんそろそろ行きましょう。タイムリープに関する本は向こうの本棚です」

「分かった。もう一冊だけ」

と言って龐統が本棚から一冊本をつかみ抜き取ろうとした時、その隣の本がくっついて一緒に出てきて下に落ち、ページが開いた。
 
 私が近づくと、龐統はその落ちた本をじっと凝視している。私もつられて目線を下に落とすと

「なんですかこの本、えぇと『世界の図書館100選』ですか。へぇこんな本もあるんですね」

私がその本を拾い上げ、タイトルを読むと

「ちょっと見せてくれ」

龐統が本を手に取ると、先ほど下に落ちていた時に開いていたページをまたじっと読みだした。
私も横からのぞくと、鎖付き図書というページだった。
中世のヨーロッパでは書籍や聖書の盗難を防ぐために本棚と書籍を太い鎖で繋いでいたそうだ。
そういった鎖付き図書を写真付きで解説している。
龐統はその鎖付き図書のページを一心不乱に見ている。
あまりにじっと凝視し続けるので、私はそれ以上声をかけられなかった。

 しばらくすると龐統は本を閉じるのと同時に、

「これだ!」

と叫んだ。あまりの声のデカさに私は腰を抜かしそうになった。

「ど、どうしたんですか急に」

「ヤマダよ、感謝するぞ!おかげで曹操軍を打倒する策を思いついた」

「本当ですか!?それはいったい?」

「ハッハッハッ聞きたいか?それはな“鎖”を使うのだ」

「鎖?それはいったい・・・」

尋ねようとしたとき、龐統は急に持っていた本を落とし、ふらつきだした。

「大丈夫ですか?どうしたんです」

「ヤマダよ、時間が来たようだ。」

「時間が来たって、何の?」

「先ほど読んだ物語にもあった。ついに戻る時が来たのだ」

「戻る時って、過去にですか!?そんな急に」

「ヤマダよ、頼みがある。ワシを先ほどの席まで連れていけ。肩を貸してくれ」

私は龐統に肩を貸し、なんとか先ほどの席まで歩き始めた。
龐統はもう歩くこともキツそうだ。なんとか席に着き座ると

「ヤマダ、世話になったな。私はもう行かねばならん」

「そんな世話なんて、私は何も・・・」

「いや、お前はワシをあの本まで導いてくれた。でなければワシは策を思いつくこともなかったろう。お前には良き本を選ぶ天賦の才がある。それは素晴らしい才だ」

私は龐統の言葉を聞き入っていた。

「これからもその才を活かし、多くの人々を最良の書物まで導いてやれ。それと最後に」

龐統はそう言うと先ほどまで一緒に読んでいたいくつものSF小説を指さし

「このエスエフという物語、実に面白かったぞ!」

言い終わると同時に一瞬、龐統の体が光った気がした。そして全身の力が抜け、机に突っ伏した。


 龐統はそれっきりピクリとも動かない。

「まさか死んでない・・・よね」

私はそっと龐統の首に指を当てるとちゃんと脈打っていた。
ほっとすると同時に、龐統がう~んという声を出した。
いや、おそらくもう龐統では・・・
 目をしぱしぱさせ、顔をこすると目の前にいる私を見て、

「あ、あれ山田君、なんでこんなとこにいるんだい?」

館長が素っ頓狂な声をあげた。
どうやら戻ったようだ。

「なんでってここは図書館で私は司書ですよ、館長。仕事に決まってるじゃないですか」

私がそう答えると、館長はキョロキョロあたりを見回して

「うわぁ、参ったな。昨日打ち合わせが終わった後、会議室で少し休んでたんだけど、そのままぐっすり寝入っちゃったみたいだ」

「それにしても会議室にいたはずなんだけど、なぜ閲覧室にいるんだろう?」

私はなんと言おうか迷ったがごまかすことにした。

「さぁ?寝ぼけたんじゃないですか?それにしても館長いいんですかお時間の方は」

館長は腕時計を見ると

「まずい!もうこんな時間か、すぐに家に戻らないと!」

と言い、慌てて荷物を取りに会議室に向かった。慌てて会議室から鞄を持って来ると、私に向かって

「そうそう、君に伝えておくことがあったんだ。実は今度司書の木村さんが他の図書館に異動することになってね。副総括責任者としてやってくれないかってオファーがあったそうだよ」

「それに伴い、正規の司書の枠が一つ空くんだけど、山田君やってみる気はあるかい?」

私にとってはまさに夢のような申し出だった。

「はい、是非お願いします!」

私は二つ返事でOKした。

「良かった。君の働きぶりは同僚からも評判いいしね。あらためたこれからもよろしく頼むよ。詳しい手続きと、正式な辞令はまた後日出すから」

そう言うと館長は小走りで入り口に向かおうとしたが、立ち止まり

「ああそうだ。これ返しておいてもらえる?休憩がてらにこの本読んでたら眠っちゃったみたいなんだ」

と言って私に本を一冊差し出した。
タイトルを見ると『三国志~赤壁の戦い~』
あの抜けていた三国志の一冊だった。

「いやぁ、この本読みながら眠ったもんだから変な夢を見たよ。なんだか僕が三国志の世界にいるような夢でね。荊州をブラブラ歩いていたんだ。なんだか妙にリアルな夢だったなぁ」

そう言うと館長は小走りで出ていった。
私はそっと入り口の休館中の札を開館中の札と変えた。
日はもう高く上っている。いい天気だ。


龐統と読んでいたSF小説を片付けていると、あの図書館100選が目に入った。
龐統が見入っていたのは鎖付き図書のページだ。私は館長から受け取った三国志を開き、龐統が出てくる文を読み進めた。そのうちに昔の記憶も思い出され、龐統が何をしたかようやく思い出した。

「そうか、連環の計か。龐統さんはこれを思いついたのか」

建安13年といえば、三国志の中でも名高い赤壁の戦いが起こった年だ。
赤壁の戦いが起こる前に、曹操軍は船の揺れからくる強烈な船酔いに全軍が苦しんでいた。
そこで龐統は曹操に船同士を鎖でしっかりと繋ぐことを提案する。そうすれば揺れは抑えられ、揺れも収まり、船酔いも減るとの提案だった。曹操はこの提案を採用し、実際揺れは少なくなった。
しかし、これは龐統の仕掛けた罠であり、孫権・劉備軍は鎖で繋がれた曹操軍の船団に火計を仕掛け全て焼き払う計略だった。鎖で繋いでしまったため曹操軍は身動きが取れず次々に燃え広がり、曹操軍は壊滅し、戦いは孫権・劉備連合軍の勝利となった。
龐統が仕掛けたこの策略を連環の計と呼ばれた。

「龐統さんは鎖付き図書館の本棚と書籍を鎖で繋いでいるこのページを見て、連環の計を思いついたのかな」

もっともこの龐統の活躍は歴史書である『三国志』を元にした小説『三国志演義』に書かれていることなので史実かどうかは分からない。

 それでも私が会った龐統さんは私に本を選ぶ才能があると言ってくれた。私は龐統さんと話したことを生涯忘れないだろう。

 龐統さんと話したのはごく短い時間だったが、私に人生の指針を与えてくれた気がする。
短い会話で私の人生観を変えた龐統さん。
間違いなく名将だ。