「ここだったのね。大丈夫だった?」
 芋虫をてのひらで掬い、餡を退けてやる。
 なんて大きな芋虫だろう。身体は黒で橙色の模様が点々とついている。初めて見る種類だ。
『ありがとうございました。突然捕まり、閉じ込められてしまったのです。助かりました』
「どういたしまして。ここの庭に住むといいわ。美味しそうな葉もたくさんあるわよ」
『まあ……。貴女は虫の言葉がわかるだけでなく、お優しいのですね』
「ありがとう。黒狼が見つけてくれたんだから、黒狼のおかげよ。どこがいいかなぁ。池のほとりはどうかしら」
 露台から庭に降りて池の周りを歩く。ほどよい茂みを見つけて、葉の上に黒い芋虫を下ろした。
『この御恩は忘れません。いつかお礼をいたしましょう』
「お礼なんていいのよ。あなたが無事に大人になってくれれば、それでいいの」
 芋虫はそっと葉陰に身を隠した。
 蝶か、蛾か。いずれ美しい成虫になってくれるだろう。
 素手で芋虫に触り、延々と独り言を喋っている結蘭の背を、朱里は呆気にとられて見ていた。
「蟲公主の噂は本当だったのね。通りで誰も結蘭さまの女官になりたがらないわけだわ」
 黒狼は目の端だけで朱里を捉えると、ふたたび視線を結蘭に戻した。
「これが日常だ。辞めるなら今のうちだぞ」
 むっとして朱里は黒衣を見返し、すぐに顔を背ける。
「辞めないわ。私がいなかったら誰が食事を作るのよ。掃除は? 黒いのがやるの?」
「……それは任せる」
「後宮の女官をみくびらないでちょうだい。まずは皇后さまの女官に文句をつけてやらなくちゃ。虫を入れるなんてひどい嫌がらせだわ」
「歓迎のつもりだろ。まずは茶を淹れてくれ」
「あんたの女官じゃないのよ!」
 さっそく打ち解けたらしい黒狼と朱里のやりとりを背にして、結蘭は庭に生きる虫たちを観察した。
 


「――で、ございます。結蘭公主、聞いておられますかな?」 
 三度目のあくびを噛み殺して、結蘭は涙のにじむ眼を老師に向けた。
「はい、老師。宮廷における規矩とは、ええと……」
 文机に広げられた竹簡に目を走らせる。
 公主といえども虫の観察だけをしていられるはずもなく、連日宮廷の儀礼典礼を講師から教授されていた。平たく言えば、一国の公主としての心構えを延々と説かれている。
 とてつもなく退屈である。
 黙って座っていれば麗しい姫に見えなくもない結蘭だが、勉学は苦手で、竹簡を眺めていると瞼が重くなってしまう。
 老師のお叱りに頭を垂れて、本日の講義もどうにか終了した。
 強張った肩を揉みほぐしながら、殿の階を下りる。
「あー、つっかれたぁ。もうやだー」
 誰もいないのをよいことに、盛大につぶやく。
 そのとき、獅子像の傍に佇んでいた影が笑うように揺れた。
 あ。誰かに聞かれちゃった?
 びくりとして覗くと、笑みを浮かべた黒狼が姿を現わす。
「声が大きすぎるぞ。老師の気苦労が察せられるな」
「黒狼! 迎えに来てくれたの?」
 校尉の位に就いた黒狼は禁軍の所属となり、剣や槍の鍛錬に日夜励んでいる。今日は平原での訓練だと早朝から出掛けていったので、引き上げるのも早かったのだ。
 本音を言えば退屈な講義など抜け出して、黒狼と共に馬で駆け出したい。結蘭だって馬に乗れるのだ。ただし子翼にだけだが。公主とは窮屈なもので乗馬さえもままならない。
「今日はどんな訓練だっ――あっ……!」
 駆け寄ると、絹の鞋先が石畳につまづき、たたらを踏む。
 すいと腕を伸ばした黒狼に、引き込まれるように肩を抱かれた。
 身の丈が六尺ある黒狼は、結蘭よりも頭ひとつ以上高い。鍛え抜かれた逞しい腕にすっぽりと収まってしまい、心臓がとくりと跳ねる。
「ちょ、なっ……あ、あの、」
「気をつけろ」
 無感動に告げられる。いつもの黒狼の、落ち着いた声音だ。
 なによ。私だけ慌てて馬鹿みたい。
 黙って頷き、彼の腕から逃れる。なぜか胸が詰まって、次の言葉が出てこない。
 黒狼は気にするふうでもなく、西門へと足を向けた。
「呂丞相が面会したいそうだ。結蘭に話があるらしい」
「謁見したときに会った偉いお爺さんね」
「丞相は皇帝の右腕だ。まあ、偉いお爺さんだな」