懐かしい景色は昔のまま。結蘭の背丈が伸びたので、露台が低くなったように感じる。階を上がり露台から庭を見渡していると、廊下から軽やかな足音が響いてきた。
「お初にお目にかかります、結蘭公主さま。女官の朱里(しゅり)でございます。身の回りのお世話をいたします」
 溌剌とした女官は結蘭と同じくらいの年だろう。さすが後宮の女官らしく、完璧な礼だ。
「よろしくね、朱里。私のことは結蘭と呼んで」
「はい、結蘭さま。まずはお茶のお支度をいたしましょう。皇后さまより、お祝いのお菓子が届いております」
 房室に入り、椅子に腰掛ける。花鳥の彫られた椅子も昔、母が使用していたものだ。黒狼が房室の隅に立ったままでいるので、不思議に思った結蘭は声をかける。
「黒狼も座れば?」
「ここでいい」
 厨房から戻ってきた朱里は、菓子と茶碗を乗せた盆を携えてきた。
 彼女は黒狼をちらりと見やり、眉をひそめる。
「これ、黒いの。いつまで結蘭さまのお部屋にいるの? 出ておいきなさい」
 黒いの呼ばわりされた黒狼は眉ひとつ動かさず受け流している。結蘭は慌てて弁明した。
「彼は私の近侍なの。幼なじみなのよ。陛下に謁見して校……ええと、」
「校尉だ。官品は正八品。軍の部隊長で数百から数千人を指揮する権限がある」
「そう、それ。すごい出世じゃない⁉」
 黒狼は剣術が達者なので、村の道場に通っていた。彼の腕を田舎の近侍で終わらせるのは惜しい、と師匠が語っていたのを結蘭は聞いている。
 詳しいわりにあまり嬉しそうではない黒狼は、ゆるく首を横に振る。
「俺の実力とは関係ない。公主の近侍だと紹介されたから任命されただけだ。任じられたからには、軍部に在籍することになる」
「え……じゃあ、私の近侍は……?」
 軍部に所属すると、訓練などで忙しくなるだろう。会えなくなってしまうのだろうか。いくら幼い頃過ごした場所とはいえ、黒狼がいないと寂しい。
 龍井茶の芳香が、房にふわりと広がる。
 黒狼は唇に薄い笑みを刷いた。
「心配するな。結蘭の近侍は俺にしか務まらない」
 そして彼は、卓に茶と菓子を並べていた朱里を顎で示した。
「そういうわけだ。俺はいつもいるから、黒い虫かなにかだと思え」
 尊大な態度に、ぴくりと頬を引き攣らせた朱里は、『黒いの』に背を向ける。
 黙殺した彼女は、結蘭に笑顔を見せた。 
「さあ、お召し上がりください。皇后さま自らがお作りになった月餅でございます」
「わあ、美味しそう。皇后さまは料理がお上手なのね」
 皿には形の整った綺麗な月餅がひとつ。
 皇后とは現在の皇帝である詠帝の正妃で、後宮の主でもある。皇帝が代替わりすれば妃嬪もすべて官職が変わるので、結蘭は未だ会ったことはない。
「いただきまー……」
 吸い寄せられるように伸ばした手が月餅に触れる寸前、どこからか声が聞こえてきた。
『たすけて……くるしい……息が、でき……』
「誰⁉ どこにいるの?」
 辺りを見回すが、房室には結蘭と黒狼、朱里のほかには誰もいない。
 それにもかかわらず、くぐもった小さな声音は必死に助けを求めている。
「どこにいるのか教えて」
 きっと虫だ。
 けれど綺麗に片付いた房室に、それらしき姿は見えない。
『暗い……なにも、みえない……』
 卓の下を這いつくばって捜索する結蘭に、朱里は訝しげに首を捻った。
「結蘭さま? どういたしました?」
「誰かが助けを求めているの。朱里も捜して! 暗いところだって」
「はあ……?」
 床下だろうか。それとも天井裏か。すでに露台の下を覗いて戻ってきた黒狼が、ふと卓の上に目を留めた。
「おい。これじゃないか」
「えっ⁉」
 皿の上にのせられた月餅の皮が、まるで生き物のように幾度も押し上げられている。
 黒狼は腰に佩いた刀の鯉口を切った。
 すらりと抜かれた刀身に気圧された朱里は後ずさりをする。刃先ですうと表面のみを斬ると、溢れた餡がもぞもぞと動き出した。
「ひっ……」
 朱里は悲鳴を上げないよう、両手で口元を覆う。
 餡を掻き分けて現れたのは、一寸ほどもある芋虫だった。