長い旅路を経て、結蘭公主の一行は王都へ辿り着いた。
 田舎の奏州の景色とはまるで違い、にぎやかな市場と人波が連なる。
 店先に並んでいる干肉や野菜、籠や手提げなどの工芸品もある。
 結蘭は御簾から顔を覗かせて、それらを物珍しく眺めた。
「おい、あまり顔を出すな」
 黒狼は手綱を操り、御簾を隠すように馬を寄せた。街路には、どこの貴人かと見物している人々が立っている。
「すごい! こんなにたくさん人がいるわ」
「当たり前だろう。王都だから人口も多い」
「虫もたくさんいるわよね。どこかしら」
「おまえの興味はそこか。まあ、わかっているが」
 ふと御簾の端に、一匹の天道虫が止まり羽を休めた。
「こんにちは、天道虫さん。……ふうん、水場が少なくて大変なのね。私は金城へ行くの。うん、そこなら池があったはずよ。一緒に乗っていったらいいわ、案内してあげる」
 独り言を喋る公主を、付き添いの役人は訝しげに見やる。
 やがて、眼前に荘厳な城郭が姿を現した。中原の覇者、儀国の皇帝が住まう金城だ。角楼を従え、両翼を広げたごとき朱雀門に出迎えられる。
 結蘭と黒狼は波乱に満ちた未来への第一の門をくぐった。



 馬車を降りると、大勢の女官や役人たちに出迎えられる。
 整然と居並ぶ人々の間から、豊かな白髭を垂らした老人が歩み出た。
「ようこそ金城においでくださいました、結蘭公主。わたくしは呂丞相でございます。楊美人と共に後宮をあとにしたときは、ほんの小さな御子でしたが、このようにお美しい公主になられまして、わたくしは……」
「あのう、この辺りに池はありませんか?」
 きょろきょろと結蘭は辺りを見回した。合わせたてのひらの中には、先ほど知り合った天道虫がいる。
 金城は石造りの立派な殿ばかりで、足元もすべて石畳が敷き詰められている。緑と水がなくては虫は生きられない。
「は? 池なら裏手に庭園がございますが……」
「すみません! ちょっと行ってきます」
 呆気にとられる女官や役人たちを置いて、結蘭は庭園に向かって走り出す。そのあとを黒狼が音もなく追いかけた。
 観賞用に設えられた庭園の池のほとりに辿り着く。葉陰に無事に天道虫を放した結蘭は、ほっと一息ついた。
「ここなら水もあるし、暮らしやすいかな。……そう、よかった。ううん、いいのよ、お礼なんて。私はしばらくお城に住むことになるから、また会いに来るわね」
 天道虫との会話を報告しようと黒狼を振り返る。
 すると彼の後ろには、神妙な顔をした呂丞相が佇んでいた。
 虫と会話しているところを初めて見た人は、大抵眉をひそめて気味悪がられてしまう。また頭がおかしいと思われてしまっただろうか。
「あ、あの、呂丞相。今のは、えっと……」
「ふむ。虫と話せるという噂は本当なのですな」
「は、はい! そうなんです」
 結蘭は笑顔を咲かせた。そういえば、彼の顔には見覚えがある。結蘭の父だった皇帝の傍に、常に控えていた重鎮だ。
 しかし、と呂丞相は続けた。
「まずは金城にお越しになりましたら、陛下に謁見なさってください。弟君とはいえ、詠帝は君主にあらせられます。くれぐれも、非礼なきよう」
「はい……」
 そうなのだった。王都へは虫を探しに来たわけではなく、皇帝の悩みを聞くためなのだ。
 小さくなった結蘭は、呂丞相に従い、謁見の間がある本殿へと足を運んだ。重厚な扉が開け放たれる。
「結蘭公主、お越しにございます」
 壮麗な本殿の最奥に、皇帝の鎮座する玉座が彼方に見える。緋の絨毯が敷かれた両側を、高位の役人たちがずらりと立ち並んでいた。
 とても姉弟として昔話を楽しむような雰囲気ではない。臆した結蘭は前を行く呂丞相に聞こえないよう、後ろの黒狼に小声でつぶやく。
「黒狼、怖そうな人たちがたくさん見てるわ。大臣はいつも怒ってばかりなのよ。どうしよう、私、きちんと挨拶できないかも」
 幼い頃、大人たちの話が退屈で虫を追いかけ回しては役人に叱られたことを思い出す。