「どうして?」
「今まで奥様が許してきたから惰性になっていたが、俺は結蘭の近侍だ。主と近侍が食卓を共にしていたらまずいだろう」
「なにがまずいの? 食事は美味しいよ?」
「おまえな」
眉根を寄せて黒狼は匙を置いた。
黒狼は正しくは、結蘭公主の近侍という位置づけになる。
けれど後宮で暮らしていたのは五歳までだったので、皇帝である父の思い出はほとんどなく、女官に傅かれていた記憶もおぼろげだ。公主としての自覚などまったくない。
「食卓を別々にしたら欣恵が大変じゃないの。ねえ、欣恵」
一緒に食べてくれないと寂しい。
それを上手く口にできなくて欣恵に助けを求めると、なぜか欣恵は緊張した様子で、びくりと肩を跳ねさせた。
「え、ええ。そうでございますね」
「欣恵。次から俺は自室で食べる。支度が大変なら俺が自分で運ぶ」
「でも、黒狼さま……」
欣恵は黒狼の母ではなく、乳母である。
そのせいか黒狼は主のように振る舞い、欣恵は敬う態度を崩さない。良家の子息なのかもしれないが、詳しいことを結蘭は知らない。
「けじめだ。公主を軽んじるわけにはいかない。欣恵も娘のように接するのはやめろ」
「承知いたしました」
欣恵は深く頭を下げた。
むっとした結蘭は口中の甘い黒蜜を苦々しい思いで飲み下す。
というか、黒狼が公主扱いしてくれたことなんてあったの? 蓑虫だとか軽々しく言ってたよね?
どうして突然そんなことを言い出すのか理解できない。結蘭は猛然と抗議した。
「けじめってなによ? 黒狼の口から公主なんて単語が出ると思わなかったわ。私は欣恵に娘みたいに思ってくれるの嬉しいもの。ずっとそうしてほしい。黒狼こそ、いつも私や欣恵に偉そうじゃない。……食事だって、ひとりじゃ食べたくないもの」
声が大きかったのは始めだけで、最後の台詞はぼそぼそとつぶやいただけだった。
黒狼は憮然として眺めている。彼は考えを変える気はないのだろう。欣恵が気遣わしげに声をかける。
「結蘭さまのお心、感謝いたします。黒狼さまが尊大なこと、どうかお許し下さい。黒狼さまは、実は――」
「やめろ」
鋭い一喝に、欣恵は身を縮める。
食卓に重い沈黙が降りた。
黒狼は手のつけていない豆乳花の器を、結蘭の前に押しやる。
「食べろ」
「いらない」
つい意固地になってしまう。虫たちとは和やかに会話ができるのに、黒狼とは上手く意思の疎通ができないことがもどかしい。子どもの頃は言いたいことを言って、楽しく遊んでいたはずなのに、どうしてだろう。
沈黙を破るように、窓越しに蹄の音が響いた。屋敷の前で止まり、訪いを入れる野太い男性の声が聞こえる。
来客とは珍しい。慌てて玄関へ向かった欣恵の後をふたりは追いかけた。
「結蘭公主のお住まいはこちらでございますか」
男性は王都の役人が身につける旅装束を着用していた。金城の使者だ。手に携えた竹簡には、皇帝の印である龍が蝋で封印されている。
「私が結蘭です。なにか御用ですか?」
公主自ら玄関に赴き名乗りを上げたので、使者は眉をひそめたが、厳かに礼をして竹簡を広げた。
「皇帝陛下よりの勅命であります。結蘭公主におかれましては、直ちに王都へお越し下さいますよう。虫と話せるという特殊な力を生かし、悩み多き弟を助けてほしいとの、陛下のお言葉でございます」
「ええ~⁉」
驚きが一巡すると、黒狼は感心したようにつぶやいた。
「虫だけでなく、ついに皇帝からも悩み相談を持ちかけられたか」
結蘭の父である皇帝は数年前に亡くなり、正妃の長子が新しい皇帝として即位した。結蘭とは母の違う弟ということになる。幼い頃に赤子をあやした記憶があるが、結蘭が十六歳になったように彼も十三歳と立派になっているだろう。
ただ、年若い皇帝が国を収めるのは並大抵の気苦労ではないと察せられる。
それにしても蟲公主と呼ばれる結蘭の力を借りなくてもよさそうなものだ。
「私は虫と話すのは大好きなんだけど、天子さまのお悩みはちょっと……」
気後れしてやんわりと断ると、役人は平伏して地面に額を擦りつけた。
「なにとぞ。姉君でなければ解決できない問題であると、陛下は仰せです。お話を聞くだけでも結構でございます。どうか、お力をお貸し下さい」
「頭を上げて下さい、蟻が痛いって叫んでます‼」
「なにとぞ! 結蘭公主」
「わかりました、行きます。行けばいいんでしょ、頭を上げて~」
額で押し潰されそうになっていた蟻をどうにか救出した結蘭は、こうして王都へと旅立つことになった。
王都へ向かう日、屋敷の門前には数名の役人と馬車が遣わされた。
結蘭が王都へ返り咲くという噂は瞬く間に村中を巡り、集まった村人から盛大な声援が送られる。
「よかったな、蟲公主さま。後宮で出世しろよ」
甲虫と蝉を肩に止まらせた皓が、手を振って見送っている。
馬車に乗り込んだ結蘭は御簾を開けて、皆に手を振り返した。
「ありがとう、みんな~。って、戻ってくるんだからね! ちょっと遊びにいくだけだからね⁉」
祝うように白鷺の群れが川縁から飛び立ち、悠々と空の彼方へ飛翔していく。
黒狼は馬の手綱を取りながら溜息をこぼした。
「妃嬪じゃあるまいし、公主が後宮で出世できないだろ」
結蘭に付き従うのは黒狼と、可愛がっている白馬の子翼だ。
動物とは話せないが、子翼は聡明なので人の心の機微を理解している。主を慕う余り、結蘭以外の人を背中に乗せたがらない。別の馬に跨がる黒狼の隣で、子翼は揚々と尻尾を振っていた。
屋敷の前で心配そうに見送る欣恵の姿が次第に遠ざかる。
留守を頼んだ欣恵は黒狼の同行を止めたが、結蘭をひとりでは行かせられないと説得されて承知した。
もう子どもじゃないから平気なのに。黒狼もきっと、王都を見たいのね。
王都にはどんな虫たちがいるのだろう。もしかしたら、伝説の金色蝶に出会えるかもしれない。
結蘭は胸を弾ませて、これから出会うであろう虫たちに思いを馳せた。
「今まで奥様が許してきたから惰性になっていたが、俺は結蘭の近侍だ。主と近侍が食卓を共にしていたらまずいだろう」
「なにがまずいの? 食事は美味しいよ?」
「おまえな」
眉根を寄せて黒狼は匙を置いた。
黒狼は正しくは、結蘭公主の近侍という位置づけになる。
けれど後宮で暮らしていたのは五歳までだったので、皇帝である父の思い出はほとんどなく、女官に傅かれていた記憶もおぼろげだ。公主としての自覚などまったくない。
「食卓を別々にしたら欣恵が大変じゃないの。ねえ、欣恵」
一緒に食べてくれないと寂しい。
それを上手く口にできなくて欣恵に助けを求めると、なぜか欣恵は緊張した様子で、びくりと肩を跳ねさせた。
「え、ええ。そうでございますね」
「欣恵。次から俺は自室で食べる。支度が大変なら俺が自分で運ぶ」
「でも、黒狼さま……」
欣恵は黒狼の母ではなく、乳母である。
そのせいか黒狼は主のように振る舞い、欣恵は敬う態度を崩さない。良家の子息なのかもしれないが、詳しいことを結蘭は知らない。
「けじめだ。公主を軽んじるわけにはいかない。欣恵も娘のように接するのはやめろ」
「承知いたしました」
欣恵は深く頭を下げた。
むっとした結蘭は口中の甘い黒蜜を苦々しい思いで飲み下す。
というか、黒狼が公主扱いしてくれたことなんてあったの? 蓑虫だとか軽々しく言ってたよね?
どうして突然そんなことを言い出すのか理解できない。結蘭は猛然と抗議した。
「けじめってなによ? 黒狼の口から公主なんて単語が出ると思わなかったわ。私は欣恵に娘みたいに思ってくれるの嬉しいもの。ずっとそうしてほしい。黒狼こそ、いつも私や欣恵に偉そうじゃない。……食事だって、ひとりじゃ食べたくないもの」
声が大きかったのは始めだけで、最後の台詞はぼそぼそとつぶやいただけだった。
黒狼は憮然として眺めている。彼は考えを変える気はないのだろう。欣恵が気遣わしげに声をかける。
「結蘭さまのお心、感謝いたします。黒狼さまが尊大なこと、どうかお許し下さい。黒狼さまは、実は――」
「やめろ」
鋭い一喝に、欣恵は身を縮める。
食卓に重い沈黙が降りた。
黒狼は手のつけていない豆乳花の器を、結蘭の前に押しやる。
「食べろ」
「いらない」
つい意固地になってしまう。虫たちとは和やかに会話ができるのに、黒狼とは上手く意思の疎通ができないことがもどかしい。子どもの頃は言いたいことを言って、楽しく遊んでいたはずなのに、どうしてだろう。
沈黙を破るように、窓越しに蹄の音が響いた。屋敷の前で止まり、訪いを入れる野太い男性の声が聞こえる。
来客とは珍しい。慌てて玄関へ向かった欣恵の後をふたりは追いかけた。
「結蘭公主のお住まいはこちらでございますか」
男性は王都の役人が身につける旅装束を着用していた。金城の使者だ。手に携えた竹簡には、皇帝の印である龍が蝋で封印されている。
「私が結蘭です。なにか御用ですか?」
公主自ら玄関に赴き名乗りを上げたので、使者は眉をひそめたが、厳かに礼をして竹簡を広げた。
「皇帝陛下よりの勅命であります。結蘭公主におかれましては、直ちに王都へお越し下さいますよう。虫と話せるという特殊な力を生かし、悩み多き弟を助けてほしいとの、陛下のお言葉でございます」
「ええ~⁉」
驚きが一巡すると、黒狼は感心したようにつぶやいた。
「虫だけでなく、ついに皇帝からも悩み相談を持ちかけられたか」
結蘭の父である皇帝は数年前に亡くなり、正妃の長子が新しい皇帝として即位した。結蘭とは母の違う弟ということになる。幼い頃に赤子をあやした記憶があるが、結蘭が十六歳になったように彼も十三歳と立派になっているだろう。
ただ、年若い皇帝が国を収めるのは並大抵の気苦労ではないと察せられる。
それにしても蟲公主と呼ばれる結蘭の力を借りなくてもよさそうなものだ。
「私は虫と話すのは大好きなんだけど、天子さまのお悩みはちょっと……」
気後れしてやんわりと断ると、役人は平伏して地面に額を擦りつけた。
「なにとぞ。姉君でなければ解決できない問題であると、陛下は仰せです。お話を聞くだけでも結構でございます。どうか、お力をお貸し下さい」
「頭を上げて下さい、蟻が痛いって叫んでます‼」
「なにとぞ! 結蘭公主」
「わかりました、行きます。行けばいいんでしょ、頭を上げて~」
額で押し潰されそうになっていた蟻をどうにか救出した結蘭は、こうして王都へと旅立つことになった。
王都へ向かう日、屋敷の門前には数名の役人と馬車が遣わされた。
結蘭が王都へ返り咲くという噂は瞬く間に村中を巡り、集まった村人から盛大な声援が送られる。
「よかったな、蟲公主さま。後宮で出世しろよ」
甲虫と蝉を肩に止まらせた皓が、手を振って見送っている。
馬車に乗り込んだ結蘭は御簾を開けて、皆に手を振り返した。
「ありがとう、みんな~。って、戻ってくるんだからね! ちょっと遊びにいくだけだからね⁉」
祝うように白鷺の群れが川縁から飛び立ち、悠々と空の彼方へ飛翔していく。
黒狼は馬の手綱を取りながら溜息をこぼした。
「妃嬪じゃあるまいし、公主が後宮で出世できないだろ」
結蘭に付き従うのは黒狼と、可愛がっている白馬の子翼だ。
動物とは話せないが、子翼は聡明なので人の心の機微を理解している。主を慕う余り、結蘭以外の人を背中に乗せたがらない。別の馬に跨がる黒狼の隣で、子翼は揚々と尻尾を振っていた。
屋敷の前で心配そうに見送る欣恵の姿が次第に遠ざかる。
留守を頼んだ欣恵は黒狼の同行を止めたが、結蘭をひとりでは行かせられないと説得されて承知した。
もう子どもじゃないから平気なのに。黒狼もきっと、王都を見たいのね。
王都にはどんな虫たちがいるのだろう。もしかしたら、伝説の金色蝶に出会えるかもしれない。
結蘭は胸を弾ませて、これから出会うであろう虫たちに思いを馳せた。