暖かな陽気に誘われて、ひらりと紋白蝶が舞う。
 結蘭と黒狼は朱雀門の前で、馬車の支度を見守っていた。
「李鈴、嬉しそうね」
「はい。これからは父さまと母さまと姉さまと、みんなで暮らせるのです。早くおうちに帰りたいです」
 結蘭の周りを飛び跳ねていた李鈴は、すでに馬車に乗り込んでいた李昭儀に促されて榻をぴょんと踏む。
 李姉妹は蘇州に帰郷することになったので、見送りに来た。
 だが、李昭儀は迷惑そうに扇をかざした。火傷の痕が残った彼女の顔半分は、仮面に覆われている。
「李昭儀、お元気で」
「……礼は言わないわよ。それにもう、こなたは昭儀ではないわ」
「じゃあ、名を教えて」
「嫌よ」
 つんと澄ますのは、彼女なりの矜持だろう。
 李昭儀も罰を受けた。美貌を失い、罪人として蔑まれ故郷へ戻らなければならない。
 けれど、彼女には李鈴がいる。命と大事な人があれば、人はきっとやり直せる。
 荷を積み終え、御者が出発を告げる。
「そういえば、李昭儀。聞きたいことがあるの」
「なによ」
「あの小瓶の中味がなにか、知っていたの?」
 王尚書令は媚薬と称して渡したそうだが、なぜ彼女は使うのをためらったのか。そのおかげで、最悪の事態を防げたわけだが。
 もしかすると、李昭儀はすでに王尚書令に疑念を抱いていたのかもしれない。
 仮面と扇の隙間から覗いた目が眇められる。
「教えない」
 車輪が回りだす。李鈴は懸命に手を振った。
「結さま、黒さま、さよなら」
「元気で暮らせよ、小朋友」
 黒狼が軽く手を掲げると、次第に遠ざかる馬車の中で李鈴が目元を拭う姿が見えた。思い出したように李昭儀は、朱雀門に佇む結蘭たちに向かって掠れた声を投げかける。
「蘇州へ来る機会があったら李氏を訪ねなさい。お茶ぐらい出してあげるわ」
 やがて街並みに紛れ、馬車は見えなくなる。
 別れはいつでも、胸が詰まる。込み上げるものを押し留めていた結蘭の横で、黒狼は深い溜息を吐く。
「助けてやったのに、教えないだと。なんだ、あの言い草は」
「素直じゃないよね。誰かさんに似てる」
 じっと黒狼を見上げると、嫌そうに眉をひそめられた。
「さあ、屋敷へ帰りましょう」
 一日中機嫌が悪くなられてはあとが大変なので、黒狼の腕を引いて後宮への路を共に歩く。
 清華宮の門をくぐると、袖を捲り上げて箒を携えた朱里が笑顔で出迎えてくれた。
「おかえりなさいませ、結蘭さま。ついでに黒狼もね」
「俺は、おまえが黒幕かとにらんでいたんだがな。本当にただの女官だったとは驚きだ」
 さらりと吐き捨てる黒狼に、朱里は箒を掲げて応酬する。
「残念ね。私は毎日屋敷の仕事で忙しいのよ。敬州や御膳房まで、こっそり行ってる暇なんてありませんから!」
「それもそうか。こんな雑な女に裏工作なんて無理だな」
 怒り狂った朱里に箒を振り回され、結蘭は素早く駆け出して庭を横切る。駿馬のごとく足の速い黒狼も、後ろにぴたりとついてきた。
 新月によって保護されていた欣恵は療養を経たあと、奏州へ帰っていった。清華宮で共に暮らすことを勧めたが、「奥様の屋敷を守ります」と言って彼女は辞去した。
 結蘭たちもいずれは戻るつもりだが、呂丞相が次の事件もあるのでよろしくなどと笑みを見せているので、もうしばらくは王都に留まることになりそうだ。
 ふと、庭の隅に咲く桜が目に入る。
 苔生した大樹から枝を伸ばし、満開の花を綻ばせていた。
 池の傍に佇み、隣に並んだ黒狼としばし桜に見入る。
 一陣の風が吹き、淡い花びらが舞う。結蘭の切りそろえた黒髪も、かすかに揺れる。
 腰まで伸ばしていた結蘭の髪は、焼け焦げた部分を切り落とした。今は耳の下までと短く、童子のような髪型になっている。
 黒狼に耳元を指先でくすぐられる。まとわりついていた花びらが、はらりと剥がれた。
「くすぐったい」
 眩しいものを見るように、黒狼は漆黒の双眸を細める。