出口はすぐそこなのに、果てしなく遠い。
 火の粉が襲いかかり、焼け崩れた天井の破片が降ってくる。
 熱さではなく、痛みしか感じない。髪が、衣が、焼け焦げる。
 もうすこし、もうすこし。
 天井が唸り声を上げて軋んだ。建物全体がぐらりと傾ぐ。
「黒狼……っ」
 宮殿が崩れ落ちようとしている。燃えさかる柱が次々に崩れ、行く手を遮られた。黒狼は李昭儀ごと結蘭の身体に覆い被さった。
 もう……。
 死を予感した、そのとき。
 世界の時が、止まった。
「え……?」
 炎は燃えることをやめた。廊下の向こうに、外の光が見える。
 不思議な現象に顔を上げると、同じように黒狼も身体を起こして辺りを見回した。
「火が止まった? どういうことだ」
「黒狼、上を見て!」
 今にも崩れ落ちようとしている焼けた天井が、金色の羽ばたきに食い止められている。何千、何万といると思しきものは、蝶だ。
 蝶の大群が炎にまとわりついて、延焼を止めている。
 まさか、これは、伝説の金色蝶――。
「今のうちだ。外に出るぞ!」
 黒狼に促されて駆け出し、三人は外へ躍り出る。
 衛士に門前まで引きずり出され、大量の水を浴びせられる。
「結蘭公主さま、よくぞ御無事で!」
「姉さまぁ!」
 いっせいに皆に囲まれる。李鈴は堰を切ったように泣き出した。子翼は興奮して嘶くと、煤で真っ黒になった結蘭に鼻先を擦りつけた。
 轟音を上げながら、永寧宮が崩落する。
 ざあっ……、と飛び立つものたち。
 幾千もの金色の蝶たちが、黄金の羽をはためかせながら空へと舞い上がっていく。炎の鱗粉を煌めかせながら。
「おお……金色の蝶だ。どうして燃えないんだ?」
「炎の遣いだ。奇跡だ」
 人々は天を仰いで、奇跡的な光景に感嘆の息を漏らした。
 ひときわ大きな金色蝶が、結蘭の傍へ近づく。
『結蘭公主……。助けていただいた礼はお返しいたしました』
「えっ、あなたを助けたことがあったかしら?」
『饅頭に入れられて死にかけたところを、結蘭公主は救ってくださいました。そのあと、庭を与えてくださった』
「あなたは……あの斑の芋虫なのね」
 後宮を訪れた日に皇后からもらった饅頭に、芋虫が入っていたことを思い出す。珍しい柄の芋虫だとは思ったが、まさかあれが金色蝶の幼虫だとは思いもしなかった。
『さようにございます。わたくしは金色蝶を統べる女王……。ありがとう、心優しい、虫と話せる公主よ……』
 羽をひらりとひるがえして、金色蝶の女王は天へ還っていく。
 大群の蝶が従うように、空の彼方へと飛び去るさまは、黄金の大河を思わせた。
 きらきらと陽の光を撥ね返し、黒煙は飛散していく。
「ありがとう、金色蝶。また会いましょう」
 奇跡の残滓がひとひら、金色の雫となって地上に降った。
 呆然と天を見上げていた人々は、煤けた宮殿と水浸しになった辺りの惨状を目にして我に返る。
 身体を横たえていた李昭儀が呻いた。女官が水を含ませると、彼女はうっすらと目を開ける。
「どうして……? こなたは命を絶とうとしたのに……」
「死んではいけないわ。あなたは李鈴を罪人にするつもりなの?」
 結蘭の言葉に、はっとして火傷を負った顔を激しく横に振る。
「違うわ! 毒薬だなんて知らなかったのよ。李鈴も、こなたも。あの方は媚薬だと……それに、塩の仏像を保管しておくのは儀国のためなのだとおっしゃるから……それなのに、こんなことになるなんて……」
 黒狼と顔を見合わせる。李昭儀を影で操っていた者が存在するのだ。
「誰なの、あの方というのは!」
「それは……」
 侍医が駆け寄り、結蘭たちを引き離す。李昭儀のつぶやきは、倒壊した永寧宮の最期にかき消えた。