見慣れた街並みを越え、城郭を視界に捉えた。もう少しで金城へ到着する。
街角に群れている人々が、何事か騒いでいる。
「もし。なにかありましたか?」
結蘭が訊ねると、皆は王城の一点を指差し、叫んだ。
「火事だ! 天子さまのお住まいが火事だぞ!」
見上げれば王城の一角から黒煙が立ち昇り、天を覆い尽くそうとしている。
結蘭は咄嗟に馬腹を蹴る。駆け出した子翼と共に朱雀門をくぐり、黒煙が示す方角を一心不乱に目指す。
宮廷は混乱の極みにあった。
奥へ進むほど、消火に走る衛士や逃げ惑う女官たちで路はあふれている。子翼がたたらを踏み始めたので、結蘭は降りて走り出した。
「結蘭! 火の元は永寧宮だ」
とうに下馬して走ってきた黒狼に続き、子翼もあとを追ってくる。
永寧宮といえば李昭儀の宮殿だ。
使者が走ったので、結蘭が想定するより早く闇塩事件は明るみになっている。嫌な予感が胸をよぎる。
宮殿の手前の路は、大量の宝物や家具で塞がれていた。その間を縫うように移動する人々が衝突する。
「通して、通してください!」
各宮の者が延焼を恐れて財物を運び出しているのだ。
池から汲み出された水が桶からこぼれ、路は水浸しになっている。
ようやく辿り着いた門前は、泣き叫ぶ女官や役人たちでひしめいていた。衛士が怒号を上げながら桶を手にして駆け込む。
煙の嫌な臭気が辺り一帯に立ち込める。庭の向こうにある奥の庫房は業火に包まれていた。
飛び散る火の粉に、結蘭は目をつむった。
「仏像のあった庫房が燃えてしまうわ……」
「李昭儀が証拠を隠滅したな」
圧倒的な火の勢いの前に成すすべもない。火の手は隣接する本殿に移り、燃え広がっている。
延焼を食い止めるため、衛士たちは槌で建物を壊し始めた。由緒正しい宮殿が破壊される姿に、女官たちは号泣して地に伏せる。
そのなかから出てきた小さな女官が、結蘭の裾に縋りつく。
「李鈴、無事だったのね!」
涙と煤で、ぐしゃぐしゃに顔を汚した李鈴は泣きわめいた。
「結さま! 姉さまを助けてください。なかにまだいるのです」
「そんな……どうして」
紅蓮の炎に包まれる永寧宮を見上げる。
「李鈴が悪いのです! 陛下の飲み物に薬を入れました。姉さまが好きになる薬だと言ったので、李鈴がこっそり入れてあげました。でも陛下は病気になりました。姉さまは絶対に人に言ってはいけない、私がどうにかするからと……」
小さな身体を引き剥がし、李鈴を傍の女官に預ける。結蘭は桶の水を頭から被った。
「結蘭! なにをする気だ」
意図を察した黒狼に、肩を鷲掴みにされる。
置かれた手に、そっとてのひらを重ね合わせる。確固たる信念の宿った瞳で、黒狼の顔をまっすぐに見た。
「助けたいから」
瞠目する漆黒を振り切り、炎の渦巻く宮殿へ駆け出す。
黒狼は、ざぶりと池へ飛び込んだ。結蘭同様にずぶ濡れになり、雫を滴らせながら走り込む。
「俺も行くに決まってる!」
背を押さえ込まれ、身をかがめて共に廊下を進む。
廊下は黒煙に覆われており、前が見えない。煙を吸い込まないよう袖で口元を覆ってはいるが、目と喉が焼けただれるような痛みを覚えた。あまり時間がない。
黒狼に袖を引かれ、以前訪れた李昭儀の房室へ赴く。金扉は炎に縁取られていた。
取っ手を触ろうとしたら、黒狼に制される。金属製なので焼き鏝のごとく熱されているのだ。
剣鞘を蝶番に差し込み、黒狼は扉を蹴倒した。軋みながら倒れた扉を踏み越える。
「李昭儀!」
玉座にぐったりと倒れ込んでいる李昭儀を抱え起こす。
意識がないが、わずかに唇が動いた。
「衣が邪魔だ。剥け」
まるで花嫁衣装のような豪奢な衣の端には、すでに火がついている。
咄嗟に剥ぎ取ると、襦袢のみを纏った李昭儀を、黒狼は肩に担いだ。
脱出しようと房室を出ると、ついさっき通ったばかりの廊下は、炎の回廊と化していた。
「炎がもうこんなに……」
「行くしかない。俺の後ろをついてこい。走るぞ!」
絶望と勇気を入り交じらせながら、結蘭は黒狼と共に駆けた。
街角に群れている人々が、何事か騒いでいる。
「もし。なにかありましたか?」
結蘭が訊ねると、皆は王城の一点を指差し、叫んだ。
「火事だ! 天子さまのお住まいが火事だぞ!」
見上げれば王城の一角から黒煙が立ち昇り、天を覆い尽くそうとしている。
結蘭は咄嗟に馬腹を蹴る。駆け出した子翼と共に朱雀門をくぐり、黒煙が示す方角を一心不乱に目指す。
宮廷は混乱の極みにあった。
奥へ進むほど、消火に走る衛士や逃げ惑う女官たちで路はあふれている。子翼がたたらを踏み始めたので、結蘭は降りて走り出した。
「結蘭! 火の元は永寧宮だ」
とうに下馬して走ってきた黒狼に続き、子翼もあとを追ってくる。
永寧宮といえば李昭儀の宮殿だ。
使者が走ったので、結蘭が想定するより早く闇塩事件は明るみになっている。嫌な予感が胸をよぎる。
宮殿の手前の路は、大量の宝物や家具で塞がれていた。その間を縫うように移動する人々が衝突する。
「通して、通してください!」
各宮の者が延焼を恐れて財物を運び出しているのだ。
池から汲み出された水が桶からこぼれ、路は水浸しになっている。
ようやく辿り着いた門前は、泣き叫ぶ女官や役人たちでひしめいていた。衛士が怒号を上げながら桶を手にして駆け込む。
煙の嫌な臭気が辺り一帯に立ち込める。庭の向こうにある奥の庫房は業火に包まれていた。
飛び散る火の粉に、結蘭は目をつむった。
「仏像のあった庫房が燃えてしまうわ……」
「李昭儀が証拠を隠滅したな」
圧倒的な火の勢いの前に成すすべもない。火の手は隣接する本殿に移り、燃え広がっている。
延焼を食い止めるため、衛士たちは槌で建物を壊し始めた。由緒正しい宮殿が破壊される姿に、女官たちは号泣して地に伏せる。
そのなかから出てきた小さな女官が、結蘭の裾に縋りつく。
「李鈴、無事だったのね!」
涙と煤で、ぐしゃぐしゃに顔を汚した李鈴は泣きわめいた。
「結さま! 姉さまを助けてください。なかにまだいるのです」
「そんな……どうして」
紅蓮の炎に包まれる永寧宮を見上げる。
「李鈴が悪いのです! 陛下の飲み物に薬を入れました。姉さまが好きになる薬だと言ったので、李鈴がこっそり入れてあげました。でも陛下は病気になりました。姉さまは絶対に人に言ってはいけない、私がどうにかするからと……」
小さな身体を引き剥がし、李鈴を傍の女官に預ける。結蘭は桶の水を頭から被った。
「結蘭! なにをする気だ」
意図を察した黒狼に、肩を鷲掴みにされる。
置かれた手に、そっとてのひらを重ね合わせる。確固たる信念の宿った瞳で、黒狼の顔をまっすぐに見た。
「助けたいから」
瞠目する漆黒を振り切り、炎の渦巻く宮殿へ駆け出す。
黒狼は、ざぶりと池へ飛び込んだ。結蘭同様にずぶ濡れになり、雫を滴らせながら走り込む。
「俺も行くに決まってる!」
背を押さえ込まれ、身をかがめて共に廊下を進む。
廊下は黒煙に覆われており、前が見えない。煙を吸い込まないよう袖で口元を覆ってはいるが、目と喉が焼けただれるような痛みを覚えた。あまり時間がない。
黒狼に袖を引かれ、以前訪れた李昭儀の房室へ赴く。金扉は炎に縁取られていた。
取っ手を触ろうとしたら、黒狼に制される。金属製なので焼き鏝のごとく熱されているのだ。
剣鞘を蝶番に差し込み、黒狼は扉を蹴倒した。軋みながら倒れた扉を踏み越える。
「李昭儀!」
玉座にぐったりと倒れ込んでいる李昭儀を抱え起こす。
意識がないが、わずかに唇が動いた。
「衣が邪魔だ。剥け」
まるで花嫁衣装のような豪奢な衣の端には、すでに火がついている。
咄嗟に剥ぎ取ると、襦袢のみを纏った李昭儀を、黒狼は肩に担いだ。
脱出しようと房室を出ると、ついさっき通ったばかりの廊下は、炎の回廊と化していた。
「炎がもうこんなに……」
「行くしかない。俺の後ろをついてこい。走るぞ!」
絶望と勇気を入り交じらせながら、結蘭は黒狼と共に駆けた。