風に乗り、さらさらと舞う粒子が頬を撫でる。藍に塗られた天の夜明けは遠く、仰げば星が瞬いていた。
 東の空がうっすらと白む頃、ふたりは目的地へ辿り着いた。数日を要したが、追われる身なので以前よりは遙かに急いだ。
 私兵が巡回している塩湖付近には近づかず、手前の林で黒狼は馬の足を止める。
「夏太守が闇塩の秘密を暴露するわけがない。忍び込んで暴くんだ」
 夜中のうちに宿を発つと促した黒狼の真意は、そこにあったらしい。
 いくらなんでも忍び込むのはいかがなものか。夏太守が闇塩を行っていると決まったわけではない。
「黒狼の命が懸かっているんだから、話せばわかってくれるんじゃないかしら」
「俺の命なんか、奴に関係ない。だから結蘭は甘いんだ」
「そんな言い方ないでしょ」
 言い争いを繰り広げていると、子翼はついと馬首を巡らせた。
「子翼? どこへ行くの」
 手綱を控えたが言うことをきいてくれない。路を逸れ、急な山の斜面を駆け下りる。結蘭は振り落とされまいと必死に背にしがみついた。
 塩湖の畔に佇む夏太守の屋敷を迂回した子翼は、ぐるりと塀に囲まれた製塩所の裏手へまわる。
「ここは……」
 門前に兵がいて入れなかった場所だ。
 夜が明けていないので、辺りはひっそりと静まっている。
「よし。ここから入ろう。塀を登れ」
 追ってきた黒狼は、いつの間にか徒歩になっている。馬は林に置いてきたらしい。
 ここまで来たら仕方ないけれど、登れと言われても土塀は十三尺ほどもあるのだ。掴めるような取っ手など、どこにもない。
 子翼は小刻みに鼻を鳴らした。なにかの合図を示しているらしい。結蘭に降りろと云わんばかりに鞍を揺らす。
「踏み台にして飛び越えろと言ってるんだ。俺が子翼の上に立って支える」
 壁際に寄った子翼の鞍に、黒狼が立ち上がる。
 支えてもらえれば、ちょうど越えられる高さだ。
「私が越えたら、黒狼はどうするの?」
「俺は自力で跳べる。いくぞ」
 引き上げられ、踵を支えられて黒狼の肩を蹴る。
 棟瓦を掴み、ひらりと舞うように向こう側に降りた。
 着地するとき足裏に衝撃が響いたが、派手な物音は立っていない。軒が連なる工房に、人の気配はなかった。
 ところが、なぜか黒狼が続いて降りてこない。焦りのにじむ囁き声が聴こえたので、塀に耳をつける。
「おい、座るな。おまえの主を置き去りにしてもいいのか」
 子翼と揉めているようだ。
 いくら黒狼でも子翼の背を蹴らなければ塀は越えられない。早くしないと誰かに見つかってしまう。
 結蘭は声をひそめ、塀越しに話しかける。
「子翼、お願い。あなたの助けが必要なの」
 途端に、黒狼は身をひるがえした。素早く棟瓦を跨いで物音も立てず着地する。
 かすかに土を踏む馬蹄が遠ざかる。子翼はひとけのない林へ戻るようだ。ほっと胸を撫で下ろす。
「ここが製塩所か。厳重なわりには、なんの変哲もないな」