「それほどでも。私は虫たちのお話を聞いてるだけだし」
「で? どうすればいいの?」
「えっ」
「こいつが自信を取り戻して勝てるようになるには、どうすればいい?」
「えっと……」
 勝負の世界や戦う意味についてだなんて、助言できることがない。こういうことは剣の達者な黒狼のほうが得意ではないだろうか。傍で見ていた黒狼を期待を込めた笑顔で振り返ると、冷めた双眸で返された。
 自分でなんとかしろと言いたいらしい。
 そのとき、先ほどまで会話していた蝉が突然ひと声、高く啼いた。羽ばたいて幹から飛び立ち、瞬く間に皓の肩口に止まる。
「うわっ、蝉がなんで……⁉」
 蝉と甲虫は互いに、ジジジ……、ギチギチ、と忙しなく啼いている。
「喧嘩かな?」
「待って。喧嘩じゃないわ」
 皓が蝉を引き剥がそうとしたので制した。甲虫は皓の袖を這い上り、蝉のもとへ向かう。
 やがて二匹は、ぴたりと身体を添わせて静かになった。
「なんてこと。すごいわ」
 感激した結蘭は涙ぐんでいた。状況が飲み込めない皓は瞬きを繰り返して、同じく見守っている黒狼を見上げた。
「結蘭。俺たちにもわかるように通訳してくれ」
 黒狼と皓に晴々しい笑顔を向けた結蘭は、厳かに告げる。
「ふたりは、運命の出会いを果たしたの」
「……はあ?」
「一目惚れだって。種族が違っても生涯添い遂げる覚悟がある、ですって。蝉さんの熱烈な求愛に甲虫さんも答えてくれたわ。貴女のためなら戦うことも厭わない、ですって」
「ふうん……」
 感動的な奇蹟が起こったというのに、虫たちの会話が聞けない黒狼と皓は今ひとつ反応が薄い。
 結蘭は二匹に惜しみない祝福を送った。失恋したばかりの蝉と、自信を喪失していた甲虫の双方に訪れた幸せはとても喜ばしいことだ。
「皓。甲虫さんの勝負にぜひ蝉さんも連れていってあげてね。僕の雄姿を見せたい、ですって」
 やる気を取り戻した甲虫は高らかに角を上げた。その隣に蝉はそっと寄り添っている。
「ああ、うん……わかった。ありがとう、蟲公主さま」
 どこか戸惑っている皓は礼を言い、甲虫と蝉を上衣に貼りつけて道を戻っていった。
 異種族間の恋愛は大変珍しいことなので、皓としても受け入れるのに時間がかかるのだろう。けれどきっとふたりの今後を応援してくれるに違いない。結蘭自身も、懸命に生きて恋をする虫たちに随分元気づけられたものだ。
「よかった。仲良くやってくれるといいね」
「そうだな」
 ひと仕事終えた充実感が身体を包む。黒狼のあっさりした返事が清涼感を伴い、清々しいほどだ。
「結蘭さま、黒狼さま。昼餉のお支度ができましたよ」
 ちょうど屋敷から出てきた女中の欣恵(きんけい)が告げる。呼応するように、結蘭の腹の虫が、ぐうと鳴った。



 麺の汁物を啜り、時折茶碗の冷たい水を含む。欣恵は食後の菓子を運んできた。涼しげな器に盛られているのは、雪のような色合いの豆乳花だ。
「わあ、美味しそう」
 幼い頃より面倒を見てくれている欣恵は、いつもの優しい笑みを浮かべた。
「結蘭さまのは黒蜜がたっぷりですよ。黒狼さま。汁物のお代わりは」
「いらん」
 ぶっきらぼうに返す黒狼は結蘭と共に食卓に着いている。
 兄と妹のように育ったふたりだが、本当の兄妹ではない。黒狼は欣恵が連れていた子で、結蘭と母がこの屋敷に引っ越して間もなく訪ねてきたのだ。身寄りがないというふたりを、母は女中と娘の遊び相手として屋敷に住まわせた。
 母も心細かったのだろう。以前は皇帝の妃嬪として寵愛を受け、身籠もったにもかかわらず、産まれた公主は虫とばかり会話している。
 後宮ではどんな謗りを受けるか知れない。娘の先々を心配した母は王都を離れ、山奥の村に居を構えることにしたのだった。
 数年前に病で亡くなってしまったが、母には感謝している。
 公主として王城で壊れ物のように扱われるよりも、野山にいる沢山の虫たちと話しているほうが結蘭の性に合っている。それに黒狼と欣恵もいてくれる。なにも不自由なことはない。
 ふんわりとした豆乳花を匙で掬い上げる。濃密な甘さを堪能していると、黒狼はふとつぶやいた。
「そろそろな、食卓を別にしたほうがいいんじゃないか」