天を越えて我が名が響き渡る。
 名を呼ぶその声を、幾千幾万回と聴いてきた。
 結蘭は手綱を控え、呆然とする。
「黒狼……どうして……」
 ついに追い着いた黒狼は、まっすぐに結蘭を見つめた。
 ふたりの視線が馬上から絡み合う。
 言いたいことは山ほどあるのに、顔を見たらなにも言葉が出てこない。口を開いてはまた閉じることを繰り返しているうちに、結蘭の眦に涙がにじむ。
 主の震えを察したのか、もしくは黒狼によい感情を抱いてないのか。子翼は合図なしに、ぷいと顔を背け街道を歩き出す。黒狼も黙して後ろからついてきた。
 小春の陽射しが、雲間から覗く。二頭は黙々と歩を進めた。
「敬州へ行くんだろう。手ぶらか?」
 ふと見ると、黒狼の馬には二人分の荷が積んである。
「……牢に入ってたんじゃないの?」
「ある人が手を貸してくれた。俺の冤罪を晴らすのは、ふたつの事件の首謀者を挙げることにつながるらしいな」
 ある人とは誰だろう。結蘭の知らないところで思惑が交錯している。釈然としないが、それもいまさらだ。黒狼の重大な秘密を長年知らずにいたのだから。
「もう近侍として接しなくていいわよ。黒狼は、北蜀の皇帝なんだから」
「北蜀はもう存在しない。すべて過去のことだ」
 いつもと変わらない無感動な口調に、結蘭は目を見開く。
 そんなに簡単に言えるなら、どうして今まで黙っていたのだ。溜め込んだ憤りが噴出して、一気に拡散する。
「あんなに心配したのに! 私だけなにも知らなかった! 黒狼が首を刎ねられるかもしれないと、毒瓶が仕組まれたものだとわかって、それで……」
 まとまらない叫びが無為なものに思えて、深い溜息を吐く。
 黒狼はひとこと、ぼそりとつぶやいた。
「悪かった」
 ぽっかりと空いていた胸の空洞が埋められていく。無事でよかった。そう思うと安心して、張り詰めていた身体が緩む。
「昔のこと、言ってほしかったのに。私はそんなに信用がないの?」
「結蘭を巻き込みたくなかった。なにも知らないほうが、罪を被らなくて済むからな。弟一派の生き残りが、いつ嗅ぎつけるかもわからなかったんだ」
 先ほど、勝手に金城を抜け出すことを朱里に知らせまいとした自分の行動を思い出す。
 私のためだったのね……。
 たとえ元皇子であっても、黒狼は結蘭の知る黒狼でしかない。ほんの少しでも気弱になって、復讐のためなんて想像してしまった自分が恥ずかしかった。
「探すんだろう」
「え。証拠を?」
「金色蝶だ」
 目を丸くした結蘭を、黒狼は微笑を浮かべて見やる。
「忘れてないぞ。いつか旅に出て、一緒に探そうと約束しただろう」
「覚えていてくれたんだ……」
 伝説の金色蝶。助けた者の願いを叶えてくれるというお伽話の存在。
 けれど、結蘭は本当にいると信じている。そして出会えたなら、話もできる。
 金色蝶はどんなことを話すんだろう。子どもの頃はそればかりを夢想していた。
「俺は過去をさらけだされて、あの頃のことを思い出した。確かに昔は、復讐のことしか頭になかった。母を殺して俺を殺そうとした弟一派を、同じ目に遭わせてやると。……だが、結蘭に出会って、俺の復讐心は溶けてなくなったんだ。この風変わりな女の子を守るという新たな使命ができたからな」
 初めて聞く、黒狼の気持ちだった。
 彼の北蜀での体験を思うと、胸が引き絞られる。母を殺されるなんて、どれほど辛い思いをしたことだろう。
「黒狼は、復位を望まないの?」
「まさか。俺には結蘭公主の近侍という大事な仕事があるんだ。そしてそれは俺が希望して就いた職業で、俺以外の者には務まらない」
 なぜか公主の近侍はとても難しい職業のように聞こえるけれど、実際にそうなのだから結蘭は苦笑いするしかない。これまでも虫と話す結蘭の傍にいて、虫や人と取りなすことは大変な忍耐を要しただろう。
 それは、黒狼にしかできないことだ。
 彼が誇りを持って傍にいてくれたことが、なによりも嬉しい。
「ありがとう……。黒狼」
「礼を言われるようなことじゃない。これからも今まで通り接してくれ」
「うん!」
「とりあえず、敬州へ行って闇塩の証拠を見つけるぞ。闇塩を扱う宮廷人は必ず夏太守と接点があるはずだ」
「その人が毒を入れた下手人なのかしら?」
「闇塩を暴けばわかる」
「王尚書令なの?」
「いずれわかる」
 黒狼の秘密主義が始まった。出自がわかったと思えば、もうこれだ。やれやれと結蘭は肩を竦める。
 下手人は誰なのだろう。
 黒狼も新月も、ある程度の予想はついているようで、一歩先を見ている。
 今はとにかく敬州へ赴き、夏太守を訪ねることが先決だ。
 そして、すべてが終わったら……黒狼と金色蝶を見つけに行こう。
 子翼の足取りも軽やかに、ふたりは敬州を目指した。