「蟲公主。あまり、ぼろを出さないほうがよろしいのでは? 貴女も共犯かと疑われますぞ」
「そんな……言いがかりです! もっとよく調べてください」
「無駄ですな。蟲公主が近侍を庇いたいのはわかる。しかし、黒狼が下手人でないと証明することができますかな?」
 結蘭は言葉に詰まった。
 黒いものを白ではないと逆説的に証明するのは難しい。解決策は、ただひとつしかない。
「私が真の下手人を挙げます! 陛下、どうかおゆるしを」
 気迫に押された詠帝は、姉と叔父に挟まれて困惑を浮かべた。
「うむ……。呂丞相はどうしたのだ。彼にも意見を聞こう」
「呂丞相は私の命により、紀州へ視察に参っております」
 待ち構えていたかのような王尚書令の返答に、ちくりと針を刺したときの痛みがよぎる。まるで意図的な悪意だ。
 呂丞相がいてくれたなら、結蘭たちの味方になって皇帝に進言してくれたはずなのに。
「陛下。黒狼の首を刎ね、蟲公主を拘禁すべきです。どうぞ英断を」
 高らかに告げる王尚書令に、詠帝は異論が見当たらないようだった。結蘭以外の誰もが判決を確信した。
「お待ち下さい、陛下」
 開け放たれた扉から飛び込んだ涼やかな声音が、薄寒い殿に響き渡る。
「新月か。遅かったではないか」
 詠帝は安堵の息を吐く。
 長袍に貂の毛皮がついた上衣を纏った新月は、道を開ける臣たちの間を縫い、颯爽と玉座に歩み出た。
「御無礼、お許しください。ですが黒狼校尉を処刑することはなりません」
 下されるべきだった判決を覆すような断言に、王尚書令は眉をひそめた。
 詠帝の傍に控えた新月は、毅然として王尚書令に対峙する。
「入念にお調べいただいたようですが、王尚書令のやり方に疑問が残ります。女官に拷問するのはいかがなものかと」
 欣恵は鞭打たれたらしく、衣服は破れて血がにじんでいる。憔悴しきった眼は落ち窪んで虚ろだ。衛士に連行されて王都に来てから、まともな扱いを受けていないことがわかる。
「それがどうした。罪を暴くのに必要な措置だ。光禄勲の管轄外であろう」
「北蜀の皇子をかくまうことは、儀国の罪にはあたりません。彼女は皇族の乳母で、現在は公主の女官なのです。身分にふさわしい扱いをするべきではありませんか?」
 王尚書令はつまらなそうに欣恵を一瞥した。
「それほど言うなら、光禄勲に処置を委ねよう」
「では、黒狼校尉の処断も厳重に審理を重ねる必要がございますね。なにしろ北蜀の皇帝になるはずだった身分ですから」
「なにを言う。陛下を毒殺しようとしたのだぞ。今すぐに首を刎ねるべきだ」
「牢に入れておけばよいです。それとも、今すぐに首を刎ねなければいけない理由でもあるのですか?」
 王尚書令は押し黙った。彼は副官と小声で相談を交わす。
 詠帝は傍らの新月を、信頼を込めた温かい眼差しで見やる。
「新月の申す通りだ。罪の疑いはあるが、黒狼校尉を無下に扱うことはならん。ひとまず牢へ。結蘭公主は謹慎といたす」
 皆は一斉に大礼する。英断でございます、という合唱が殿に轟いた。皇帝の決断は絶対なのだ。
 ひとまず斬首は回避することができた。
 結蘭は息つく暇もなく、牢へ連行される黒狼のもとへ駆け寄る。
「待って。黒狼……!」
 振り向いた漆黒の瞳には、なんの色も浮かんでいない。
 俺ではない、信じてくれと言ってほしかった。その言葉をもらえなければ、ふたりの過ごした時間のすべてが否定されてしまうような気がして。
 思いとは裏腹に、黒狼の口から残酷なひとことが発せられる。
「俺を疑いたければ、そうするがいい」
 次第に、彼の背中が小さくなる。開かれた扉の外は粉雪が舞っていた。
 ふいに思い出した。
 初めて黒狼と会った日のことを。
 青虫と話していたら、いつの間にか知らない少年が佇んでいた。
『俺の名は、趙瑛だ』
 一度だけ、聞いていた、黒狼の本当のなまえ。
 そしていつか、一緒に金色蝶を捜す旅に出ようと約束した。
 あれは、嘘だったのかな……。
 正体を偽っていたように、互いの夢も偽りだったのだろうか。
 金色蝶のことを話した過去の思い出を、黒狼はもう覚えていないだろう。
 彼の心には、玉座を巡る復讐の焔しか存在しない。