「北蜀の皇位継承を巡る争いは十年ほど前のことだが……兄皇子は弟に殺害されたのではなかったか?」
「それが、生きていたのです。乳母が秘かに手引きして逃がしました。証人をここへ」
 結蘭は目を瞠った。
 衛士に引き連れられて姿を現わしたのは、奏州の屋敷で待っているはずの欣恵だったからだ。しかも縛られ、衰弱した様子の欣恵は嘆きの声を上げている。
「欣恵!」
「結蘭さま。黒狼さま。申し訳ございません、わたくしは……」
 駆け寄ろうとすると、衛士に遮られる。
 まるで罪人のような扱いだ。彼女がなにをしたというのか。
「この乳母がすべて白状しました。弟一派との皇位争いに敗れた趙瑛皇子は身をひそめ、いずれ北蜀の皇帝として即位するため機会をうかがっていたと。ところが、北蜀という国自体が滅亡してしまったので、復讐の矛先は我が儀国へ向いたのです」
 王尚書令の説明に、欣恵は膝でにじり寄りながら反論した。
「とんでもございません! 皇子は、黒狼さまは、復讐などお考えではありません……あっ」
 咄嗟の訴えが、黒狼が趙瑛皇子本人であると証言してしまったことに気づいた欣恵は慌てて口を噤む。
 王尚書令は勝ち誇ったように口元を緩ませた。
「己が玉座を追い落とされたのに、どうして他者の治政を喜べましょう。復讐として茶器に毒を混入することなど、造作もないはず。自白したらどうだ、黒狼。いや、趙瑛元皇子」
 皆が床に押さえつけられている黒狼に注目した。
 黒狼は、ゆっくりと顔を上げる。その双眸は静かな怒りを秘めてはいたが、冷め切っていた。
「皇帝になれなかった者が玉座に収まっている他人を喜べない、か。貴様がそう思っているだけじゃないのか?」
「なんだと……。愚弄するか」
 命乞いでもするかと思われた黒狼の不遜な発言に、王尚書令の顔色が憤怒に彩られる。
 ざわめく殿を宥めるように、詠帝は手を挙げる。
 場は一斉に静まり返った。
「黒狼校尉。そなたが北蜀の皇子であったという、今の話は事実か?」
「事実に相違ございません」
 淀みなく答えるさまを、結蘭は信じられない思いで見つめる。
「では……毒を入れたのは、そなたなのか?」
「違います」
 反目する返事に、皆は視線を彷徨わせた。
 たまらなくなった結蘭は御前に駆け寄り、膝をつく。
「例え黒狼が皇子だったとしても、毒殺未遂の下手人ということにはなりません! 彼がそんなことをする卑怯者でないことは、私がよく知っています」
 必死の訴えに王尚書令は口を挟もうとしたが、詠帝は片手を上げて遮る。
「黒狼校尉。事件のあった昼頃、どこにいたのだ?」
「兵営におりました」
「それはそうであろうな……」
 兵営では大勢の兵が鍛錬しているが、厠所に行くところまで見ているわけではない。声高に無実を訴えれば詠帝の心情を動かせるかもしれないのに、黒狼の弁が冷静かつ淡白なので、諦めているように思わせてしまう。
 そのとき、扉から複数の衛士が慌しく入室する。王尚書令に小さなものを手渡した。
「証拠をお見せしましょう。たった今、捜索させた黒狼の房室からこれが発見された」
 高く掲げられた小瓶には液体が満たされている。侍医が受け取り、その場で鑑定する。
「附子でございます。龍井茶から検出されたものと寸分違いません」
 皆の驚きが確信を含んだものに変わった。黒狼を見下す目に侮蔑の色が混ざる。誰かが、裏切り者めと叫んだ。
「黒狼こそ、皇帝暗殺未遂の下手人である。公主に取り入り、儀国に仇成す機会をうかがっていたのだ。即刻、処刑するべきです」
 王尚書令の高らかな宣言に、賛同の声が次々にあがる。
 死罪になろうとしているのに、黒狼は黙していた。
 結蘭は呆然と、身じろぎもしない黒衣を眼に映す。
 まさか、認めるの……?
 不器用で無口だけれど、優しい心を持っている黒狼が毒を盛るなんてありえない。ここで弁解しなければ、すぐにでも刑は執行されてしまう。
 黒狼の本心も確かめず、首を刎ねるなんて許さない。
 結蘭は拳を握り締め、凛然と顔を上げる。
「毒瓶はどこにあったのです。私は彼の房室に出入りしていますが、そんなもの見たことがありません」
 王尚書令に目で促された衛士は、一瞬虚を突かれる。
「は……。臥台の下です。床に転がっておりました」