墨の香りが、静かに房に満ちる。
 研墨石を前後に磨る結蘭は、漂う静謐に身を浸した。
 筆を手にして、精神を統一する。
 講義の要点を書き出すという簡易試験なので、老師は教壇で竹簡を捲っていた。
 静寂は、慌しい足音に破られる。
「大変でございます!」
「何事じゃ。叩扉もせずに無礼な」
 無作法な役人の入室を、老師は叱りつける。顔面を蒼白に染めた役人は拱手したが、身体が震えていた。
「陛下が……毒殺されました」
 結蘭の手が大きく揺れて、研墨石ごと硯が床に落下する。端渓硯は鈍い悲鳴を上げて、ふたつに割れた。
 養和殿へ駆けつけると、臥房の扉前で皇帝付きの侍医が拱手する。
「陛下は、ただいまお休みになられました。もう御心配ございません」
「え? 毒殺されたっていうのは……」
 伝聞した役人を振り返る。彼も目を瞬かせて首を捻った。
「未遂ですな。命に別状はございませんが、しばらくは安静が必要です」
 情報が錯綜しているようだ。
 早とちりだとわかり、結蘭の身体から力が抜ける。膝が崩れ、床にへたりこんでしまった。
「申し訳ございません、結蘭公主! わたくしの不注意でございました」
「いいんです。陛下が御無事でよかった」
 謝る役人に助け起こされ、胸を撫で下ろす。
 そっと臥房へ入り臥台を覗くと、詠帝は穏やかな寝息を立てていた。顔色が優れないが、気持ちよさそうに眠っている。
「陛下が毒殺されたんですって⁉」
 李昭儀が衣をひるがえして駆け込んできた。顔から血の気が失せている。
 結蘭は唇に人差し指を立てて安心させるよう微笑んだ。
「命に別状はないの。大丈夫よ」
 先ほどの結蘭と同じように膝から崩れ落ちている。相当心配だったのだろう。
「そ、そうなの……。よかったわ……」
 彼女は落ち着かない様子でうろたえている。抱え起こそうと手を差し出したが首を振られ、李昭儀は気丈に自ら立ち上がった。
 場所を譲り臥房を退出すると、傍に控えていた康舎人に手招きされた。
「なんでしょう?」
 詠帝の側近である康舎人は先帝より仕えている重鎮である。
 忙しく女官が行き交っている廊下を避けて露台に出ると、康舎人は重々しく口を開いた。
「すでに話が出回ってしまいましたが、陛下は何者かに毒を盛られました。結蘭公主も調査が済むまで、宮殿を出ないでください」
 老いた側近の眼に、疑心の焔が浮かんでいた。
「まさか、私を疑っているんですか? 私は今まで老師と試験を……」
 手をかざし、発言を遮られる。
「それは廷尉に求められた際に、お話しください。いずれ下手人は挙げられましょう」
 臥房から出てきた李昭儀に康舎人は目を向ける。
 彼女に同じことを述べに、廊下へ戻っていった。



 皇帝暗殺未遂事件の噂は宮廷を駆け巡る。
 詠帝が昼食後に飲んだ龍井茶に、毒は含まれていた。御膳房から茶を運んだ大膳に疑いの目が向けられ、厨子は全員拘束されて尋問を受けた。
 梅の花に雪化粧が施された寒の戻り。
 詠帝の体調が回復したことを節目として、内朝にて事件の審理が行われることになった。
 殿は季節外れの寒気に、しんと冷え込んでいる。
 王尚書令をはじめとして、刑の担当である廷尉や九卿たちが列席する場は緊張に満ちており、いっそう寒さを増すようだ。殿の両側に置かれた炕が、銀炭を赤々と燃やしていた。
 結蘭と黒狼も、居並ぶ重鎮たちの末席に参列していた。
「呂丞相さまはいないのね」
「そうだな」
 呂丞相の姿が見えない。重大な審理に不参加とは、なにかあったのだろうか。光禄勲である新月もいないので、九卿は八名だけだった。
 康舎人に付き添われ、詠帝が玉座に座る。傍らに控えていた王尚書令が大礼すると、皆は一斉に平伏した。
「陛下に拝謁いたします。御身が快方に向かい、大変喜ばしいことでございます」
「立て。皆に心配かけたな。朕は大丈夫だ」