「姉上に迷惑はかけない。姉上は宮廷に戻ってきたばかりなのだから、闇塩の下手人のわけはないからな。事が済むまで落ち着いて過ごしてほしい。以上だ。皆、退出せよ」
廊下に出て、ほうと息を吐く。
詠帝なりの考えがあるらしい。こうなったのも、結蘭が闇塩のありかを突き止められなかったせいだ。責任を感じて落ち込んでしまう。
重厚な執務室の扉が閉ざされると、王尚書令は結蘭を見下ろした。
「公主といえど、安心しないほうがよろしいのではないですかな」
「え?」
「厄介な黒い虫がついているようですからな」
その発言に、王尚書令に従う副官が勝ち誇ったように黒狼を一瞥する。
どういう意味だろう。
苦々しい顔つきの呂丞相は、ふたりを促した。
「お気になさらず。さあ、参ろう」
陽が沈み、辺りは闇に覆われる。
役人が携える提燈のほのかな灯りが足元をおぼろに照らす。
「これで闇塩の件は明らかになるのでしょうか?」
結蘭の問いに、重々しい溜息を吐いた呂丞相は首を横に振った。
「そう簡単にはいくまい」
「どうしてです?」
力押しではあるが有効な方法ではないだろうか。むしろ、今までが秘密裏に事を進めすぎたので真実に辿り着かなかったのではないか。
「闇を白日の下に晒せば、影がなくなる。影がなくば、光も存在できぬ」
その心は表裏一体。まるで闇塩は必要であると示唆しているかのようだ。夏太守は、闇塩でもやらなければ借金を返せないと笑いながら話していた。
「よからぬことが起こりますぞ」
予言めいた台詞を残して、呂丞相は階を下りていった。
原野を吹き抜ける風が馬上の結蘭を迎える。
暦の上では立春だが、大地の春は未だ遠い。冷涼な空気は身体に沁み渡り、心地よくさえある。
遠乗りに出かけるのは久しぶりだ。闇塩の件が一段落したので、気が楽になったこともあり身体が軽い。彼方まで続く大地を思いきり駆けた。
「あの丘の上まで行きましょう」
後方から駆けてくる黒馬を振り返る。ひとつに束ねた漆黒の髪を風に揺らして、黒狼は頷いた。
小高い丘の上に着くと、風はやんだ。眼前に広がる赤々とした夕陽が、雲間ににじむ姿を時の狭間へ沈めようとしている。
この世には天と地しか存在せず、人はその片隅に居させてもらっているのだということわり。雄大な景色を目の当たりにすると、それを身に沁みて感じる。
結蘭は鞍から下りて、ほうと溜息をこぼした。傍らの子翼も同感したように、じっと夕陽を見つめていた。
黒狼を見やると、いつもと変わらない無感動を浮かべた横顔が夕焼けに染まっている。
「綺麗ね」
「そうか」
いつもの無表情に安堵を覚えもするのだが、たまには感動を共有してみたくもある。表情に乏しい黒狼は、滅多に怒ったり笑ったりしない。
「黒狼が綺麗だなと思うものって、なに?」
虚ろな眼差しはゆっくりと、夕陽から結蘭に視線を移す。ようやく口を開いた黒狼は、どこか寂しげに語る。
「俺には、物を見て綺麗と感じることがよくわからない。皿と夕陽がどう違うのか、判別がつかないんだ。目が悪いわけじゃない。太刀筋は明瞭に見えている」
言っている意味が、わからなかった。彼には剣以外のなにものにも興味が持てないということなのだろうか。
わかり合いたいのに、できない。
もどかしい想いに項垂れる結蘭を宥めるように、背にそっと無骨な手が触れる。
「だから俺は、結蘭と同じ視点で物を見て、同じ気持ちになれたらよいと思っている」
漆黒の瞳に夕陽の朱が溶ける。
黒狼の眇められた目に、不器用な優しさが映り込んでいた。
「いつか……黒狼の心が感動する日がきっとくるわ。そのときは私も一緒に、それを見るね」
黒狼は、ついと顔を上げる。
「それがなにかは、もう決まっている」
「えっ? なに?」
「秘密だ」
口角を上げて不敵な表情を見せる黒狼に、思わず笑みがこぼれる。
「なにかしら。未来の夕陽、かな」
「違うな」
「世界の剣豪の頂点に立つとか?」
「違う。結蘭の……いや、秘密だ」
「わかったわ、秘密ね。それを一緒に見られる時が楽しみね」
希望に胸を弾ませて、結蘭は微笑む。
眩しそうに双眸を細めた黒狼は、同じように微笑んだ。
彼が稀に微笑みを浮かべるとき、いつもその瞳の奥には哀しみのかけらが宿っている。
どうして、哀しいの?
虫にはすぐに聞けるのに、黒狼には訊ねられない。
口にのせるのは容易い。
けれど、聞いたら最後、ふたりの関係が壊れてしまいそうで。
黒狼が、どこか遠くへ行ってしまいそうで、怖い。
いつか、わかり合えたらいいな。
結蘭と同じ気持ちになれたらよいと願っている黒狼の想いを大切にしよう。
傍らにいる黒狼の体温をほのかに感じながら、結蘭は夕陽が山の稜線に沈むまで見つめていた。
廊下に出て、ほうと息を吐く。
詠帝なりの考えがあるらしい。こうなったのも、結蘭が闇塩のありかを突き止められなかったせいだ。責任を感じて落ち込んでしまう。
重厚な執務室の扉が閉ざされると、王尚書令は結蘭を見下ろした。
「公主といえど、安心しないほうがよろしいのではないですかな」
「え?」
「厄介な黒い虫がついているようですからな」
その発言に、王尚書令に従う副官が勝ち誇ったように黒狼を一瞥する。
どういう意味だろう。
苦々しい顔つきの呂丞相は、ふたりを促した。
「お気になさらず。さあ、参ろう」
陽が沈み、辺りは闇に覆われる。
役人が携える提燈のほのかな灯りが足元をおぼろに照らす。
「これで闇塩の件は明らかになるのでしょうか?」
結蘭の問いに、重々しい溜息を吐いた呂丞相は首を横に振った。
「そう簡単にはいくまい」
「どうしてです?」
力押しではあるが有効な方法ではないだろうか。むしろ、今までが秘密裏に事を進めすぎたので真実に辿り着かなかったのではないか。
「闇を白日の下に晒せば、影がなくなる。影がなくば、光も存在できぬ」
その心は表裏一体。まるで闇塩は必要であると示唆しているかのようだ。夏太守は、闇塩でもやらなければ借金を返せないと笑いながら話していた。
「よからぬことが起こりますぞ」
予言めいた台詞を残して、呂丞相は階を下りていった。
原野を吹き抜ける風が馬上の結蘭を迎える。
暦の上では立春だが、大地の春は未だ遠い。冷涼な空気は身体に沁み渡り、心地よくさえある。
遠乗りに出かけるのは久しぶりだ。闇塩の件が一段落したので、気が楽になったこともあり身体が軽い。彼方まで続く大地を思いきり駆けた。
「あの丘の上まで行きましょう」
後方から駆けてくる黒馬を振り返る。ひとつに束ねた漆黒の髪を風に揺らして、黒狼は頷いた。
小高い丘の上に着くと、風はやんだ。眼前に広がる赤々とした夕陽が、雲間ににじむ姿を時の狭間へ沈めようとしている。
この世には天と地しか存在せず、人はその片隅に居させてもらっているのだということわり。雄大な景色を目の当たりにすると、それを身に沁みて感じる。
結蘭は鞍から下りて、ほうと溜息をこぼした。傍らの子翼も同感したように、じっと夕陽を見つめていた。
黒狼を見やると、いつもと変わらない無感動を浮かべた横顔が夕焼けに染まっている。
「綺麗ね」
「そうか」
いつもの無表情に安堵を覚えもするのだが、たまには感動を共有してみたくもある。表情に乏しい黒狼は、滅多に怒ったり笑ったりしない。
「黒狼が綺麗だなと思うものって、なに?」
虚ろな眼差しはゆっくりと、夕陽から結蘭に視線を移す。ようやく口を開いた黒狼は、どこか寂しげに語る。
「俺には、物を見て綺麗と感じることがよくわからない。皿と夕陽がどう違うのか、判別がつかないんだ。目が悪いわけじゃない。太刀筋は明瞭に見えている」
言っている意味が、わからなかった。彼には剣以外のなにものにも興味が持てないということなのだろうか。
わかり合いたいのに、できない。
もどかしい想いに項垂れる結蘭を宥めるように、背にそっと無骨な手が触れる。
「だから俺は、結蘭と同じ視点で物を見て、同じ気持ちになれたらよいと思っている」
漆黒の瞳に夕陽の朱が溶ける。
黒狼の眇められた目に、不器用な優しさが映り込んでいた。
「いつか……黒狼の心が感動する日がきっとくるわ。そのときは私も一緒に、それを見るね」
黒狼は、ついと顔を上げる。
「それがなにかは、もう決まっている」
「えっ? なに?」
「秘密だ」
口角を上げて不敵な表情を見せる黒狼に、思わず笑みがこぼれる。
「なにかしら。未来の夕陽、かな」
「違うな」
「世界の剣豪の頂点に立つとか?」
「違う。結蘭の……いや、秘密だ」
「わかったわ、秘密ね。それを一緒に見られる時が楽しみね」
希望に胸を弾ませて、結蘭は微笑む。
眩しそうに双眸を細めた黒狼は、同じように微笑んだ。
彼が稀に微笑みを浮かべるとき、いつもその瞳の奥には哀しみのかけらが宿っている。
どうして、哀しいの?
虫にはすぐに聞けるのに、黒狼には訊ねられない。
口にのせるのは容易い。
けれど、聞いたら最後、ふたりの関係が壊れてしまいそうで。
黒狼が、どこか遠くへ行ってしまいそうで、怖い。
いつか、わかり合えたらいいな。
結蘭と同じ気持ちになれたらよいと願っている黒狼の想いを大切にしよう。
傍らにいる黒狼の体温をほのかに感じながら、結蘭は夕陽が山の稜線に沈むまで見つめていた。