「結果的にはそうなったね。つまり新皇帝には国をまとめる力がなかったのだよ。即位したらまずは国内を統制することが先決だが、それを怠り領土を広げようというのだから、順番を間違っている。もっとも、八歳の兄を殺して王位を簒奪した弟は六歳だったから、裏で操っている宰相の才覚がなかったということだろう。そして戦いは終わりを告げ、平和が訪れた。問題はそこからだ」
「そこからですか」
「戦死者の弔い、孤児や難民の保護、家屋の再建、塩を精製する作業場もなにもかも破壊されてしまった。敬州の復興に、かなり借金をしてしまいましてな。その返済を今も行っている。闇塩でもやらないと、財政破綻してしまうよ」
邪気のない夏太守の笑い声が、塩壁の房室に響き渡る。結蘭は呆気にとられた。
「闇塩を認めるのですか?」
「例を挙げただけだよ。ところで、蟲公主はどなたの差し金でこのような田舎まで来たのかな?」
夏太守の話術に巧く乗せられている気がする。会話の進度が絶妙で、するりと引き出されてしまう。
「呂丞相です」
「おお、呂丞相か。彼とは旧知の仲だよ。お元気かね?」
「ええ、それはもう」
劉青に墨と硯を用意させて、夏太守は竹簡にさらさらと筆を走らせた。
「これを、呂丞相に渡してくれ。闇塩についてのことが言及してある」
結蘭は息を呑んで丸められた竹簡に手を伸ばす。
ただし、と夏太守の厳しい声音が制した。
「道中で開いてはいけない。必ず、呂丞相に始めに見せるのだ。蟲公主は、それを守れる礼節を兼ね備えているとお見受けする」
「わかりました。約束をお守りします」
しかと竹簡を受け取り、屋敷を辞する。劉青が門扉まで見送りに出てくれた。
「では、お気をつけて」
「待て」
踵を返した劉青を、黒狼は引き止めた。
「まだなにか?」
身の上を知られて居心地が悪いのか、劉青は迷惑そうに振り返る。
「いや……なんでもない」
今度こそ屋敷に入っていった背を、惜しむように黒狼は見ていた。
塩湖を巡る戦の話は悲惨なものだった。結蘭が住んでいた奏州もかつての北蜀に隣接しているが、山をいくつも隔てているし、塩のような目立った産業もないので、戦火は遠いものだった。
「可哀想だったわね」
塩湖から吹いた風に煽られ、きらきらと塩の結晶が舞い散った。子翼の足取りと共に、次第に白銀の景色が遠ざかる。
黒狼は興味なさそうに吐き捨てた。
「よくある話だろう」
呼び止めていたから慰めの言葉をかけるものかと思ったのに、どうでもいいような態度を見せられて驚いてしまう。
「そんな言い方はひどいんじゃない? 黒狼が同じ目に遭ったら、よくある話だね、なんて言われてどう思うのよ」
まっすぐに前方を見据えた黒狼は、きつい眼差しを虚空に向けた。
「俺は、それでいい。同情されたくない。可哀想なんて言うな」
彼は、なにと戦っているのだろう。
ふと、黒狼が遠く感じた。
「例えばの話よ?」
「そうだ。例え話だ」
黒狼の両親は病死したと欣恵から聞いている。事情があって屋敷にいられなくなったのだとも。黒狼はなにも語ろうとしない。
「わかったわ。可哀想って言わないけど、私は黒狼の味方だから!」
「……なんだ、急に」
「たった今、決めたの。もし黒狼のことを可哀想と思うときが来たら、可哀想って言わないの。私ひとりだけになっても、黒狼の味方になってあげるの」
「それは勇ましいな」
呆れたような溜息を吐かれ、結蘭は憤慨する。
「信じてないでしょ⁉ 本当なんだから」
「じゃあ聞くが、味方になるとは具体的にどういうことなんだ?」
具体的に言え、と言われても今後の話なので、未来のことだ。
結蘭は思いつく限りの黒狼との行く末を思い描いた。
「困ったことがあったら手伝ってあげるの。そうしてずっと一緒にいて、毎日いろんな話をして御飯を食べたりして、年を取ったら一緒に死ぬの」
馬の足が止まった。手綱を引いた黒狼は、衝撃を受けたような顔で固まっている。
「そこからですか」
「戦死者の弔い、孤児や難民の保護、家屋の再建、塩を精製する作業場もなにもかも破壊されてしまった。敬州の復興に、かなり借金をしてしまいましてな。その返済を今も行っている。闇塩でもやらないと、財政破綻してしまうよ」
邪気のない夏太守の笑い声が、塩壁の房室に響き渡る。結蘭は呆気にとられた。
「闇塩を認めるのですか?」
「例を挙げただけだよ。ところで、蟲公主はどなたの差し金でこのような田舎まで来たのかな?」
夏太守の話術に巧く乗せられている気がする。会話の進度が絶妙で、するりと引き出されてしまう。
「呂丞相です」
「おお、呂丞相か。彼とは旧知の仲だよ。お元気かね?」
「ええ、それはもう」
劉青に墨と硯を用意させて、夏太守は竹簡にさらさらと筆を走らせた。
「これを、呂丞相に渡してくれ。闇塩についてのことが言及してある」
結蘭は息を呑んで丸められた竹簡に手を伸ばす。
ただし、と夏太守の厳しい声音が制した。
「道中で開いてはいけない。必ず、呂丞相に始めに見せるのだ。蟲公主は、それを守れる礼節を兼ね備えているとお見受けする」
「わかりました。約束をお守りします」
しかと竹簡を受け取り、屋敷を辞する。劉青が門扉まで見送りに出てくれた。
「では、お気をつけて」
「待て」
踵を返した劉青を、黒狼は引き止めた。
「まだなにか?」
身の上を知られて居心地が悪いのか、劉青は迷惑そうに振り返る。
「いや……なんでもない」
今度こそ屋敷に入っていった背を、惜しむように黒狼は見ていた。
塩湖を巡る戦の話は悲惨なものだった。結蘭が住んでいた奏州もかつての北蜀に隣接しているが、山をいくつも隔てているし、塩のような目立った産業もないので、戦火は遠いものだった。
「可哀想だったわね」
塩湖から吹いた風に煽られ、きらきらと塩の結晶が舞い散った。子翼の足取りと共に、次第に白銀の景色が遠ざかる。
黒狼は興味なさそうに吐き捨てた。
「よくある話だろう」
呼び止めていたから慰めの言葉をかけるものかと思ったのに、どうでもいいような態度を見せられて驚いてしまう。
「そんな言い方はひどいんじゃない? 黒狼が同じ目に遭ったら、よくある話だね、なんて言われてどう思うのよ」
まっすぐに前方を見据えた黒狼は、きつい眼差しを虚空に向けた。
「俺は、それでいい。同情されたくない。可哀想なんて言うな」
彼は、なにと戦っているのだろう。
ふと、黒狼が遠く感じた。
「例えばの話よ?」
「そうだ。例え話だ」
黒狼の両親は病死したと欣恵から聞いている。事情があって屋敷にいられなくなったのだとも。黒狼はなにも語ろうとしない。
「わかったわ。可哀想って言わないけど、私は黒狼の味方だから!」
「……なんだ、急に」
「たった今、決めたの。もし黒狼のことを可哀想と思うときが来たら、可哀想って言わないの。私ひとりだけになっても、黒狼の味方になってあげるの」
「それは勇ましいな」
呆れたような溜息を吐かれ、結蘭は憤慨する。
「信じてないでしょ⁉ 本当なんだから」
「じゃあ聞くが、味方になるとは具体的にどういうことなんだ?」
具体的に言え、と言われても今後の話なので、未来のことだ。
結蘭は思いつく限りの黒狼との行く末を思い描いた。
「困ったことがあったら手伝ってあげるの。そうしてずっと一緒にいて、毎日いろんな話をして御飯を食べたりして、年を取ったら一緒に死ぬの」
馬の足が止まった。手綱を引いた黒狼は、衝撃を受けたような顔で固まっている。