黒狼の肩めがけて。
 ごくりと息を呑んだときには、双手剣の刀身が完璧な体勢で邪な刀を受け止めていた。
 一瞬の出来事に、結蘭は逸る動悸を抑える。
 酔漢たちの喝采と野次が飛ぶ。
「両者とも、剣を収めよ」
 涼やかに響く仲裁に、濁った場の空気が一変する。
 帯刀した白皙の青年が進み出る姿に、酔漢たちは沈黙した。青年は眦の切れ上がった双眸で、ぐるりと周りを一瞥すると、黒狼たちをにらみ据えた。
 揉め事を酒の肴にしていた客たちは小声で囁く。
 夏氏の狗だ……。噛まれるぞ……。
 黒狼と男は剣を引き、一歩下がる。間に入った青年の手は柄にかけられていなかったが、いつでも抜刀できるよう指先に力が込められていた。
「この男は禁軍だ。夏太守の許可なく軍吏を斬ることは許さん」
 去ね、と命じられ、男は逃げるように客の波に紛れた。
 黒狼の正体を見破ったこの青年は、何者だろう。
 その疑問に答えるように、青年は黒狼ではなく、結蘭に向き直る。
「失礼しました。私は劉青(りゅうせい)。夏太守の近侍です」
「はじめまして。結蘭と申します」
 夏太守の近侍だとは幸運だったというべきか。
 庇ってくれたからには好意的なはずと解釈したのは、結蘭の早合点だった。
「お嬢さんは敬州になんの御用でしょう。官吏には見えませんが、何者です」
 怪訝な目つきで爪先まで眺められ、結蘭はうろたえた。
まさか身分は公主で、闇塩について調べにきましたなどと言えるはずもない。
 劉青の視線を遮るように、黒狼は結蘭の前に出た。
「彼女は俺の妹だ。俺たちは夏太守に会いに来た」
「妹? ……ほう。夏太守に面会したいのなら、私が屋敷まで御案内しましょう。塩湖の畔ですから、山を下りていかほどもありません」
 感謝を述べようとする暇もなく、劉青はくるりと踵を返す。階の傍にいた男に、なにか言いつけている姿が見えた。
 彼はこの辺りで一目置かれる存在らしい。
「油断のならない男だな」
 黒狼は眉をひそめると、蝋燭の灯りに煌々と照らされていた結蘭の黒髪に包袱皮を被せた。
「強そうな人ね」
「そういうことじゃない。騒ぎが起こる前から俺たちを見張っていた」
 ここは敬州。夏太守の領域なのだ。
 誰かに監視されているような気がして、結蘭はぶるりと背を震わせる。
 飯屋の酔客たちは何事もなかったかのように、徳利の酒を注いでいた。



 漆黒の闇が広がる森を縫い、梟の囁きが木霊する。
 山奥の夜は月明かりも届かない。躍る松明の灯が、どこか不気味だ。
 結蘭は静かに木窓を閉じた。所在なさげに臥台に腰掛ける。
「房室がひとつって、宿が混んでるのかしら?」
 あてがわれた房室は一室だけで、臥台はふたつ並んでいる。今までの宿では、黒狼は隣の房室に寝ていたのだ。
 いつも一緒にいる黒狼だが、並んで寝るということは当然なかったので戸惑ってしまう。
「兄妹ということになっているからな」
 平然とつぶやいた黒狼は、腰にしっかりと剣を佩いている。
 戸口に立って外の気配を確認したあと、彼は床に座り込んだ。
「寝ろ」
「黒狼は?」
「俺は起きている」
 一晩中見張っているつもりだろうか。
 結蘭たちが警戒されているのは間違いないが、夏太守の許可がなければ役人を切れないと劉青は語った。少なくとも今夜は大丈夫だと思うのだけれど。
 結蘭の不安が顔に表れていたのか、黒狼は静かに言った。
「心配するな。なにもしない。万が一、賊に襲われるようなことがあったら困るからな。今夜はここで見張る」
「私が心配してるのは黒狼の寝不足のことなんだけど」
「……心配無用だ」
 溜息を吐かれてしまった。
 仕方なく臥台に入り、衾をかけるが、目が冴えて眠れない。結蘭は幾度も寝返りを打った。
「黒狼……」
「なんだ」
 黒狼は掠れのない声で即座に返事をした。