「えっ? 私、娼婦に見られてたの?」
「男と目を合わせるな。ここでは兄妹ということにする。俺の傍から離れるなよ」
言い含めた黒狼は包袱皮を取り出し、結蘭の長い黒髪を包み隠した。
王都から離れると危険も増す。善良な旅人だけとは限らないので、気をつけなければ。
宿は素朴な造りだが充分な広さがあり、一階は飯屋で二階が宿になっている。立地上、旅人はこの宿に泊まらざるを得ないようで、飯屋はにぎわっていた。
席に着くとやってきた女中に、蒸した豚肉や点心を注文する。
「ああ、おなかへった」
ややあって、料理が運ばれてきた。
だが頼んでいないのに、酒と酒器も卓に置かれる。黒狼は酒を注いだ猪口に鼻を近づけ、すんと匂いを嗅いだ。
「水だ」
「え。水なのに酒器に持ってくるの?」
周りを見回すと、どこの卓にも酒器が置いてある。どうやら客は一杯目の水を飲んでから、注文して酒器に酒を注いでもらうという流れらしい。
「この地方の風習らしいな。俺は酒なんか飲まなくてもいいが」
「私も水だけでいいわ」
「おまえは酒を飲めないだろ」
黒狼は猪口を呷る。逞しい喉仏が上下するのを、豚肉が入った饅頭を食す手を止めて結蘭は見つめた。
「……飲むか?」
遠慮がちに訊ねられる。饅頭が喉につかえそうなので水分を摂りたいが、なぜか猪口はひとつしかない。
黒狼は口をつけた猪口を、ずいと差し出した。
飲み回しするのはかまわないのだけれど、黒狼の唇に間接的に触れてしまうわけで。
急に意識してしまい、頬が火照る。
「えっと、でも……」
迷っているうちに、皿を退かされ手前に猪口を置かれる。
とくとくと満たされた水の甘やかな香りに、くらりと酩酊しそうだ。
息を深く吸い込んだ瞬間、ぐっと饅頭が喉に詰まる。
「んんふっ」
反射的に猪口を手に取り、一息に呷る。無事に喉を通過して、ほっと安堵したのも束の間。
薄く笑んだ黒狼の表情を目にして、ふと手元に視線を落とす。
今、どちら側で飲んだのだろうか。
黒狼が口をつけたのとは反対側か、それとも……。
戸惑っていると猪口を取り返されてしまう。黒狼は手首を捻り、結蘭の唇が触れた縁を食むように杯を呷った。
「水……入ってないわよ」
「わかっている」
周りの喧騒が遠のく。
どうして、そんなことをするのだろう。
杯越しに、漆黒の双眸に射抜かれる。
なんだか、いつもの黒狼とは、違う人みたいだ。
結蘭は絡む視線を引き剥がすように逸らし、席を立ち上がった。
「ちょっと、厠に……きゃっ」
突然、男が背後で倒れ込んできた。
椅子を動かしたとき、足を引っかけてしまったらしい。
「すみません、大丈夫ですか?」
「なにをしやがる!」
激昂して立ち上がった男は相当酔っており、呂律が怪しい。
よく見れば、先ほど厩舎で会った侠客風の男だ。
結蘭が顔を上げると、蝋燭に照らされた瞳が宝玉のように煌めく。男は掴みかかるように腕を伸ばした。
「きゃあ……っ」
髪を覆う包袱皮を鷲掴みにされる。
はらりと、長い黒髪が蝋燭のほのかな灯りと酒気のなかに舞い散った。
「さわるな」
ぞっとするほど怜悧な声音に、場は静まり返る。
首筋に刀身を当てられた男は、ぴたりと動きを止めた。怒気を漲らせた黒狼は、今にも男の首を落とさんと、腕に力を込めている。
「すまない、俺が悪かった。助けてくれ」
両手を掲げて謝罪する男に、黒狼は剣を下ろす。
成り行きを見守っていた客たちは、なんだもう終わりかと囁き、徳利を持ち上げた。
その刹那、振り向きざまに抜き打った男の太刀が一閃する。
「男と目を合わせるな。ここでは兄妹ということにする。俺の傍から離れるなよ」
言い含めた黒狼は包袱皮を取り出し、結蘭の長い黒髪を包み隠した。
王都から離れると危険も増す。善良な旅人だけとは限らないので、気をつけなければ。
宿は素朴な造りだが充分な広さがあり、一階は飯屋で二階が宿になっている。立地上、旅人はこの宿に泊まらざるを得ないようで、飯屋はにぎわっていた。
席に着くとやってきた女中に、蒸した豚肉や点心を注文する。
「ああ、おなかへった」
ややあって、料理が運ばれてきた。
だが頼んでいないのに、酒と酒器も卓に置かれる。黒狼は酒を注いだ猪口に鼻を近づけ、すんと匂いを嗅いだ。
「水だ」
「え。水なのに酒器に持ってくるの?」
周りを見回すと、どこの卓にも酒器が置いてある。どうやら客は一杯目の水を飲んでから、注文して酒器に酒を注いでもらうという流れらしい。
「この地方の風習らしいな。俺は酒なんか飲まなくてもいいが」
「私も水だけでいいわ」
「おまえは酒を飲めないだろ」
黒狼は猪口を呷る。逞しい喉仏が上下するのを、豚肉が入った饅頭を食す手を止めて結蘭は見つめた。
「……飲むか?」
遠慮がちに訊ねられる。饅頭が喉につかえそうなので水分を摂りたいが、なぜか猪口はひとつしかない。
黒狼は口をつけた猪口を、ずいと差し出した。
飲み回しするのはかまわないのだけれど、黒狼の唇に間接的に触れてしまうわけで。
急に意識してしまい、頬が火照る。
「えっと、でも……」
迷っているうちに、皿を退かされ手前に猪口を置かれる。
とくとくと満たされた水の甘やかな香りに、くらりと酩酊しそうだ。
息を深く吸い込んだ瞬間、ぐっと饅頭が喉に詰まる。
「んんふっ」
反射的に猪口を手に取り、一息に呷る。無事に喉を通過して、ほっと安堵したのも束の間。
薄く笑んだ黒狼の表情を目にして、ふと手元に視線を落とす。
今、どちら側で飲んだのだろうか。
黒狼が口をつけたのとは反対側か、それとも……。
戸惑っていると猪口を取り返されてしまう。黒狼は手首を捻り、結蘭の唇が触れた縁を食むように杯を呷った。
「水……入ってないわよ」
「わかっている」
周りの喧騒が遠のく。
どうして、そんなことをするのだろう。
杯越しに、漆黒の双眸に射抜かれる。
なんだか、いつもの黒狼とは、違う人みたいだ。
結蘭は絡む視線を引き剥がすように逸らし、席を立ち上がった。
「ちょっと、厠に……きゃっ」
突然、男が背後で倒れ込んできた。
椅子を動かしたとき、足を引っかけてしまったらしい。
「すみません、大丈夫ですか?」
「なにをしやがる!」
激昂して立ち上がった男は相当酔っており、呂律が怪しい。
よく見れば、先ほど厩舎で会った侠客風の男だ。
結蘭が顔を上げると、蝋燭に照らされた瞳が宝玉のように煌めく。男は掴みかかるように腕を伸ばした。
「きゃあ……っ」
髪を覆う包袱皮を鷲掴みにされる。
はらりと、長い黒髪が蝋燭のほのかな灯りと酒気のなかに舞い散った。
「さわるな」
ぞっとするほど怜悧な声音に、場は静まり返る。
首筋に刀身を当てられた男は、ぴたりと動きを止めた。怒気を漲らせた黒狼は、今にも男の首を落とさんと、腕に力を込めている。
「すまない、俺が悪かった。助けてくれ」
両手を掲げて謝罪する男に、黒狼は剣を下ろす。
成り行きを見守っていた客たちは、なんだもう終わりかと囁き、徳利を持ち上げた。
その刹那、振り向きざまに抜き打った男の太刀が一閃する。