そのように頼まれては引き受けざるを得ない。
 結蘭が承諾した途端、さっさと椅子に座り直し、満面の笑みを浮かべる。一連の動作を冷ややかに見守っていた黒狼は、ぼそりとつぶやいた。
「お家芸だな」
 それは丞相府を出たあとで言ってほしい。
 結蘭が青くなって諌めようとする前に、呂丞相は怒りを露わにした。
「真似するでないぞ! わしはこの技で丞相まで登りつめたんじゃ」
「さようにございますか」
 言いたいことをすべて述べたらしい黒狼と呂丞相は、残った茶を同時に啜る。
 ふたりを交互に見やり、結蘭は締めの言葉を述べた。
「では、塩湖へ行ってまいります……」



 目指す敬州は河北の山間にある。寺参りという名目で外泊許可を得た結蘭は、愛馬の背を撫でた。
「子翼の出番がきたわ。お願いね」
 子翼は応えるように高く嘶き、前脚を蹴る。
 結蘭は田舎育ちなので馬に乗れる。ただし、子翼にしか乗れない。子翼も結蘭以外の人が乗ろうとすると振り落としてしまうので、相思相愛ということかもしれない。
 子どもの頃から大切に世話をしてきたので、気心は知れている。
「準備はいいか、結蘭」
 鞍に荷物を載せた黒狼は馬に跨る。
「うん! 行きましょう」
 奏州と王都の周辺しか知らない結蘭の胸は、未知の世界への期待に弾んだ。
 もしかしたら叶うかもしれない。
 子どもの頃から夢見ていた、金色蝶に出会うことが。
 けれど、今回は闇塩を調査するために敬州へ赴くのだ。私事を優先させてはいけないと、自分を戒める。
 城門をくぐり、目抜き通りを抜ける。眼前には盛況な市が開けた。
 整然とした城とは対照的に、雑多で活気に満ちあふれている。
 街道に出ると、一面に緑の毛氈を敷いたような田園風景が広がっていた。燦々とした陽射しを受けて、子翼のたてがみが眩い銀色に光っている。
 轡を並べて馬の歩を進める黒狼は、何気なく話しかけてきた。
「初めてだな。俺とふたりで遠出するのは」
「そうね。すごく楽しみ」
 笑顔で答えると、黒狼はいつもの無表情に加えて瞬きをひとつした。
「楽しみなのか」
「うん、だって……」
 子翼が突然、不満げに鼻を鳴らす。結蘭の尻が飛び上がるほど背を揺らした。
「あっ、子翼もいるから、ふたりじゃないわよね。三人ね」
 そうそう、と言いたげに、子翼は嬉しそうに闊歩している。
 子翼の言葉は聞けないけれど、彼は人の言葉を理解しているのだ。
「……馬は数に入れなくていいだろう」
 ぼそりとつぶやいた黒狼に、今度は歯を剥き出しにして威嚇している。
「仲良くしてよね」
 結蘭は苦笑をこぼしながら、河辺から吹く涼やかな風に身を浸した。



 日が暮れると宿や寺へ泊まることを繰り返し、ようやく敬州の領内へと足を踏み入れた。
 王都からの距離は奏州よりも近いのだが、険しい山々が連なるため遠く感じる。
 行き交うのは大変なのに、重装備をした旅人や商人と数多くすれ違う。敬州は塩の産地なので、交易が盛んなのだ。
 夕陽は山の稜線へと沈み、山道を登る子翼にも疲れが見える。鬱蒼とした山道に一軒だけ佇む宿の主人が、結蘭たちに声をかけてきた。
「お客人。どうぞ、うちの宿に泊まってください。この先は山を下りるまで寺もありませんから」
 必然的に宿をとることになり、鞍から下りる。
 子翼を厩に連れていき、桶に汲んだ水を飲ませていると、重厚な箱を鞍に乗せた馬が隣につけた。侠客風の男が箱を担ぐと、がちゃりと金属音が鳴る。塩ではないようだ。
 結蘭に気づいた男は、じろじろと上から下まで、不躾にねめつけてきた。
「いくらだ?」
「はい?」
 いくらって、なにがだろう。
 首を捻っていると、素早く近づいてきた黒狼が男との間に割って入る。
「俺の妹だ。娼婦じゃない」
 険しい顔をした黒狼に、男は舌打ちをひとつすると宿に入っていった。