布から取り出した珠鐶を卓に乗せる。血糊のついた翡翠は禍々しくも荘厳な存在感を示している。
 新月はわずかに目を瞠った。
「これは私の珠鐶です。失くしたと思い、探していました。どこで見つけたのですか?」
 思わず黒狼と顔を見合わせてしまう。
 さすがに賊が落としたとは言いにくい。
「その……後宮で拾ったのです。昨夜……」
「昨夜? 賊が出たと報告がありましたが、結蘭さまは夜中に出歩いてなにをしておいでだったのです?」
 逆に詰問されてしまい、答えに窮する。
 黒狼に助け舟を求めようとちらりと見やると、彼は新月の袖口に視線を注いでいた。
「昨夜、俺は賊と斬り合い、手負いを負わせた。手首を斬りつけたときに珠鐶が落ちた」
「ほう。それで?」
「その血は、貴様の血じゃないのか」
 不遜な物言いに、結蘭は内心慌てた。
 黒狼は禁軍の校尉であり、光禄勲は上官なのだ。皇帝の右腕を賊と決めつけては、官位剥奪や投獄も免れない。
「違います」
 涼しい顔で即答する新月に、黒狼は追い討ちをかける。
「手首を見せろ。俺が斬った傷があるはずだ」
 上衣の袖は、手首をすっぽりと覆っていた。玲瓏な双眸をすっと細め、新月は薄い笑みを浮かべる。
「私を疑っているようですね」
「当然だ」
「もし傷がない場合、黒狼校尉を不敬罪で投獄しなければなりません。それでも見たいですか?」
「さっさと見せろ」
 官房付きの衛士が剣柄に手を掛け、一歩踏み出した。結蘭はたまらず間に割って入る。
「やめて、黒狼! 新月さま、申し訳ありません。どうか、ご容赦を」
 土下座しようと床に膝をつくと、それを避けるように新月は椅子から立ち上がった。血のついたままの珠鐶を、するりと手首に嵌める。
「かまいません。では、外朝へ出向く時刻ですので、これで」
 衛士の前を通り過ぎ、新月は副官を伴って官房から出ていった。



 朝陽が目に痛い。軍府から続く石畳に濃い影を落とす強烈な陽射しでも、気まずい空気が漂うのを拭えない。
 結局、賊が新月なのか確証は得られなかった。
「あいつに決まっている」
 朝から不機嫌が持続したままの黒狼は断定する。
 しかし、珠鐶だけで決めつけるのは性急ではないだろうか。
 結蘭は昨夜の様子を、ゆっくりと脳裏に呼び起こした。
 賊は全員、黒装束を纏い、黒頭巾で顔を覆っていた。台車を引いていた者たちは屈強だが、黒狼と戦った賊は幾分華奢だったように思う。
「賊の剣は、なんだったか覚えてる?」
「倭刀だ。新月のも倭刀だ」
「まったく同じ剣かしら?」
「それは並べてみないとわからない」
 同一の剣は並べることができないのだけれど。
 華奢な身体、倭刀。なにからなにまで新月が賊であると物語っているように思えてくる。
「戦ってみた感じはどうだった? 新月さまと太刀筋は似てるの?」
 意外なことに、黒狼は首を捻った。
「わからない。新月は誰とも手合わせしたことがないからな」
「え? だって、訓練に顔を出すでしょ?」
「いつも見ているだけだ」
 光禄勲となれば兵の育成は師範任せだろうが、剣士ならば鍛錬を積まないということは考えられない。
 黒狼は思い出すように間を置いた。
「あの賊は正式な構えだった。その辺の侠客崩れとは違う。どこかで習っているな。だが青い。人を斬ることに、ためらいがある」
「新月さまの剣は、そういう剣なのかしら?」
「あいつに決まっている」
 堂々巡りに落ち着いたところで、後宮へ続く門に到着する。黒狼はこれから兵営に向かうため、そこで別れる。
「気になることがあるの。夕餉の前に、もう一度出かけましょう」
 黒衣の背に呼びかけると、了承代わりに軽く手が挙げられた。