間合いが開いた隙に、剣を抜いた男は台車を引いた者たちに顎をしゃくる。先に行けという合図に、台車は猛然と駆け出した。
「待って!」
咄嗟に、結蘭は両手を広げて立ち塞がった。
車輪は呻りを上げる。
息を、詰めた。
「結蘭!」
気を取られた黒狼に隙が生じた。男は大きく振り被り、渾身の一撃を食らわせる。
台車に跳ね飛ばされる寸前、結蘭は跳んだ。
永遠のような一瞬のあと、剣が石畳を打つ乾いた音が響く。
月明かりを浴びた双手剣は、黒狼の姿と共に、燦然と刀身を煌めかせた。
男は手首を押さえてよろめく。血の匂いが辺りに立ち込めた。
「結蘭、しっかりしろ!」
「平気。手を擦っただけ」
駆け寄った黒狼に抱き起こされる。
転んだだけで済み、幸いだった。黒狼にも怪我はないようだ。もちろん彼の剣の腕は信頼しているのだけれど。
結蘭は、ふうと息をついた。
その隙に男は叩き落された剣を素早く拾い、闇のなかに消えた。
裏路は静寂に包まれる。一連の出来事が夢ではないと、路に滴る血痕が教えていた。
「あら? あれは……」
ほのかに輝くそれを、結蘭は拾い上げた。
翡翠の珠鐶には、真新しい血飛沫が付着している。
「これは、新月さまの珠鐶?」
まさかという驚きに包まれ、顔を上げる。
すると、永寧宮の門扉から顔を出した女官が、こちらの様子をうかがっていた。
女官は、目が合うと姿を隠す。裏路の先にある永寧宮は、台車がやってきた方角だった。
結蘭は月明かりに鈍く光る珠鐶を布に包むと、剣を鞘に収めた黒狼と共に、その場をあとにした。
翌朝、深夜に外出した咎を朱里に説教された結蘭は、重い瞼を擦り、大きく伸びをする。
朝餉の膳を下げる朱里の後姿を見送り、ようやくお説教から解放されたと一息ついたのも束の間。
「だから俺だけ行くと言ったんだ。奇跡的に軽傷で済んだからよかったものの、なにかあったらどうするつもりだ」
お説教第二陣の開幕に、結蘭はうんざりと肘掛にもたれた。
普段は無口なくせに、こんなときだけ饒舌になるのはやめてほしい。
怒りの冷めやらぬ黒狼は延々と、いかに結蘭の身が大事かと説く。頃合を見計らって、結蘭は神妙に頷いた。
「わかった。今後は自重するね」
「なにがわかったんだ。まったくわかっていないだろう。そもそもな……」
「それより、問題はこれじゃない?」
果てなく続きそうな説教を打ち切るべく、白布に包んだ翡翠の珠鐶を取り出す。
陽射しにかざし、じっくりと眺めてみる。やはり、以前兵営で目にした新月の手首を飾っていたものと同一の細工だ。高価な代物なので、同じものはふたつとないだろう。
「あの人は、まさか新月さまだったのかしら?」
「まさかもなにもない。珠鐶が奴のものなら、そうなんだろう」
光禄勲を奴呼ばわりとは、黒狼は新月を相当嫌っているらしい。
あの慇懃な麗人が賊だなんて到底思えない。仮にそうだとしても、なにか理由があるのではないだろうか。
「行くぞ」
黒狼は刀を押さえて立ち上がった。
「どこへ?」
「軍府に決まってる」
「どうして?」
もしや新月に直接問い質すつもりなのか。眉をひそめた結蘭の予想は的中した。
「さっさと奴に返せ。珠鐶を物憂げに眺められると苛々する」
吐き捨てる黒狼の後ろから、結蘭は肩を竦めてついていった。
軍府の官房へ案内されると、新月はすぐに入室してきた。
「おはようございます、結蘭公主。なにかありましたか?」
外朝での拝謁はこれから始まるというのに、新月は嫌な顔ひとつせず出迎えて、椅子を勧めてくれる。
爽やかな微笑には、昨夜凶行を演じた影は見当たらない。
「朝早くから訪ねて申し訳ありません。実は、これを……」
「待って!」
咄嗟に、結蘭は両手を広げて立ち塞がった。
車輪は呻りを上げる。
息を、詰めた。
「結蘭!」
気を取られた黒狼に隙が生じた。男は大きく振り被り、渾身の一撃を食らわせる。
台車に跳ね飛ばされる寸前、結蘭は跳んだ。
永遠のような一瞬のあと、剣が石畳を打つ乾いた音が響く。
月明かりを浴びた双手剣は、黒狼の姿と共に、燦然と刀身を煌めかせた。
男は手首を押さえてよろめく。血の匂いが辺りに立ち込めた。
「結蘭、しっかりしろ!」
「平気。手を擦っただけ」
駆け寄った黒狼に抱き起こされる。
転んだだけで済み、幸いだった。黒狼にも怪我はないようだ。もちろん彼の剣の腕は信頼しているのだけれど。
結蘭は、ふうと息をついた。
その隙に男は叩き落された剣を素早く拾い、闇のなかに消えた。
裏路は静寂に包まれる。一連の出来事が夢ではないと、路に滴る血痕が教えていた。
「あら? あれは……」
ほのかに輝くそれを、結蘭は拾い上げた。
翡翠の珠鐶には、真新しい血飛沫が付着している。
「これは、新月さまの珠鐶?」
まさかという驚きに包まれ、顔を上げる。
すると、永寧宮の門扉から顔を出した女官が、こちらの様子をうかがっていた。
女官は、目が合うと姿を隠す。裏路の先にある永寧宮は、台車がやってきた方角だった。
結蘭は月明かりに鈍く光る珠鐶を布に包むと、剣を鞘に収めた黒狼と共に、その場をあとにした。
翌朝、深夜に外出した咎を朱里に説教された結蘭は、重い瞼を擦り、大きく伸びをする。
朝餉の膳を下げる朱里の後姿を見送り、ようやくお説教から解放されたと一息ついたのも束の間。
「だから俺だけ行くと言ったんだ。奇跡的に軽傷で済んだからよかったものの、なにかあったらどうするつもりだ」
お説教第二陣の開幕に、結蘭はうんざりと肘掛にもたれた。
普段は無口なくせに、こんなときだけ饒舌になるのはやめてほしい。
怒りの冷めやらぬ黒狼は延々と、いかに結蘭の身が大事かと説く。頃合を見計らって、結蘭は神妙に頷いた。
「わかった。今後は自重するね」
「なにがわかったんだ。まったくわかっていないだろう。そもそもな……」
「それより、問題はこれじゃない?」
果てなく続きそうな説教を打ち切るべく、白布に包んだ翡翠の珠鐶を取り出す。
陽射しにかざし、じっくりと眺めてみる。やはり、以前兵営で目にした新月の手首を飾っていたものと同一の細工だ。高価な代物なので、同じものはふたつとないだろう。
「あの人は、まさか新月さまだったのかしら?」
「まさかもなにもない。珠鐶が奴のものなら、そうなんだろう」
光禄勲を奴呼ばわりとは、黒狼は新月を相当嫌っているらしい。
あの慇懃な麗人が賊だなんて到底思えない。仮にそうだとしても、なにか理由があるのではないだろうか。
「行くぞ」
黒狼は刀を押さえて立ち上がった。
「どこへ?」
「軍府に決まってる」
「どうして?」
もしや新月に直接問い質すつもりなのか。眉をひそめた結蘭の予想は的中した。
「さっさと奴に返せ。珠鐶を物憂げに眺められると苛々する」
吐き捨てる黒狼の後ろから、結蘭は肩を竦めてついていった。
軍府の官房へ案内されると、新月はすぐに入室してきた。
「おはようございます、結蘭公主。なにかありましたか?」
外朝での拝謁はこれから始まるというのに、新月は嫌な顔ひとつせず出迎えて、椅子を勧めてくれる。
爽やかな微笑には、昨夜凶行を演じた影は見当たらない。
「朝早くから訪ねて申し訳ありません。実は、これを……」