刀を挿して兵営にいるということは軍吏に違いないが、新月が官職を名乗らないので不思議に思う。佇まいから察するに一兵士には見えないのだけれど。
「光禄勲です」
さらりと最上位の階級を告げられ、仰天した結蘭は数歩後ずさりして壁に背をつけた。
光禄勲は九卿の一人で、皇帝を守護する近衛の任に就く大臣である。
けれど目の前にいる麗人は剛健でもなく、辣腕を振るう権力者には到底見えない。なにより若い。黒狼と同じくらいだろう。
「見えませんか?」
考えを見通されたようで、新月はくすりと笑んだ。
「ええ、とても……お若いので」
「光栄です。とりあえず壁から背を離してください。衣が汚れますよ」
新月は兵営を案内すると言って内部を見せてくれた。営舎の中央に位置する広場は砂埃が落ち着き、兵が散開していた。訓練は終了したようだ。
「私は九卿といっても名ばかりで、城を散歩するのが趣味なのです」
「はあ」
真顔で冗談を話す新月に、結蘭は生返事をした。
黒狼はどこかしら?
黒衣を探して首を巡らせたとき、かつり、と柱になにかがぶつかる。
「あっ……」
歩揺を引っかけてしまったようだ。取ろうと手を伸ばすが、余計に髪が乱れてしまうばかりで焦ってしまう。
「そのままで。大丈夫ですよ」
新月はすい、と歩揺を外す。結蘭の髪を手櫛で整え、歩揺を挿し直してくれた。
ふと、新月の衣袍から覗いた手首の煌めきに目がいく。
精巧な細工が施された深い碧の珠鐶は翡翠だ。
偶然にも、今日挿していた結蘭の歩揺も翡翠だった。
「ありがとうございます。それ、私の歩揺と同じ玉ですね」
新月は珠鐶をはめた手首を軽く掲げ、優美に微笑んだ。
「私は翡翠が好きなのです」
そのとき、酷薄な気配を感じた。
つと振り返った先には、南刀を携えた黒狼が無表情を浮かべてこちらを凝然と見ている。
「黒……」
呼びかけるより早く、黒狼は無言で踵を返した。
え、無視? どうして……。
「新月さま、ありがとうございました。それではこれで!」
新月に礼を述べ、慌てて黒狼のあとを追いかける。
訓練に使用したのであろう南刀を兵庫に片付け、兵営を出て後宮に戻ってきても、黒狼は歩を緩めず無言を貫いた。
秘めた怒りを全身から漲らせる背に、結蘭は肩を竦めながら声をかける。
「新月さまに挨拶しないの? 光禄勲だから上官でしょ?」
「……」
「今日は南刀の訓練だったの? 黒狼は両手剣のほうが得意よね。どうだった?」
「……」
「なにを怒ってるの?」
「……怒ってなどいない」
どう見ても怒っている。
勝手に兵営に赴いたことで機嫌を損ねたのだろうかと、結蘭は首を捻る。
清華宮の奥にある結蘭の房室まで送り届けた黒狼は辞さず、隅に置いた椅子に腰掛けた。
「琵琶を弾いてくれ」
送り届けたというより、本日は黒衣の後ろにくっついてきたような形だけれど。
黒狼の住まいは特別に宮の離れにしてもらっているが、いつもはすぐに房室を出ていくので、申し出は嬉しかった。
「水仙花でいい? 最近、練習してるの」
「ああ」
宴以来、琵琶の演奏を頑張っている。けれど才能がないのか、なかなか上達しない。
愛用の琵琶と義甲を構える。優しく、労わるように弦を爪弾く。紡がれる旋律は、夕暮れの茜射す庭に溶けていった。
難しい箇所で引っかかり、音が途切れる。
黒狼は、ふいにつぶやいた。
「結蘭の琵琶の音は落ち着くな」
「ええ? そんなこと言ってくれるの黒狼だけよ。朱里なんか、『虫の断末魔の叫びのようです』って感想くれるわ」
「そうかもな。上手いとは言ってない」
がくりと肩を落とす。
黒狼もやはり、下手だと認識しているのだ。
「光禄勲です」
さらりと最上位の階級を告げられ、仰天した結蘭は数歩後ずさりして壁に背をつけた。
光禄勲は九卿の一人で、皇帝を守護する近衛の任に就く大臣である。
けれど目の前にいる麗人は剛健でもなく、辣腕を振るう権力者には到底見えない。なにより若い。黒狼と同じくらいだろう。
「見えませんか?」
考えを見通されたようで、新月はくすりと笑んだ。
「ええ、とても……お若いので」
「光栄です。とりあえず壁から背を離してください。衣が汚れますよ」
新月は兵営を案内すると言って内部を見せてくれた。営舎の中央に位置する広場は砂埃が落ち着き、兵が散開していた。訓練は終了したようだ。
「私は九卿といっても名ばかりで、城を散歩するのが趣味なのです」
「はあ」
真顔で冗談を話す新月に、結蘭は生返事をした。
黒狼はどこかしら?
黒衣を探して首を巡らせたとき、かつり、と柱になにかがぶつかる。
「あっ……」
歩揺を引っかけてしまったようだ。取ろうと手を伸ばすが、余計に髪が乱れてしまうばかりで焦ってしまう。
「そのままで。大丈夫ですよ」
新月はすい、と歩揺を外す。結蘭の髪を手櫛で整え、歩揺を挿し直してくれた。
ふと、新月の衣袍から覗いた手首の煌めきに目がいく。
精巧な細工が施された深い碧の珠鐶は翡翠だ。
偶然にも、今日挿していた結蘭の歩揺も翡翠だった。
「ありがとうございます。それ、私の歩揺と同じ玉ですね」
新月は珠鐶をはめた手首を軽く掲げ、優美に微笑んだ。
「私は翡翠が好きなのです」
そのとき、酷薄な気配を感じた。
つと振り返った先には、南刀を携えた黒狼が無表情を浮かべてこちらを凝然と見ている。
「黒……」
呼びかけるより早く、黒狼は無言で踵を返した。
え、無視? どうして……。
「新月さま、ありがとうございました。それではこれで!」
新月に礼を述べ、慌てて黒狼のあとを追いかける。
訓練に使用したのであろう南刀を兵庫に片付け、兵営を出て後宮に戻ってきても、黒狼は歩を緩めず無言を貫いた。
秘めた怒りを全身から漲らせる背に、結蘭は肩を竦めながら声をかける。
「新月さまに挨拶しないの? 光禄勲だから上官でしょ?」
「……」
「今日は南刀の訓練だったの? 黒狼は両手剣のほうが得意よね。どうだった?」
「……」
「なにを怒ってるの?」
「……怒ってなどいない」
どう見ても怒っている。
勝手に兵営に赴いたことで機嫌を損ねたのだろうかと、結蘭は首を捻る。
清華宮の奥にある結蘭の房室まで送り届けた黒狼は辞さず、隅に置いた椅子に腰掛けた。
「琵琶を弾いてくれ」
送り届けたというより、本日は黒衣の後ろにくっついてきたような形だけれど。
黒狼の住まいは特別に宮の離れにしてもらっているが、いつもはすぐに房室を出ていくので、申し出は嬉しかった。
「水仙花でいい? 最近、練習してるの」
「ああ」
宴以来、琵琶の演奏を頑張っている。けれど才能がないのか、なかなか上達しない。
愛用の琵琶と義甲を構える。優しく、労わるように弦を爪弾く。紡がれる旋律は、夕暮れの茜射す庭に溶けていった。
難しい箇所で引っかかり、音が途切れる。
黒狼は、ふいにつぶやいた。
「結蘭の琵琶の音は落ち着くな」
「ええ? そんなこと言ってくれるの黒狼だけよ。朱里なんか、『虫の断末魔の叫びのようです』って感想くれるわ」
「そうかもな。上手いとは言ってない」
がくりと肩を落とす。
黒狼もやはり、下手だと認識しているのだ。