演舞の最後に黒狼が拱手する。李昭儀は皿から菓子をひとつ、手に取った。
「見事じゃ。褒美をとらせる」
 投げ捨てられるように放られた菓子が転がる。
 それは結蘭の傍らを横切り、黒狼の足元で止まった。
 いくら近侍であっても、見下すにもほどがある。食物を無下に扱う態度にも腹が立った。
「李昭儀、そんなこと……」
 素早く菓子を拾って袂に入れた黒狼は、苦言を呈する結蘭の姿を隠すように前へ進み出た。
「ありがたき幸せ。李昭儀さまに感謝いたします」
 大礼をとる黒狼へ、鷹揚に頷いた李昭儀は、それきり視界に入れまいとするかのように目を逸らす。
 散らかった宴の席は、すでに女官の手によって元通りになっていた。妃嬪たちは何事もなかったかのように、ふたたび宮廷の噂話に興じている。
 結蘭はそっと場をあとにした。その後ろを、黒狼は影のように付き従う。



 清華宮に戻り、蜘蛛を庭の枝に止まらせる。蜘蛛と話していると、背後からしきりに池の水音が跳ねていた。
 白蓮が浮かぶ池には、金や三色の色鮮やかな錦鯉が優雅に泳いで目を楽しませてくれる。
 池のほとりで、黒狼は鯉に餌を撒いていた。
 先ほどの菓子だ。
 菓子のかけらを求めて、鯉たちは水面に大きく口を突き出しては、ひらりと尾をひるがえす。
 隣に立ってその様子を眺めていた結蘭は、ぽつりと口を開いた。
「私、琵琶を始めようかな」
「どうした、急に」
 黒狼の剣舞はとても見事で、忘我するほど引き込まれてしまった。彼が早朝、庭で秘かに練習を積んでいることは知っている。
 だからこそなにもできない自分が情けない。虫と話せることは結蘭が努力して身につけた技能ではないのだ。生まれながらに持っていたもので、単に恵まれていただけに過ぎない。
「気にすることはないんだぞ。李昭儀はおまえに恥をかかせようとしたんだ。芸など公主のすることじゃない」
「だって、黒狼に迷惑かけちゃうもの。せっかくすごい剣舞を見せてくれたのに、お菓子を投げられるなんて、嫌な思いをしたわよね」
 黒狼は双眸を細めるだけで無言だった。先ほど受けた屈辱に耐えているのだろうと思った結蘭は、慌てて次の言葉を紡ぐ。
「それに、虫と話せる以外のことも身につけたいし。今日みたいに皆に悲鳴上げられて逃げられたら困るしね、虫が」
 鯉たちが波紋を残しながら、各々散っていく。
 黒狼は困ったように、不器用な笑みを見せた。
「やってみろ。とりあえず俺が聴いてやる」
「うん!」
 結蘭の表情が可憐に綻ぶ。それはまるで艶やかに花弁を開く、牡丹のように。
 以来、清華宮には断末魔のような琵琶の音色が、夜な夜な鳴り響くことになる。



 後宮での暮らしにもようやく慣れてきた頃。
 房中術の講義をこっそり抜け出した結蘭は、役人が追ってこないのを確認して安堵の息を吐いた。
「ああ、もういやになっちゃう」
 講義のたびに同じ台詞と溜息ばかりがこぼれる。しかも閨での作法だなんて恥ずかしくて仕方ない。虫とばかり話している公主なんて嫁のもらい手がないだろうから、結婚は諦めているというのに。
 雨上がりの金木犀が雫を含んでしっとりと佇む道を歩み、西門をくぐる。
 時間も余ったことだし、兵営を覗いてみよう。もしかしたら、黒狼の鍛錬を積む姿が見られるかもしれない。
 結蘭は胸を弾ませながら兵営へ赴いた。
 訓練所からは威勢のよい掛け声が響いてくる。禁軍は外敵の侵入や国内での紛争に備えて、日夜訓練を欠かさない。
 公主が堂々と入るわけにもいかず、結蘭は戸口に張りついて中を覗こうとした。
「なにか御用でしょうか」
 はっとして振り向く。
 すらりとした体躯に燦爛たる美貌。声の主である麗人は、腰に倭刀を佩いている。
「すみません。見学したかったんです」
「貴女は蟲公主と名高い結蘭さまですね。はじめまして。私は新月(しんげつ)と申します」
 麗人は完璧な所作で拱手する。丁寧だが、目の奥の光は鋭い。
「新月さまは軍吏なのですか?」