「あの、みなさま。この子が蜘蛛の巣の……」
「きゃあああああああっ」
和やかな宴席に突如現れた不気味な蜘蛛に、甲高い悲鳴が上がる。
妃嬪たちは杯や扇を放り出して後退った。
「大丈夫です。怖くないですよ? この子は毒は持っていません」
「いやああああ、こないでっ」
てのひらに乗せた蜘蛛を持って追いかけると、皆は蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。妃嬪の纏う艶やかな衣がひらひらと翻るさまは、さながら蝶のようだ。
どうしてみんな、こんなに怖がるのかしら。
「この子はなにもしませんー。こわがらないでー」
結蘭はわかってほしくて、園林いっぱいに逃げる妃嬪たちを追いかけ回した。
やがて蜘蛛が、がっかりして袖口に隠れてしまう。
『……もう結構です。やはり私は嫌われ者ですから、人前に出るべきじゃありませんでした』
「ええ、そんなことないわよ。私は蜘蛛さんが大好きよ」
『……ありがとう、結蘭公主』
「じゃあ、清華宮の庭で見せてほしいな。そこなら怖がる人はいないから」
『そう言っていただけるなら、お見せします』
機嫌を直してくれた蜘蛛を大事に抱えて、さて帰ろうとすると、宴の惨状が目に入る。
紫檀の卓はひっくり返り、料理が辺りに散らばり、酒はこぼれてしまっている。
妃嬪たちは遠巻きにして、虫を蔑むような視線をこちらに向けていた。追いかけっこの度が過ぎたようだ。
ただひとり、逃げることもなく悠然と構えていた李昭儀は口端を引き上げた。
「まあまあ面白い見世物だったわね。けれど、こなたの宴が台無しになってしまったわ。どうしてくださるのかしら」
「あの……ごめんなさい」
「謝罪は必要なくてよ。退屈だわ。裸踊りでも見たいわね」
裸踊りと聞いて、結蘭は驚いて身を乗り出した。
「この黄と黒の模様は衣服じゃありませんよ? 虫たちはいつも裸なんです。それにこの子は踊る種類の蜘蛛じゃないんですよ。求愛行動で踊る蜘蛛もいるんですけどね、こう、足をトントンってするんです」
「はあ?」
心底呆れたような李昭儀の声音に、結蘭は蜘蛛と同じようにがっかりしてしまう。村の子どもたちは虫の話を熱心に聞いてくれたものだが、後宮の妃嬪には興味が持てないのだろう。
「失礼します、李昭儀さま」
そのとき、氷塊を落とすような低い声音が這う。
妃嬪たちの訝しげな眼差しが、結蘭の後方に注がれる。
今まで存在を消していたかのごとく気配のなかった黒狼が、慇懃に跪き、頭を垂れていた。
「なんじゃ、おまえは」
扇を広げてかざし、汚いものから避けるような姿勢をとった李昭儀は警戒を表した。役人ではない男が後宮に出入りすることは本来禁止されている。
「彼は私の近侍で黒狼といいます。特別に陛下から許可をいただいて護衛を務めています」
誰も黒狼がそこにいるのに気がつかなかっただろう。結蘭さえも忘れていたほどだ。まるで空気のように。
黒狼は李昭儀を直視しないよう、目線を毛氈に落としたまま告げる。
「我が主は芸事を嗜みませんゆえ、代わりに、私めが剣舞をお見せいたしましょう」
「剣舞か。悪くないわね」
李昭儀はぴしりと閉じた扇の先で、楽師衆の脇を指し示した。
そこでやれ、という指図だ。
流れるような無駄のない挙措で、黒狼は位置に着いた。腰の太刀緒をするりと外し、双手剣を横一文字に捧げる。
鞘から、ゆっくりと剣が引き抜かれる。白銀に輝く刀身の向こうに、黒狼の鋭い双眸が殺気を帯びる。
深淵を思わせる漆黒の眼差しが、結蘭ただひとりに注がれる。
ぞくりと背を震わせて、結蘭は瞬きもせずに見入った。
朱の剣穂が弧を描く。龍笛の音が高らかに吹き鳴らされた。
雅楽に乗せて、黒狼は華麗に力強く舞う。大剣を両腕で軽々と操り、しなやかな舞花を見せたかと思えば、瞬速の斬剣を虚空に描く。
青芝を蹴り上げて躍動する姿態は、猛虎のごとき勇猛さと、胡蝶の優雅さを兼ね備えていた。
楽の奏でる音は最高潮に達する。
ひときわ大きく双手剣を振り被る黒狼は、天高く剣を掲げ、ぴたりと動きを止める。
余韻と共に下ろした剣を鞘に収めると、それまで固唾を呑んで観覧していた妃嬪たちの間から、淡い溜息が漏れた。
こもった熱を逃がすように、結蘭は深く息を吐く。心臓の鼓動がとくとくと律動を刻んでいることに気づき、胸に手をやり呼吸を整えた。
「きゃあああああああっ」
和やかな宴席に突如現れた不気味な蜘蛛に、甲高い悲鳴が上がる。
妃嬪たちは杯や扇を放り出して後退った。
「大丈夫です。怖くないですよ? この子は毒は持っていません」
「いやああああ、こないでっ」
てのひらに乗せた蜘蛛を持って追いかけると、皆は蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。妃嬪の纏う艶やかな衣がひらひらと翻るさまは、さながら蝶のようだ。
どうしてみんな、こんなに怖がるのかしら。
「この子はなにもしませんー。こわがらないでー」
結蘭はわかってほしくて、園林いっぱいに逃げる妃嬪たちを追いかけ回した。
やがて蜘蛛が、がっかりして袖口に隠れてしまう。
『……もう結構です。やはり私は嫌われ者ですから、人前に出るべきじゃありませんでした』
「ええ、そんなことないわよ。私は蜘蛛さんが大好きよ」
『……ありがとう、結蘭公主』
「じゃあ、清華宮の庭で見せてほしいな。そこなら怖がる人はいないから」
『そう言っていただけるなら、お見せします』
機嫌を直してくれた蜘蛛を大事に抱えて、さて帰ろうとすると、宴の惨状が目に入る。
紫檀の卓はひっくり返り、料理が辺りに散らばり、酒はこぼれてしまっている。
妃嬪たちは遠巻きにして、虫を蔑むような視線をこちらに向けていた。追いかけっこの度が過ぎたようだ。
ただひとり、逃げることもなく悠然と構えていた李昭儀は口端を引き上げた。
「まあまあ面白い見世物だったわね。けれど、こなたの宴が台無しになってしまったわ。どうしてくださるのかしら」
「あの……ごめんなさい」
「謝罪は必要なくてよ。退屈だわ。裸踊りでも見たいわね」
裸踊りと聞いて、結蘭は驚いて身を乗り出した。
「この黄と黒の模様は衣服じゃありませんよ? 虫たちはいつも裸なんです。それにこの子は踊る種類の蜘蛛じゃないんですよ。求愛行動で踊る蜘蛛もいるんですけどね、こう、足をトントンってするんです」
「はあ?」
心底呆れたような李昭儀の声音に、結蘭は蜘蛛と同じようにがっかりしてしまう。村の子どもたちは虫の話を熱心に聞いてくれたものだが、後宮の妃嬪には興味が持てないのだろう。
「失礼します、李昭儀さま」
そのとき、氷塊を落とすような低い声音が這う。
妃嬪たちの訝しげな眼差しが、結蘭の後方に注がれる。
今まで存在を消していたかのごとく気配のなかった黒狼が、慇懃に跪き、頭を垂れていた。
「なんじゃ、おまえは」
扇を広げてかざし、汚いものから避けるような姿勢をとった李昭儀は警戒を表した。役人ではない男が後宮に出入りすることは本来禁止されている。
「彼は私の近侍で黒狼といいます。特別に陛下から許可をいただいて護衛を務めています」
誰も黒狼がそこにいるのに気がつかなかっただろう。結蘭さえも忘れていたほどだ。まるで空気のように。
黒狼は李昭儀を直視しないよう、目線を毛氈に落としたまま告げる。
「我が主は芸事を嗜みませんゆえ、代わりに、私めが剣舞をお見せいたしましょう」
「剣舞か。悪くないわね」
李昭儀はぴしりと閉じた扇の先で、楽師衆の脇を指し示した。
そこでやれ、という指図だ。
流れるような無駄のない挙措で、黒狼は位置に着いた。腰の太刀緒をするりと外し、双手剣を横一文字に捧げる。
鞘から、ゆっくりと剣が引き抜かれる。白銀に輝く刀身の向こうに、黒狼の鋭い双眸が殺気を帯びる。
深淵を思わせる漆黒の眼差しが、結蘭ただひとりに注がれる。
ぞくりと背を震わせて、結蘭は瞬きもせずに見入った。
朱の剣穂が弧を描く。龍笛の音が高らかに吹き鳴らされた。
雅楽に乗せて、黒狼は華麗に力強く舞う。大剣を両腕で軽々と操り、しなやかな舞花を見せたかと思えば、瞬速の斬剣を虚空に描く。
青芝を蹴り上げて躍動する姿態は、猛虎のごとき勇猛さと、胡蝶の優雅さを兼ね備えていた。
楽の奏でる音は最高潮に達する。
ひときわ大きく双手剣を振り被る黒狼は、天高く剣を掲げ、ぴたりと動きを止める。
余韻と共に下ろした剣を鞘に収めると、それまで固唾を呑んで観覧していた妃嬪たちの間から、淡い溜息が漏れた。
こもった熱を逃がすように、結蘭は深く息を吐く。心臓の鼓動がとくとくと律動を刻んでいることに気づき、胸に手をやり呼吸を整えた。