「え。まあ……そんなにおっしゃるなら」
「おお、引き受けてくださるか。さすが陛下の姉君であらせられる。指示はわたくしから追って連絡いたします」
「は、はい。よろしくお願いします。呂丞相さま」
「ありがとう、姉上。頼んだぞ」
「え、ええ。任せておいて」
なんだか安易に引き受けてしまった気がしないでもない。
傍らの黒狼は憮然として、重い溜息を吐いた。
「安請け合いだな」
丞相府を出ると、黒狼は呆れたように吐き捨てた。そのとおりなので結蘭は肩を竦める。
けれど、公主としてこれまで国に貢献できていなかったので、役に立てるのなら嬉しい。弟にばかり責務を負わせるのも心苦しいのだ。姉として公主として、結蘭が力になれるのならそうしたい。
ただ、虫と話せることが解決につながるだろうか。
虫は人が思う以上に忙しいものだ。日々の糧を得るのに必死で、時期が訪れたら相方を捜し、子孫を残す。その一生はとても短い。もちろん、万能でもない。人の行動を眺めている余裕のある虫など、いないだろう。
「宮廷のどこかに隠してある闇塩を見つけるといって……もがっ」
突然、黒狼の大きなてのひらで口を封じられる。
その固い感触とあまりの熱さに驚き、結蘭は手足をばたつかせた。
「大きな声を出すな。誰かに聞かれたらまずい」
「あ……そうね。秘密だもんね」
犯人は宮廷の内部にいるのだ。女官や衛士でも、誰かの部下なのである。だから詠帝と呂丞相は宮廷の外に住んでいた結蘭に頼んだのだ。
「そうだ、秘密だ。俺たちだけのな」
てのひらがゆっくりと離される。温かい感触の残滓を唇に感じながら、結蘭は強く頷いた。
「わかったわ。ひみつね」
口の中で魅惑的なその言葉を幾度も転がす。
ひみつ、ひみつ、黒狼との、ひみつ。
踊り出しそうに足元の軽い結蘭は、蟻を踏みつけそうになり、またしてもたたらを踏む。転ばないよう、すでに黒狼は帯の付け根を掴んでいる。用意がいい。
「気をつけろ」
「蟻さんがいたのよ。ねえ、蟻さん。この辺りで塩を見かけなかった? え、砂糖しか興味ない? そうよねえ」
調査は時間がかかりそうだ。結蘭は宮廷内の虫たちに話を聞いて回ったが、有力な情報は得られなかった。
ふわりと、華の香りが園林に舞う。
妃嬪たちを慰めるために造られたという園林には、桔梗や梔子など時季を迎えた花々が競うように咲き誇る。
本日は妃嬪の一人である、李昭儀の主催する宴が催される。
人が多い宴に顔を出すのは苦手だが、公主として招待されて断ってばかりもいられない。闇塩の犯人を突き止めるという役目もあるわけなので、できるだけ宮廷の人を見知っておく必要がある。
「ねえ、黒狼。おかしくない?」
大輪の睡蓮が浮かぶ池のほとりの林道を歩みながら、結蘭は裾をちょいと持ち上げてみる。
妃嬪たちの集う宴ということで、今日は新しく設えた衣を纏ってみた。
鮮やかな碧の上衣には銀糸で刺繍が施され、薄紫の裙子は歩けばさらりと品よく揺れる。高髷は結わないが、小さく纏めた包子に歩揺を挿し、腰まである後髪は流している。
華美は控え、気品を重視したと衣工は絶賛していた。着替えを手伝った朱里は天女のようですと崇める有様だ。自信を持ってもよいのだろうか。
傍らを歩く黒狼は、一瞬だけ目線を向けた。
「悪くない」
「それだけ? ちゃんと見た?」
「ああ、見た」
黒狼に衣の感想を求めても無駄だったかもしれない。
彼は陽光あふれるなかでも、相変わらず黒衣を纏い、黒の長装靴を履いている。この装いが、もっとも落ち着くらしい。
『お美しいですよ、涼しげな色がとてもお似合いだ』
「え、そう? 誰?」
声が聞こえてきたので、首を巡らせる。
『こちらです。妃嬪さまは私の声が聞こえるのですね』
見ると、木の枝に蜘蛛の巣が張られていた。黒と黄の縞の蜘蛛が、話しかけていたのだ。
「おお、引き受けてくださるか。さすが陛下の姉君であらせられる。指示はわたくしから追って連絡いたします」
「は、はい。よろしくお願いします。呂丞相さま」
「ありがとう、姉上。頼んだぞ」
「え、ええ。任せておいて」
なんだか安易に引き受けてしまった気がしないでもない。
傍らの黒狼は憮然として、重い溜息を吐いた。
「安請け合いだな」
丞相府を出ると、黒狼は呆れたように吐き捨てた。そのとおりなので結蘭は肩を竦める。
けれど、公主としてこれまで国に貢献できていなかったので、役に立てるのなら嬉しい。弟にばかり責務を負わせるのも心苦しいのだ。姉として公主として、結蘭が力になれるのならそうしたい。
ただ、虫と話せることが解決につながるだろうか。
虫は人が思う以上に忙しいものだ。日々の糧を得るのに必死で、時期が訪れたら相方を捜し、子孫を残す。その一生はとても短い。もちろん、万能でもない。人の行動を眺めている余裕のある虫など、いないだろう。
「宮廷のどこかに隠してある闇塩を見つけるといって……もがっ」
突然、黒狼の大きなてのひらで口を封じられる。
その固い感触とあまりの熱さに驚き、結蘭は手足をばたつかせた。
「大きな声を出すな。誰かに聞かれたらまずい」
「あ……そうね。秘密だもんね」
犯人は宮廷の内部にいるのだ。女官や衛士でも、誰かの部下なのである。だから詠帝と呂丞相は宮廷の外に住んでいた結蘭に頼んだのだ。
「そうだ、秘密だ。俺たちだけのな」
てのひらがゆっくりと離される。温かい感触の残滓を唇に感じながら、結蘭は強く頷いた。
「わかったわ。ひみつね」
口の中で魅惑的なその言葉を幾度も転がす。
ひみつ、ひみつ、黒狼との、ひみつ。
踊り出しそうに足元の軽い結蘭は、蟻を踏みつけそうになり、またしてもたたらを踏む。転ばないよう、すでに黒狼は帯の付け根を掴んでいる。用意がいい。
「気をつけろ」
「蟻さんがいたのよ。ねえ、蟻さん。この辺りで塩を見かけなかった? え、砂糖しか興味ない? そうよねえ」
調査は時間がかかりそうだ。結蘭は宮廷内の虫たちに話を聞いて回ったが、有力な情報は得られなかった。
ふわりと、華の香りが園林に舞う。
妃嬪たちを慰めるために造られたという園林には、桔梗や梔子など時季を迎えた花々が競うように咲き誇る。
本日は妃嬪の一人である、李昭儀の主催する宴が催される。
人が多い宴に顔を出すのは苦手だが、公主として招待されて断ってばかりもいられない。闇塩の犯人を突き止めるという役目もあるわけなので、できるだけ宮廷の人を見知っておく必要がある。
「ねえ、黒狼。おかしくない?」
大輪の睡蓮が浮かぶ池のほとりの林道を歩みながら、結蘭は裾をちょいと持ち上げてみる。
妃嬪たちの集う宴ということで、今日は新しく設えた衣を纏ってみた。
鮮やかな碧の上衣には銀糸で刺繍が施され、薄紫の裙子は歩けばさらりと品よく揺れる。高髷は結わないが、小さく纏めた包子に歩揺を挿し、腰まである後髪は流している。
華美は控え、気品を重視したと衣工は絶賛していた。着替えを手伝った朱里は天女のようですと崇める有様だ。自信を持ってもよいのだろうか。
傍らを歩く黒狼は、一瞬だけ目線を向けた。
「悪くない」
「それだけ? ちゃんと見た?」
「ああ、見た」
黒狼に衣の感想を求めても無駄だったかもしれない。
彼は陽光あふれるなかでも、相変わらず黒衣を纏い、黒の長装靴を履いている。この装いが、もっとも落ち着くらしい。
『お美しいですよ、涼しげな色がとてもお似合いだ』
「え、そう? 誰?」
声が聞こえてきたので、首を巡らせる。
『こちらです。妃嬪さまは私の声が聞こえるのですね』
見ると、木の枝に蜘蛛の巣が張られていた。黒と黄の縞の蜘蛛が、話しかけていたのだ。