「ふたりは神世から出たことがないからな。俺が夜叉として、この城の主になるずっと以前から仕えてくれているしもべたちだ」
「ということは、柊夜さんのお父さんの代からですか?」
「ああ……そういうことだね」
 柊夜さんは言葉少なにつぶやくと、抱いている悠の頭を撫でた。
 彼は人間の母親を亡くし、先代の父親とは疎遠だと聞いている。詳しいことを訊ねていないけれど、柊夜さんが父親の話題を避ける態度から察するに、仲がよくないのだと思えた。
 お母さんが亡くなった原因が柊夜さんにあるとして、父親に恨まれている――と、多聞天であるおばあさまを交えて聞いたことがあった。
 でもそれは、もしかしたら誤解ではないだろうか。
 まだ会ったことはないけれど、先代の夜叉は悠の祖父にあたるのだ。できればおじいちゃんに孫の顔を見せたかった。そういった家族の喜びに憧れてもいた。
 私には両親がいないから、せめて柊夜さんには父親と和解してほしいと願っている。それとも私がそんなことを望むのは、おこがましいのだろうか。
 けれどそんな思いとは裏腹に、悠が一歳になった今も、柊夜さんから過去のことや、父親がどこでどうしているかという詳しい話が語られたことはない。
 もしかしたら、お父さんは、この城にいるのかしら……。
 後ろをついてくる風天と雷地は黙している。達観した印象を受ける彼らは感情が抜け落ちているようにも見えた。
 ふたりに訊ねてみたいと思っていた私に好機が訪れる。
「それでは、あかりさまはこちらでお召し替えを」
 風天に促され、廊下で柊夜さんたちと別れることになったのだ。
 普段着のワンピース姿なので、神世の城にふさわしい恰好に着替えなければならないらしい。
「俺たちはあちらの部屋で着替えてくる。悠のことは心配ない。好きな着物を選ぶといい」
「それじゃあ、お言葉に甘えますね」
 雷地とともに、男性陣は廊下の奥へ向かった。
 着物ということは、和装なのだろうか。
 結婚式はおろか、成人式でも着物なんて着たことがない。そんな贅沢ができる身分ではないと諦めていたから。
 どきどきと胸を弾ませて、漆塗りの扉から室内に入る。
 そこには眩い輝きがあふれていた。
 いくつもの絢爛豪華な着物が衣桁にかけられている。あちらこちらで胡蝶が舞い、煌びやかな百花繚乱が咲き乱れる輝きに、圧倒されて身をのけぞらせた。
「ひゃああ……綺麗……目が、目が潰れる……」
 風天はさらりと説明した。
「これらのお着物は、夜叉さまが花嫁さまのために選ばれました。どれにいたしましょう」
 柊夜さんが私のために用意してくれたと聞いて、じんとしたものが胸にあふれる。
 私たちは結婚式を挙げていないので、その代わりとして用意してくれたのだろうか。
 口にはしないけれど、花嫁が纏う華麗な打掛や白無垢に密かに憧れていた。ここで美しい着物を着られるなんて思ってもいなかったので、胸が躍る。
 色とりどりの着物は鮮やかな朱や深みのある青、それに爽やかな萌葱色など様々だ。いずれも豪奢な綸子には、花々のほかに鶴や御所車など、麗しい模様が刺繍されている。
 一着ごとによさがあり、眺めているだけでも淡い溜息がこぼれた。
「そうね……これにするわ」
 私はその中のひとつに目をとめる。
 緋綸子に百花繚乱が描かれたその着物は、冴え渡るような紅色をしていた。柊夜さんの瞳と、同じ色だ。
 柊夜さんはとなりの部屋にいるのに、どうしてほんの少し離れているだけで、彼のことを思い浮かべてしまうのだろう。
 真紅の着物の美麗さに目を細めた私は、早く柊夜さんに会いたいと焦がれた。
 そして、私の着物姿を見てほしい。
 できれば褒めてくれたら嬉しいな……なんてね。
 風天が軽く手を挙げると、傍に控えていた数人の侍女たちが音もなく近づく。彼女たちは着替えを手伝ってくれるらしい。私は緋の毛氈が敷かれた場所へ立った。
 甲斐甲斐しく立ち回る侍女たちの手により、襦袢に着替える。衣紋を抜いて、伊達締めをしめた。白練の半襟が大きな姿見に眩しく映る。
 着々と仕上げられていく着物姿に、期待が高まる。
 風天は傍の卓に飾られている髪飾りを確認していた。
「真珠の櫛……螺鈿細工の銀杏型かんざし……黄金の花かんざし……」
 歌うようにつぶやいている風天は、目もくらむような髪飾りをひとつひとつ述べている。いずれも宝玉や繊細な細工が施された高価な代物だ。
 やがて卓の端まで歩いていった風天に、先ほどの疑問をそれとなく訊ねてみた。
「ねえ、風天。あなたはずっと昔から、この城で夜叉に仕えているのよね」
「ずっと昔とはいかなる月日なのかわかりかねますが、わたくしと雷地は夜叉のしもべです。この城とともにあります」
 淡々と述べるので、無機質な人形めいている風天はかなり浮き世離れしているが、彼らは夜叉の城専属の忠実なしもべらしい。
 ということは先代の夜叉である柊夜さんの父親にも、ふたりは仕えていたのだ。
 わずかに緊張しつつ、侍女が掲げた紅色の着物を見つめながら、私は問いを重ねた。
「先代の夜叉は、この城に住んでいるのかしら?」
「いいえ。御嶽(おんたけ)さまは引退されましたので、郊外の屋敷にお住まいです」