運河を渡る舟から町を眺めていた私は、どこか懐かしさを思わせる景色に感嘆の息をこぼす。
「なんだか落ち着く町ですよね。また来られてよかった」
「この一帯は夜叉の居城がある領域なので都会といえるが、町を出ると荒涼とした地が広がっている。あやかしも様々な種類がいるぞ」
「そうなんですね。世界は広いですね」
 現世と同じく、神世の世界も果てしなく広いのだろうと思われる。
 ここは夜叉である柊夜さんが管轄する地区なのだ。穏やかそうなあやかしたちばかりで、町は平穏そのものである。
 柊夜さんが抱っこひもで胸に抱きかかえている悠は、不思議そうな顔をして目に映る景色を見ていた。彼にとっては神世のなにもかもが新鮮だろう。
 やがて運河の向こうに、泰然とそびえ立つ夜叉の居城が姿を現す。
 石造りの城壁に囲まれた壮大な大天守に圧倒される。黒漆塗りの下見板により、城の景観は漆黒だった。
「わあ! さすが夜叉の城ですね。格好いいけど、悪者の居城みたい」
「悪者には違いないな。なにしろ、生娘をかどわかして孕ませた鬼の住む城だ」
「すべて事実なところが恐ろしいですね……」
 ややあって舟は水門に辿り着く。船頭が手を挙げると、やぐらにいた門番が城内へと続く門を開けた。
 水路を通り、船着き場から下船する。
 松明の明かりに照らされた階段を上ると、門の向こうに広大な城下町が見渡せた。
「城内はこちらだ。広いからあかりが迷わないよう、しもべをつけよう」
 柊夜さんとともに、城内へと続く重厚な扉へ近づく。
 するとそこには、ふたつの石像が道の両脇に鎮座していた。
 なんとなく足をとめた私は石像を見比べる。
 まるで対のように造られた像は、小さな子どもの姿をしている。和装を纏っており、顔立ちがとても繊細に造形されていた。今にも動きだしそうな美しさだ。
 柊夜さんは石像に向かって、声をかける。
「ふたりとも、命を宿せ」
 夜叉の言葉に呼応するかのように、冷たい石像は柔らかな脈動を発する。
 とくん、と小さな鼓動が響いた。
 彼らは手足を動かし、瞬きをする。身につけていた着物の袂が、ゆらりと揺れた。
「えっ……⁉」
 驚いた私は目の前で起きた奇跡に瞠目する。
 ふたつの石像から変化した子どもは彩られ、命を得たのだ。
 まるで小さな天女のように裾をひらりとさせたのは、女の子だった。
「おかえりないませ、夜叉さま」
 もうひとりの水干を纏った男の子も、慇懃に挨拶をする。
「はじめまして、夜叉の花嫁さま」
 まるで双子のように面立ちが似ている彼らは漆黒の髪を結い上げ、金色の双眸を煌めかせた。
「ふたりは夜叉の眷属だ。ここで城を守るのが役目で、このように行動することもできる。――両者とも、あかりに挨拶したまえ」
 柊夜さんの言葉に、女の子は着物の褄を取り、すっと頭を下げた。
「わたくしは風天(ふうてん)と申します。よろしゅう、あかりさま」
「わたしは雷地(らいち)です。城のことはわたしどもにお任せあれ」
 男の子も右手を胸に当て、同じように頭を下げる。
 どうやらふたりは石像のあやかしらしい。城の守護者として夜叉に仕えているのだ。
 子どもに見えるふたりだけれど、醸しだす雰囲気は落ち着いている。無表情なのでまるで人形のようだ。あやかしなので見た目通りの年齢ではないのだろう。
「初めまして。あかりです。どうぞよろしく」 
 てのひらを差しだすと、ふたりは同じタイミングで瞬きを繰り返していた。
 はっとして、彼らが反応できなかった理由を察する。
 ふたりいるのに片手のみを出されたら、握手する順番に困るのかもしれない。私は慌てて、もう片方の手も差しだした。
 それでもてのひらを凝視しているふたりに、柊夜さんが説明する。
「風天、雷地。あかりの手に触れるんだ。現世では挨拶として、手と手をつなぐ行為をする」
「わかりました」
「恐れ多いですが、それでは失礼いたします」
 どうやら握手を理解されていなかったようだ。
 神世では鬼神を頂点とする上下関係が厳しい社会なので、彼らにとって夜叉とその花嫁には主人のように接するという常識があるのかもしれない。
 すうっと手をあげた彼らは、それぞれ私の指先に一瞬だけさわると、すぐに身を引く。
「ありがとうございました」
「ご加護がありますように」
 まるで仏像に触れた信徒である。私は御利益のある神でもなんでもなく、ふつうの人間ですが……。
 微苦笑を浮かべた柊夜さんとともに、みんなで扉をくぐり、城内へ入る。