「やつの名を何度も口にするな。羅刹との仲を疑っているわけではない。やつは俺と同じ鬼神であり、きみは俺の妻だ。それだけだ」
 言いたいことがまったく伝わらない。
 疑っていないのなら、私への不満を表現しないでほしいものだ。
「柊夜さんは勝手なことばかりするのに、私にはいっさいの自由を認めませんよね」
「なんだそれは。羅刹と恋仲になりたいとでも言いたいのか?」
「そんなこと言ってませんから! 私の意見も聞いてほしいと言ってるんです」
 つい、声を荒らげてしまう。
 柊夜さんは疑っていないと言いながら、私を信用していないのだ。それならはっきり疑っていると言って私から話を聞きだせばいいのに、こじれるような言動をするから、こちらも苛立ちを募らせてしまう。
 眉を寄せた柊夜さんは、たしなめるように声を低めた。
「大声を出すな。悠が起きるだろう」
 これだ。すべて私が悪いというベクトルへ帰結させる話し合いの持っていき方が、より鬱屈を増幅させるのである。
 肩を震わせた私は、後ろのスペースを振り返って見た。
 すやすやと、悠は気持ちよさそうに眠っている。布団に射し込む陽の光が温かそうだ。
 柊夜さんに怒鳴り返したい衝動を、悠のために抑えた。
 でも耐えきれず、眦から涙がこぼれ落ちてしまう。目元を押さえた私はソファから立ち上がる。
 寝室に駆け込んで扉を閉めると、あふれた雫が頰を伝い下りた。
 そうすると怒りは萎み、深い落胆が胸に広がった。
 ボックスティッシュを引き抜き、崩れるようにベッドに腰を落として涙を拭き取る。
 私は、なにに怒ったのだろう……。
 本当は柊夜さんと落ち着いて話し合いたいのに、それができない。うまく言えない。柊夜さんが言わせてくれないからだと、彼のせいにしてしまう。
 柊夜さんは、仕事をしたほかに育児や家事もやってくれる。私にはもったいないくらいの働き者の旦那様だ。
 私も柊夜さんに優しくしたいと思っているはずなのに、些細なことからケンカに発展してしまうのはなぜだろう。
 カチャリ、と扉を開く小さな音が鳴った。
 ティッシュで目元を覆っていた私の耳に、柊夜さんが扉を閉じて入室するかすかな物音が届く。
「きみは俺と話したくないだろうが、俺は話したい」
「……はい」
「俺の気持ちを明確に話そう。ただし、きみを抱きしめさせてくれ。そうしていないと、まともに話せないから」
「……はい」
 どうしたいのかわかりにくけれど、歩み寄ろうとしてくれている柊夜さんに応えたいから、頷きを返す。
 すると柊夜さんはベッドに腰かけている私の傍に座り、ぴたりと体を寄せてきた。
 長い腕が私の体に回され、包み込まれる。強靱な胸が密着した。
 私の髪に頰を寄せた柊夜さんは、深みのある声音を紡いだ。
「はっきり言おう。俺は、嫉妬している。きみをほかの男に取られはしないかと、心配でたまらないんだ」
 瞠目した私は顔を上げた。
 柊夜さんが、そんなことを考えていたなんて。
 きつく私を抱きしめて胸のうちを吐露する彼はまるで幼い子どものようで、憐憫が芽生える。私は微苦笑をこぼした。
「取られるわけないですよ。私なんかと結婚してくれるのは、柊夜さんくらいです」
「その無自覚が怖い。きみは優しくて可愛らしい。それに子どもを愛してくれる女性だ。そんなきみを嫁にしたいと、男なら誰でも思うだろう」
「自分が産んだ子どもですから、愛するのは当たり前ですよ……」
「そうか……。そう言ってくれて、嬉しいよ。きみを好きになって、よかった」
 しばらく、ふたりで無言のまま抱き合っていた。
 柊夜さんの体の重みが愛おしい。安心して、身を預けられる。
「私も、柊夜さんのことが大好きです。あなたは私の大事な旦那様ですから」
 あれほど苛立っていたのに、柊夜さんの体温を感じたら、すんなりと心の奥で思っていることが引きだせた。
 私の髪に触れていた唇が下り、耳朶をなぞる。ちょっと、くすぐったい。
「それを聞いて、安心した」
 心からの安堵の声が漏れる。
 彼も不安だったのだ。
 柊夜さんのこじらせた愛情をうまく受け取れないこともあるけれど、素直になれてよかった。
 私の胸が、桜の花弁を浮かべた水面のようにゆるりとほどける。
 ふと柊夜さんは甘い呼気を耳元に吹き込む。
「あかりは、結婚式に憧れているのか?」
「それは……人の結婚式を見たら、いいなぁと思いますよ。私たちは結婚式を挙げてないのに妊娠して籍を入れたから、順序通りにいかなかったことがコンプレックスなんですよね」
「なるほど」
「それに柊夜さんは、私にプロポーズもしていないでしょう?」
「プロポーズはしているな。”結婚しよう“と言っただろう」