夏休み中、ずっと夜更かしして朝の九時か十時に起きる生活をしていたので、新学期は朝からバタついた。スマホにアラームをセットしていたけれど、無意識のうちにスヌーズしてしまって、いつのまにかぎりぎりの時間。

大慌てで顔を洗い、歯を磨き、髪を巻いて軽くメイクをする。眉毛とアイラインとマスカラ。中学生の頃は、メイクなんて一部のおしゃれな子だけがするものだと思ってた。

でも四月から高校に上がって属した今のグループでは、メイクして登校するのは当たり前。本当は面倒臭いけれど、友だちに合わせるためには仕方ない。


「花音―、早く朝ご飯食べちゃわないとバスに乗り遅れるわよ」

「わかってるー!」


 半分怒鳴り声で答えながら、下睫毛にもマスカラを塗る。

 朝食の席でお父さんが新聞を広げながらコーヒーを飲み、おばあちゃんがヨーグルトを口に運んでいた。お母さんはキッチンとダイニングルームを往復しながら、てきぱきと動いている。


「まったく花音ってば、夏休み中ダラけた生活してるから起きれないのよ」

「わかってる、今日からちゃんとするって」


 お母さんの小言を右から左へとスルーし、高速でトーストを齧る。お父さんが新聞をどけ、顔を覗かせた。


「花音は今日から、バス通学か」
「そうだよ」
「学校まで何分かかるんだ?」
「たぶん、五十分くらい」
「そうか。前の家からだったら、電車でたったひと駅だったのにな。高校、遠くなっちゃったな」
「これぐらい、別にいいよ」


 同じ町内とはいえ前の家と今の家まではだいぶ距離があるから、通学時間も自然と長くなる。朝はぎりぎりまで寝ていたいからいちばん近いところ! と、安易な理由で決めた高校だけれど、こうなると意味がない。バス停までは歩いて十分くらいかかるから、家を出たらダッシュしなきゃだ。


「花音、急ぎなさいよ。おばあちゃんももうすぐデイケアの車来るから、食べ終わったら早く支度して」


お母さんが洗いものをしながら言う。わたしは言われなくてもわかってるって! と答える代わりに口の中のトーストをほぼ丸のみして牛乳で流し込む。





今の家は町内でも寂れた山間部にあるから、バスは一時間にたった三本。乗り遅れたら遅刻確定だ。ぎりぎりの時間に家を出てバス停まで走ると、幸いにも時間までまだ二分あった。他にバスを待つ人はいない。


 定刻通りにやってきたバスに乗り込み、奥の席に座る。バスはゆるゆると走りながら時々停まり、その度に乗客が入れ替わる。朝の時間帯だから、わたしと同じくらいの制服姿の高校生も多い。バスの振動に身を委ねながら、グループラインをチェックする。

里美からも鈴子からも茉奈からもメッセージは来ていない。誰かにメッセージを送る必要さえなければ、スマホを見ている理由もない。スマホをカバンに仕舞って、外の景色を見る。

引っ越した家がある山間部から、景色は徐々に街中のものに移り変わり、住宅街や商店が多くなってくる。終点近くが、高校にいちばん近い停留所だ。


 わたしと同じ何人かの制服に続いて、バスを降りる。いつも駅から歩いてたから、バス停からだと通学路が違う。でもこっちの方が、遥かに学校まで近い。朝の陽光に目を細めながら歩いていると、ふうと欠伸が込み上げてきた。やっぱり、ちょっと睡眠不足だ。


「花音―! ひっさしぶりー!」


 校門をくぐったところで、後ろから不意打ちに飛びつかれる。声の主は里美。いつもつるんでいるメンバーの一人で、高い位置で括ったポニーテールが目印の快活な子だ。


「里美、久しぶり。夏休み中、全然会えなかったね」
「八月の初めにみんなでプール行ったきりだったっけ? ほんと、久しぶりー! 懐かしいー!」


 この子の語尾にはやたらと「―」と「!」がつく。そんなに元気で疲れないのかと思うほど、いつもテンションが高い。


「花音は夏休み中、何してたのー?」

「後半は引っ越しで慌ただしかったからな、その準備ばっかり。部屋、やっと片付いたよ」

「そっかー花音、引っ越したんだっけ。たしか、おばあちゃんが倒れたとかー?」

「そう、脳出血で。それでリハビリしたんだけど上手くいかなくて、今までみたいに一人で住まわせるの不安だからって、うちの家族と一緒に住むことになったの」

「そっか。花音も大変だねー!」


 大変、という割にはずいぶん軽い言い方だった。わたしはそうでもないよ、昼間はデイケアもあるし、と薄く笑いながら付け加える。里美に引っ越しや介護の大変さなんて説明したって、わかってもらえるわけない。里美は頭の中身の九十パーセント以上、彼氏とおしゃれで占められてる、そんな子だから。


「花音、里美、おはよー!」

「二人とも久しぶりー!」


 教室に入ると既に登校してきていた鈴子と茉奈に迎えられた。机自分のカバンを置いて、いつもの定位置へ。窓際の里美の席の周辺が、休み時間のわたしたちのポジションだ。


「鈴子、どうしたの? 今日の巻き髪、気合入ってんじゃーん!」


 里美の言う通り、鈴子のロングヘアはいつもよりボリューミーで、パーマでもかけたみたいだ。えへへ、と鈴子が笑う。


「今日放課後、たっちゃんとデートなんだ」
「おー。いいねぇ。まぁ、あたしも今日は放課後みっくんとデートなんだけどねー!」
「里美も鈴子も、彼氏と仲良くて何よりだね」


 そう言う茉奈の声は、心なしか少し冷めている。四月で高校生になった途端、彼氏ができた里美と鈴子は、教室にいてもいつも恋愛の話ばかり。そのことを茉奈は、たぶんあまりよく思ってない。

それでいて時々こんなふうに嫌味ったらしい言葉を吐くから、いつ茉奈がこの平和な雰囲気をぶち破るひと言を発するか、わたしはびくびく警戒している。


「ねー! お陰様であたし、昨日三ヵ月記念日だよー!」


 里美が声を大きくする。おぉ、と鈴子が大袈裟な反応をする。


「三ヵ月記念日、何かした? 何か特別なデートとか、プレゼントとか」
「デートはいつも通りだよ、みっくんの家で家デート。プレゼントはあった。このネックレスー!」


 と、ブラウスの胸元からちらりと覗くシルバーのハートを満面の笑みで指さす。ハートの真ん中にはピンクの石が光っていて、高校生のお小遣いで買ったものだから大して高いものじゃないんだろうけれど、彼氏と無事三ヵ月記念日を迎えて意気揚々としている里美がつけていると、特別な価値が宿っているように見えた。


「いいなぁー! あたしもそういうの欲しー!」

「鈴子は来月で三ヵ月でしょ? その時、買ってもらっちゃいなよー!」

「えー、あたしからおねだりするのー?」

「いいんだって、遠慮なんかする必要ない! それが彼女の特権! 付き合ってるんだからプレゼントのひとつやふたつ、当たり前でしょ、ね?」


 なんて、なぜか彼氏いない歴イコール年齢のわたしと茉奈のほうを見て言う。茉奈はあからさまにムッとした顔をするので、心臓がばくり、とひとつ嫌な鼓動を立てる。


「当たり前かどうかはわからないけど。もらえるものはもらっといた方がいいんじゃないの?」

「そうだよー! プレゼントくれるっていうのは、大事にされてる証拠だと思うし! 里美のそのネックレス、可愛いねー」


 茉奈の素っ気ない言葉を慌ててフォローする。幸い、里美も鈴子も気を悪くした様子はなくて、ホッとする。


「でしょ? まぁ、ティファニーのパクリなんだけどねー! それでももらえただけ、嬉しいっていうか。こういうのはお金より愛でしょ、愛―!」

「でもいつか、たっくんに高いものプレゼントしてほしいなぁ。それこそ、ティファニーとか!」

「そ、男から女へのプレゼントと言えばやっぱティファニー! まだ無理だけど、憧れちゃうよねー!」


 まだ見ぬティファニーにうっとりと思いを馳せる里美と鈴子を、茉奈は見下したような顔で見つめている。


 休み時間の会話は、いつもこんな感じだ。会話の主導権は「彼アリ」の里美と鈴子にあって、「彼ナシ」のわたしと茉奈はそれについていく感じ。恋愛に浮かれている里美たちを茉奈が実はよく思ってないのはわたしには丸わかりで、その事を里美と鈴子に気付かれないよう、精一杯フォローする。


 本当の気持ちは、誰にも言えない。


 第二次性徴が始まり、女の子同士の人間関係が複雑になり始める小学校の高学年ごろからいつも、こうだった。浮かないように。嫌われないように。ハブられないように。

仲良しグループの中にいても、いつも身体を丸めたハリネズミみたいに神経を尖らせている。友だちから冷たい視線を向けられるのは、わたしにとって死を意味する。それくらい、思春期の女の子同士の人間関係って重要なものだから。


 でもそうやって本当の気持ちを偽り、自分に嘘をつき続けていると、いつしか友だちと話すことが楽しみじゃなくて、義務感のようなものになってしまう。ハブられたりいじめられたりして、教室の隅っこで黙々とお弁当を食べる昼食タイムなんてごめんだから、仕方ないんだけど。


 里美と鈴子は、そんな事ないんだろうな。いつも自分の言いたい事をばしばし言って、時々ふざけて。でも茉奈は、どうなんだろう? 茉奈は正直、四人でいる事を快く思っていないんじゃないだろうか? 本当はもっと気の許せる相手とつるみたいんじゃないのか。


 少なくともわたしは、こんないつでも神経をぴりぴり張りつめさせている人間関係じゃなくて、もっと何でも言い合える親友が欲しい。互いの汚い部分も情けない部分も惜しみなく見せあって、一緒に悩みや不安を共有出来て。一緒にいる事が、いつも心地よくて。


 そんな親友、いつか、わたしにできるのかな……?


「やべ、チャイム鳴った」


 鈴子が言って、わたしたちはそれぞれの席へと散って行った。やがて担任の先生が入ってきて、朝のホームルームが始まる。


 心の表面だけが明るくて、内側はぼんやりくすんでいるいつもの学校生活が戻ってきた。