日没まで段ボールを開けては中身を出す作業を繰り返した。使い慣れたベッドと本棚と学習机を運び込むと、昔はおばあちゃんが使っていたというこの部屋は新しいわたしの部屋になった。

お気に入りの漫画や本は本棚へ。冬物の洋服はクローゼットの奥、夏物の洋服はクローゼットの手前へ。無心に作業に打ち込んでいると、夕飯の前には山と積まれた段ボールは半分くらいになった。このペースなら、夏休みが終わる前には片付くだろう。


 夕飯はお父さんとお母さんの希望通り、天ぷら蕎麦だった。お父さんは買ってきたビールまで飲んでいる。天ぷらの香ばしい匂いがツンと食欲を刺激する。海老もイカもかぼちゃも、すごく美味しい。労働の後のご飯は細胞ひとつひとつに栄養分がじわじわ染みわたる。


「懐かしいわね、この部屋から見渡す庭の景色。ヒマワリはもう枯れちゃったけど、コスモスがもう咲いてる」


 天ぷら蕎麦を啜りつつ、目を細めて言うお母さんの視線の先でオレンジのコスモスが月明りに照らされ、花を広げている。考えてみれば、ここはお母さんが子どもの頃から育った家なんだ。実家に戻ってきた、という感慨みたいなものがあるのかもしれない。


「この家って、築何年なの?」


 わたしが訊くと、んー、とお母さんが頭を捻る。隣で、小鳥のようにちょこちょこと天ぷらを齧っていたおばあちゃんが言う。


「私が子どもの頃からここに住んでたから、築七十年くらいだね。何度もリフォームはしてるけど」

「築七十年!? それって、地震とか大丈夫なの!?」

「大丈夫ではないだろうねぇ」


 と、おばあちゃんはカラカラ笑う。顔が引きつってしまったわたしに、お母さんが言葉を継ぐ。


「大丈夫よ、後で本棚とか、大きい家具はお父さんに固定してもらうから」

「そんな事しても、地震で家自体が潰れちゃったら無理じゃない!」

「花音が思ってるより、この家は丈夫だよ。家を守ってくれる神様がいるからねぇ」


 おばあちゃんがのんびりと言った。


「家を守ってくれる神様? 何、それ?」

「文字通りの意味だよ。大事に使われてきた古い家には、そこを守ってくれる神様が宿るもんさ」

「ふーん」


 半信半疑で相槌を打つ。神様なんて大きな存在がこんな小さな家に棲みつくなんて、そう簡単に信じられるわけがない。いたとしても、せいぜい座敷わらしあたりがいいところだろう。


「花音、食べたらお風呂入っちゃいなさい。もう沸かしてあるし、タオルの準備もしてあるから」

「わかった」


 お母さんに言われた通り、食事を済ませるとすぐお風呂に入った。慣れない浴室は、おばあちゃんのために手すりをつけたこともあり手狭だ。でも湯舟は、今まで使っていたものより広い。古い家だけどリフォームされて、ちゃんと追い炊き機能もついている。一見したところでは、築七十年も経っているとは思えない家だ。


 パジャマに着替えて自室に戻る。今日はもう、じゅうぶん働いた。頭のてっぺんから足の先っちょまでくたくた。ベッドに寝転がるとずっしり疲労感が襲ってきて、わたしはそのまま目を閉じた。今日はもう、このまま寝てしまおう。荷ほどきの続きは、明日。大丈夫、このペースなら明日と明後日で作業は終わるはず。


 電気を消し、タオルケットを身体にかけて目を閉じる。まもなく微睡みがやってきて、夢と現実の境目の中、妙な違和感があった。真っ暗闇の中なのに、誰かにじっと見られているような、変な感じ。

違和感はだんだん大きくなってきて、やがて眠気も吹き飛んだ。目を開けて身体を起こし、辺りを見渡す。当然、誰もいない。ほっとして身体を再び横たえ、目を閉じると、まもなくしてまた違和感を覚えた。変だ。誰もいないはずなのに、誰かがいる。誰かがわたしのことを、じっと見ている。


 おばあちゃんの言葉を思い出す。大切に使われてきた古い家には、家を守ってくれる神様が宿る、と。この視線の主は、神様。それとも、もっと低級な、オバケ的なもの……?


「あぁもう!」


 怖くて、違和感が鬱陶しくて、わたしは頭まですっぽりタオルケットを被った。眠ろうとしたけれど、暗闇の中の得体の知れない視線はびっちり付き纏って離れてくれなかった。