突然、空気を裂くような呼び声が耳朶を打った。

 反応するより先に、頭にずしっと重みを感じて、視線は下に向く。


「伊集院さん、すいません。うちの犬、そろそろ連れて帰りますね」

「え、犬……?」

「じゃ、失礼します」


 頭上で勝手に進められていく会話。
 頭に置かれた手はそのまま乱暴に私の腕を掴んで、まるでリードを引っ張るかのように私を先行した。

 見上げた彼の表情は硬く、耐え切れずに顔を背ける。


「……誰が犬ですか」


 手始めに軽口を叩いた。通常運転への戻り方が分からずに、そうするしかなかったのだ。


「うるせえ。お手」

「教えられてないですよ、そんな芸」


 意外と普通にやり取りが再開できそうだと思ったけれど、やはりどこか憂う部分があるのだろうか。彼は私の言葉に、更に乗っかってくることはなかった。

 私は彼のことを何も知らない。最初はそれが不安だった。
 でも今はちょっと違う。むしろ、知らない方が――彼が真面目な顔で考え込んでいない方が、安心できるような気がするのだ。


「伊集院さん、おかずのお裾分けしてくれるそうです」

「は?」

「さっきは、ずっとそのことを話してました」


 私は何も聞いてない。聞かない。彼が望むのなら、無干渉な同居人を半年間やってのける。
 密かに忍ばせた意図は、果たして届いただろうか。それは断言できないけれど、彼が僅かに目尻を和らげたから、きっと伝わったんだと思う。