え、と。自分の口から気の抜けた声が漏れる。
先輩は顔だけ後ろを向くと、存外落ち着いたトーンで確かめた。
「見たんだろ?」
彼が指しているのは、私の部屋の真正面にある、あの部屋のことだろう。
迷ったものの、ここで私まで誤魔化すのは違うと思い、恐る恐る頷いた。すみません、と小さく謝罪をくっつけて。
先輩は、しばらく黙り込んだ。その表情はどこか物憂げで、いつもの彼とは異質だった。
「……あそこは、俺の父さんが使っていた部屋だ」
長い空白の後、唐突に彼が言った。
姿勢を正す気配。どうやら、大事な話が始まるようだった。
「元々ここで、母さんと父さんと、三人で住んでいた。五年前に両親が離婚して、母さんが出て行って……それから父さんと二人で、ずっと暮らしてた」
初めて語られる彼の境遇。それをどういった感情で聞けばよいのか、正直分からなかった。彼が今、どんな気持ちで話しているのか。そもそも彼は今、幸せなのか。それを知り得なかったからだ。
でも、一つだけ。細かい事情は違えど、私も彼と同じだったのだ。
両親の離婚。母との暮らし。それを経験して、私は今ここにいる。
「お前の母さんと俺の父さんは、大学時代の同期だった」