公兎鏡を知るは、月兎宮の主である公兎妃と公兎龍に仕える占師たちである。だが麗陽に聞いたところで立場を偽るために口を閉ざすだろう。
 月娥は占師の元に向かった。
 外廷の外れに公兎を祀った堂がある。占師らは月娥を快く迎え入れ、占師長である白髪の老宦官の前へと案内してくれた。部屋には公兎龍の像や祭壇がある。月娥は公兎龍の像に拝礼した後、占師長にも拝礼した。

「月兎宮から参りました。燕月娥と申します」
「ほう。あの月兎宮からとな」

 占師らは何度も公兎妃への謁見を申し入れていた。彼らは、公兎妃の真偽を確かめる儀を執り行うべきだと主張していたが、それは黄涼王に遮られ、さらには公兎妃からも疎まれてしまったのである。ここで月兎宮の宮女である月娥がきたのだから占師らは驚いている。

「さて月娥殿、何用でここへ?」
「事情は明かせませんが、公兎鏡を探しています」

 老いた占師長の白眉がぴくりと跳ねた。彼はあごひげを撫でながら月娥をじいと見る。

「……それは公兎妃に命じられてですかな?」
「いえ。公兎妃ではなく、わたしが探しています。公兎鏡は真実を映すと聞きました。それがあれば偽りを曝くことができるのでしょう」

 月娥の返答に部屋の隅にいた占師が息を呑んだ。占師長は変わらず、月娥を見定めているようだった。月兎宮からきた月娥をどこまで信用してよいものか、判断に悩んでいるのだろう。
 互いに無言が続く。その時、額の印がきんと熱くなった。額を押さえようとするよりも早く、風が吹く。ここは部屋の中だというのに、公兎龍の像から一陣の風が駆け抜けた。
 月娥の前髪が揺れる。その風に前髪が揺らされたほんの一瞬を、占師長の瞳は見逃さなかった。驚きに目を丸くした後、手をあげる。部屋の隅にいる占師を呼んだのだ。

「……持ってきてもらえるか」

 占師は動揺を隠しきれない様子だったが、占師長の落ち着いた振る舞いを信じたのか一礼した後、部屋を出て行った。
 その足音が消えてから占師長は口を開く。

「燕月娥殿でしたな」
「はい」
「我々は……この黄涼国が衰退していくのだろうと考えております」

 先ほどよりも穏やかな、しかし覚悟を決めたような声音だった。

「黄涼王は変わられてしまった。公兎の娘の真偽を問わずにあれを公兎妃に認め、国を傾かせている。このような軽視が続けば、いずれ審判が下るでしょう。公兎龍は花堯を守るもの、花堯の民を苦しめる者を見逃しはしない」

 占師長はそう言って、柔らかに目を細めた。月娥を見据えて微笑んでいる。
 公兎伝承を調べ上げた占師たちは、月娥の額にある印がどんな意味を持つのかわかっている。占師長は真の公兎の娘が誰であるかに気づいたのだ。
 木箱を持った占師が戻ってきた。占師長はそれを受け取ると、月娥の前で蓋を開く。
 入っていたのは片手に収まるぐらいの大きさをした、丸い鏡だった。持ち手や装飾などは施されていない。磨き上げられて曇りのない鏡である。

「あの公兎妃に渡してはならぬと隠しておりました。これをどうぞ」
「ありがとうございます。お借りします」
「いえ、これはあなたのものですよ。燕月娥殿――いずれその呼び名も変わる時がくるのでしょうが」

 そして占師長は立ち上がり、月娥の前で膝をついた。

「月娥殿。どうか、その慧眼にて、花堯の民をお守りください」

 額の印が痛む。けれど首の裏に痛みは走らないことから、占師長の心のままを述べている。国のことだけでなく、花堯の民すべてを案じているのだ。
 月娥は木箱を抱きかかえると、拝礼した。占師長、そして公兎龍の像に。

(虐げられるばかりの人生だと思っていたけれど――)

 公兎鏡の収まった木箱はずしりと重たい。しかし温かく、力強い何かを秘めているようだった。

(わたしは花堯の民を救いたい)

 決意を灯した木箱を手に、堂を出る。
 月娥はうつむいてはいなかった。蒼霄に手を添えられていた時と同じように、前を向いている。



 月娥は麗陽に呼び出された。何でも蒼霄宛の文があるという。文には蒼霄に会いたい等の想いを綴られているのだろう。

「ここにわたしほど美しい者はいないけれど、蒼霄の目に留まってしまったら大変だから、あんたが適任よ」

 開いた扇で口元を隠してはいるが、麗陽は月娥を小馬鹿にして嗤っていた。痣持ちであればその目に留まることはないと考えて月娥を選んだらしい。

「わかりました。届けて参ります」

 しかしこれは月娥にとって好都合でもあった。公兎鏡が見つかったことを蒼霄に報告できる。

 陽は沈み、辺りが暗くなっていく。文を収めた箱と公兎鏡の木箱を布で包んで抱えると、手燭を下げて月兎宮を出る。
 今日の蒼霄は外廷にいた。内廷と外廷を切り分ける大門をくぐった後、精鋭兵団に割り当てられた部屋に向かう。

「失礼します」

 陽が沈んだこともあってか、部屋には数名しかいなかった。その中に蒼霄もいる。

「月娥か。どうした」
「公兎妃からの文をお持ちしました。それと、少しお話が」
「わかった――少し出てくる。お前たちはここにいてくれ」

 意図を読み取ったらしい蒼霄は、部下に待機を命じて立ち上がる。部屋にいるのはよく蒼霄と共にいる部下たちだ。月娥のことをどこまで知っているのかは定かではないが、数名は月娥を見やり深々と頭を下げた。

(地図……碧縁国との戦争が近いんだ……)

 (つくえ)には地図が広げられていた。ざっくりと筆を走らせて描いた地形は黄涼国と碧縁国の国境を示しているのだろう。そこに朱や蒼で塗られた木製の駒が並べられている。どのような布陣で迎え撃つか話し合っていたのかもしれない。

 蒼霄の後に続いて部屋を出る。どうやら人気のない、外廷の外れまで向かうようだ。その途中で蒼霄は言った。

「あれは俺の部下でな、精鋭兵団でも特に優秀なやつらだ」

 部屋に残してきた者たちのことだろう。蒼霄は彼らに全幅の信頼を寄せているようだ。
 しかし蒼霄はにたりと笑みを浮かべて、振り返る。月娥の反応を確かめながら揶揄うように告げた。

「だからあれも<黄涼王に仕える者だ>」

 ずきりと、首の裏が痛む。蒼霄が嘘を吐いたのだ。
 月娥が咄嗟に首裏を手で押さえたその反応から、嘘だと認識したことを確かめたのだろう。蒼霄は愉快そうに口元を緩める。

「ははっ、さすがだな。それほど良い反応をするのならあえて嘘を吐きたくなる」
「……悪趣味です」
「いいだろう。お前にそうやって睨まれるのも愉快だ」

 痛みに耐えながら蒼霄を睨むが、本人には響いていない。変わらずニタニタと笑みを浮かべているだけだ。

(でも、俺の部下という言葉は偽りではなかった。<黄涼王に仕える>という言葉だけが嘘――ということは)

 そもそも蒼霄は不思議な点が多い。出会った時から彼の発言に嘘が含まれていた。<黄涼王に仕える武官>でありながら、しかしそれは嘘である。忠誠を誓っているようで実は違うのかもしれない。

(では誰に忠誠を誓っているのだろう)

 再び歩き出した蒼霄についていきながらも、胸中は不安が渦巻く。名前でさえ偽りであった蒼霄を信じて良いのだろうか。

(でも、民を思って苦しそうな顔をしていた。それは真実)

 馬で連れて行ってもらった時の、あの時の蒼霄の表情は紛れもない真実であると思った。
 月娥はもう一度蒼霄の背を見やる。偽りがあるとしても、あのような表情をした彼を信じたい。

 あたりに人の気配がなくなってから蒼霄は足を止めた。

「それで、用とは」

 公兎妃の文は蒼霄にとって、頭に留め置くほどの案件ではないのだろう。彼は月娥の荷物をちらりと見やっていた。

「鏡を見つけました」
「なるほど――頑張ったな」

 蒼霄は柔らかに微笑み、月娥の頭を撫でた。公兎鏡を見せようと持ってきたのだが、取り出す前に蒼霄が制した。

「その鏡は、お前が持っているといい。いずれ使う時がくる」

 まるで未来を予見するような物言いである。月娥は首を傾げた。

「……どういうことですか」
「いずれわかる。それを使わざるを得ない状況を、必ず俺が作る」

 言葉に偽りはない。蒼霄は穏やかなまなざしを向けていたが、瞳の奥には確かな決意があった。頭を撫でていた手は月娥の肩に落ちる。その手は温かく、信じて欲しいと告げているようでもあった。

「一時、俺は姿を隠す。だが必ずお前を迎えにくる」
「姿を隠すって……碧縁国との戦が迫っているこの時にどうして」
「だからこそだ。多くは語らぬ。だが俺を信じてくれ」

 蒼霄はその場に膝をついた。月娥を見上げる。
 あたりはすっかり陽が落ち、暗くなっている。ふたりを照らすのはまもなく満ちるであろう月の明かりだけ。

「月娥――なるほど、月から落ちてきた神のような名だ。月に住まうと聞く公兎龍のような名でもある」

 彼の瞳に映るは月娥と、その後方でぽかりと浮かぶ月だ。それを見据えて微笑んだ後、彼は月娥の手を取る。

「本物の、公兎の娘。花堯の地を思う心優しいお前を埋もれさせやしない。必ず、この地にお前が本物であると認めさせる。お前以外が公兎の娘だったなら、きっとここまでしなかった。お前だからこそ、必ず俺が迎えにくる」

 月娥の手に柔らかなものが触れた。忠誠を誓うように手の甲に口づけを落としたのだ。皮膚に蒼霄の吐息がかかり、唇の感触が焼け付いている。月娥は一瞬にして顔を赤らめたが、それはこの暗さが隠してくれた。

「次に会う時、俺の真の名を明かそう。その時、お前が俺の名を呼んでくれると信じている。だから――俺を待っていろ」

 風に揺れる葉の音も、遠くの喧騒も、すべて聞こえない。急いた心音と蒼霄の声だけが鼓膜をくすぐっている。



 まもなくして、陸蒼霄と彼の部下たちは黄涼国から姿を消した。
 黄涼王は彼らの捜索を行おうとしたが、それは叶わなかった。国境に構えていた碧縁軍は動き出し、戦いの火蓋が切られてしまったのである。
 陸蒼霄の行方は知れぬまま。


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