碧縁(へきえん)(こく)が動いている。戦がはじまるかもしれないな」

 麗陽の依頼で陸蒼霄の元に文を届けに行った月娥は、その話を聞いた。
 確かにここ最近の宮城は騒がしく、都や村では臨時募兵の令を出したことは耳にしていた。それがまさか戦とは。

「碧縁国と黄涼(こうりょう)(こく)は休戦の協定を結んでいたはずでは」
「協定など口約束にすぎん。碧縁国は、黄涼国からの支払いが滞っていることを理由に掲げたようだ。両国は宝玉の交易を行っていたが、どうも黄涼側が金子の支払いを渋ったらしい」
「……宝玉、ですか」

 碧縁国はその領内に鉱山がある。この山からは良い宝玉がとれると言われ、他国との交易によく用いられる。小国であった碧縁国が花堯(かぎょう)五国(ごこく)戦乱(せんらん)に名乗りをあげたのは、資源の豊富さによるところだ。
 月娥の表情は曇る。戦はきらいだ。都から離れた貧しい村はその影響が大きく出る。特に国境近くはひどいことになるだろう。

「しかし本当に、黄涼からの支払いが滞っているのでしょうか?」

 月娥にとって気にかかるのは黄涼国の財政状況だ。黄涼王は相も変わらず麗陽を寵愛してし、その贈り物は月兎宮に収まりきらずついに宝殿を構えるほどとなった。それほど麗陽に尽くしているのだから、黄涼王が支払わぬわけはないと考えたのだ。
 しかし蒼霄は首を横に振る。彼もまた戦を快く思わず、苛立っている様子だった。

「黄涼国は宝玉の質だ数だと難癖をつけて支払いから逃れようとしているが、無い袖は振れないのが事実だろう。俺も調べたが、黄涼の財政状況はあまりよくない」
「そんな……」

 この国は腐っている。黄涼王と麗陽によって後宮は腐敗し、その影響はみるみる広がっているのだ。


 さらに事態は悪化していく。蒼霄の話を聞いた翌日のことだ。
 月娥は本殿に向かっていた。本殿とは黄涼王の住まいであり、内廷の中心である。黄涼王は毎日のように麗陽に文を送っていて、麗陽もまた嫌々ながらも寵を得るためそれに返事を送っている。その文を届けるべく本殿に向かっていたのだ。
 本殿の門をくぐろうとした時である。

「ならん! 陛下がそのような話を聞き入れると思ったか」

 怒声が聞こえた。それから何かで叩くような、甲高い音も。好奇心が急いて、月娥はそろりと覗きこむ。どうやら本殿の庭で誰かが言い争っているらしい。
 そこにいたのは蒼霄だった。傍に上級を示す藍鼠色(あいねずいろ)盤領袍(ばんりょうほう)を着た官吏(かんり)がいて、地に膝をついた蒼霄を見下ろしている。
 蒼霄は強く土を握りしめた後、顔をあげる。

「ですから! この流行病に対策を取らなければ、黄涼の村は滅んでしまいます!」
「小さな村程度、放っておけばいいだろう。黄涼にはいくつもの村がある、代わりはいくつだってあるとも」
「この村は、今年は凶作といえ、例年は麦の産地として名の知れた村でした。そしてこの流行病は放っておけばいずれ都まで襲うでしょう。都のためにも対処しなければなりません」

 月娥は柱の陰に隠れながらその会話を聞いていた。流行病や凶作といった不穏な言葉に心が急く。いままでは流行病が発生すれば、県令が報告し、宮城が対策にあたった。凶作についても徴税軽減や免除など、民を思っての行動を取っていたはずである。
 しかし官吏は苦しそうに顔をしかめるだけで、上奏文を手に取ろうとしなかった。

「……私だって、わかっている」

 苦虫を噛み潰したように、官吏が言った。

「陸蒼霄だけではない。他の者だってこの件を陛下の耳に入れようとした。しかし……」
「……陛下は聞き入れてくださらなかったのですね」

 蒼霄が問うと、官吏が頷く。この官吏も国のことを思っている。蒼霄の上奏文を届けたい気持ちはあるのだろう。

「徴税は増す一方。今年はどの村も凶作に苦しみ、そして流行病……皆どうすべきかわかっているのだ。だが、陛下はそれをなさらない。するほどの余裕がないのだろう」

 月娥は息を呑んだ。それほどにこの国は貧しいのだ。年々徴税を増したところで、国力は消耗していく。蓄えられているはずの財は、尽きようとしている。

「正直なところ、募兵も見込んでいるほどの数がない。どの村も人を出す余裕がないのだろう。このまま集まらなければ、強制徴兵するしかない」
「そんなことをしてしまえば民は……」

 官吏、そして蒼霄が項垂れている。柱の影に隠れる月娥もまた、同じように愕然とした気持ちを抱いていた。

(わたしが、麗陽を止めなければ)

 この国を救うためには、贅沢に溺れている麗陽を止めなければならない。本殿を出た月娥は月兎宮に向かった。



 麗陽は月兎宮の裏手にある庭園にいた。天気がよいので気に入りの宮女らを連れて出たのだろう。最近特に気に入っている鞦韆(ぶらんこ)に乗っていた。この鞦韆も黄涼王に賜ったものだ。座面に玉や石を埋め込み、持ち手も刺繍を施し、目眩がするほど豪華である。

「麗陽様」

 月娥は麗陽の近くに向かい、拝礼する。麗陽は鞦韆遊びが楽しいようで降りる気がなかった。それでも月娥は口を開く。

「黄涼国は苦しい状況にあります。これ以上、贅沢をするのは止めてください」
「……はあ?」

 麗陽の眉がぴくりと動いた。突然、麗陽の豪遊を月娥が諫めようとしているのだ。その機嫌は一気に悪くなる。
 麗陽は手をあげた。そばにいた宮女が慌てて鞦韆を止めると、麗陽は月娥に寄っていく。

「あんた、誰に言ってるかわかってる?」
「わかっております。ですが麗陽様を止めなければ、この国は衰退していく一方でしょう。ですから――」

 瞬間、その手が振り下ろされる。いつものように月娥の頬を叩いたのだ。麗陽は怒りに顔を真っ赤にしている。

「何がこの国よ。<わたしは公兎妃>よ。わたしが何をしたって構わないでしょう。民の疲弊だって知っているけれど、わたしに関係ないわ」

 首の裏がぴりと痛む。けれどこの国を思う気持ちに嘘の気配は感じ取れなかった。嘘だとわかるのは麗陽が公兎妃と名乗った時だけである。

(麗陽は心から、この国を想っていない……ひどすぎる)

 そのことを知って歯がみする。再び諫言するため勇気を出して口を開こうとした時だった。

「おお、公兎妃。今日もお前は美しいのう」

 庭園に現れるは黄涼王らの集団だった。黄涼王は麗陽に会いにきたのだろう。輿を降りてこちらにやってくる。
 麗陽は嫌そうに顔をゆがめたが、一瞬にして笑顔を繕い、黄涼王の元に駆けていく。

「陛下。ここでお会いできるなんて奇遇ですわ」

 先ほどまで月娥に向けていた鬼の形相は消え、甘えたような猫撫で声である。麗陽は黄涼王にすり寄ると、その腕に絡みついて身を押し当てた。心なしか黄涼王の頬は紅潮する。

「この間お願いした碧縁水晶ってまだです? わたし、早く碧縁水晶を見てみたいわ。碧縁国の皇子のように美しいって聞いていますの」
「ははっ、もうしばし待つがよい」

 麗陽は周りを気にせず、どれだけ黄涼王にねだってもよいのだと思いこんでいるのだろう。
 碧縁水晶とは碧縁国の名産品であり、稀少な宝石だ。これと並んで、碧縁国の皇子も美しいと噂されており、碧縁国は水晶と皇子ふたつの美しさを持つと語られている。
 露骨に媚を売る麗陽に辟易していると、黄涼王がこちらを向いた。月娥は慌ててその場に屈む。

「この宮女は?」
「わたしに物申してくる生意気な宮女です。わたしのせいで民が疲弊しているって言うのよ」

 それを聞いた黄涼王は笑った。不安げな顔をした麗陽の肩を優しく撫でる。

「なに、案ずることはない。<碧縁国との仲は変わらぬ>。それに<民は貧しい暮らしなどしていない>のだからな。公兎妃は何も考えなくてよいのだ」

 痛む。
 首の裏がひりひりと痛む。
 月娥は眼前の光景と、その人物の口から綴られるものに愕然としていた。嘘を報せる首裏の痛みだけが現実であることを示している。

(黄涼王は嘘の自覚を持って語っている。つまり、民がどのような暮らしをしているのかも知っているし、碧縁国との情勢だって把握している)

 この痛みは、語った本人が自覚している嘘に反応する。つまり黄涼王はこれが嘘であるとわかっているのだ。この国の困窮を知りながらもなお、麗陽のために高価なものを手に入れようとしている。
 月娥は知らぬうちに手を強く握りしめていたようで、爪が肌に食い込んでいる。それでも黄涼王が吐いた嘘の痛みより優しかった。

「陛下。わたし、碧縁国に行ってみたいわ」
「ほう。なぜお前が碧縁に」
「噂の碧縁国皇子を一度で良いから見てみたいの。宮城で最も美しいのは陸蒼霄と聞くけれど、碧縁の皇子はもっと美しいのでしょう?」
「ならんならん。蝶のように美しい公兎妃がそちらに飛んでいってしまっては困るからな」
「まあ陛下ったら。わたしには陛下だけだと、いつになったらわかってくださるのかしら」

 甘ったるい会話が耳をつんざく。ふたりはこのまま庭園を散歩するらしい。地に膝をついた月娥を残して、黄涼王と麗陽そしてそれぞれに付いていた者たちも去っていく。

(このままじゃ……この国はだめだ……)

 その姿が視界から消えても月娥はまだ立ち上がれなかった。

 そこへ現れたのが陸蒼霄だった。お付きの者はいない。どうやらひとりで来ていたらしい。

「立てるか?」

 蒼霄の手を借りて月娥は立ち上がる。目眩がする。先ほどの黄涼王の言動は月娥にとって衝撃だったのである。首裏を押さえていると蒼霄が言った。

「先ほどの会話に、嘘があったんだな」
「……はい。麗陽も、そして黄涼王も嘘をついていました」
「嘘を見抜くお前の慧眼は素晴らしいな。俺にもわけてほしいぐらいだ」

 おそらく蒼霄は、先ほどの会話を盗み聞いていたのだろう。呆れるように言い捨てた後、月娥の顔を覗きこむ。蒼霄の美しい顔立ちを正面から見つめ返す。彼の瞳にもまた、月娥が映り込んでいた。

「公兎妃に諫言する勇気には驚いた。無策、無鉄砲とも言い換えられるがな」
「麗陽は……姉ですから」
「だがお前にひどい扱いをしてきただろう。あれはお前を妹などと、ちっとも思ってやいない」
「……とうにわかっています」

 姉だからという信頼はない。けれど、止められる可能性があるのは血をわけた妹である月娥だけと思ったのだ。それはあっさりと裏切られ、聞き入れられなかったが。
 癖のように俯こうととした月娥を、蒼霄の指が止めた。ぐいと顎を持ち上げられる。

「お前に俯いた姿など似合わん」

 蒼霄の指先が顔をのぼっていく。顎から頬、そして目尻に触れる。どうやら目尻に泥がついていたらしくそれを拭ったようだ。無骨な指先にしては優しい触れ方だった。冷雫葉を渡す時と似た、慈しみを感じる。

「お前は間違っていない。誇らしく前を向いて、花のように咲くべきだ」
「ですが、わたしには痣がありますから」
「外ばかりを見て、己の内にあるものを偽るようではお前も愚かだ」

 泥は既に拭い終えたと思う。だが蒼霄の指先は頬に添えられたまま引こうとしない。
 改めて蒼霄を見やれば、ふたりの距離の近さを再認識する。鼓動が急いて、心臓が跳ねているようだった。そのまま外へ飛び出し、心音が蒼霄に聞こえてしまうのではないかと恥ずかしくなる。
 なぜか、心のうちがふつふつと温かい。その双眸に映し出されることへの恥じらいも生じた。それは蒼霄の容姿が美しいことや距離の近さではない。月娥もまた、蒼霄の心が美しいことをよく知っている。村の様子を眺めていた時の苦しそうな顔は、月娥が抱く国や民への想いと似ているのだ。

「お前は美しい心を持っている。例えお前が公兎の娘でなかったとしても、嘘を見抜く慧眼を持っていなかったとしても、俺は手を差し伸べていただろう」

 ふ、と小さく笑った。見れば蒼霄の頬も、普段より赤らんでいる気がする。それを誤魔化すように蒼霄は手を離し、真剣な面持ちに切り替えて告げた。

「俺は、お前が前を向くように手を添えることしかできん。物事を動かすにはお前の力がいる」
「公兎鏡を探せば……この国は変わりますか?」
「黄涼だけではなく、花堯の地をも救うのが公兎の娘だ。お前が選ばれたのだから立ち上がるしかない。前を向いて、この世を見極めろ。自信がないのなら俺がそばにいてやる」

 そう告げて、蒼霄は足を動かした。離れていく姿に月娥は問う。

「わたしが鏡を見つけ物事が動き出したら……蒼霄は、どうなりますか」

 すると蒼霄は振り返った。慈しむような、けれど諦めた面持ちで呟く。

「慧眼の娘に選ばれるよう、努力をするだけだ」

 蒼霄が去って行く。その背を見送りながら、月娥はある決意を胸にした。

(鏡を探そう。わたしはこの国だけでなく、花堯に住むすべての人たちを守りたい)

 守りたいのは黄涼国だけではない。花堯の地にある五つの国、花堯の地に住む民。すべて。不幸の中にいる人たちを救いたいと強く思った。