――公兎龍、その瞳にて天命を見極め、世を選ぶ――
花堯の地に残る公兎伝承の一説である。
かつてこの地には五つの国が存在していた。この伝承は国の垣根を越えて伝えられ、公兎の娘を妃として迎えた国が花堯を制すと信じられていた。
公兎龍とは、宵闇を照らす月に住む神であるという。月神である公兎は自らの遣いとなる娘を選び、その娘は慧眼を持って世を統べるに相応しき者を選ぶ。選ばれし者は帝となって花堯の地を照らす太陽になるそうだ。
公兎龍は本当に存在したのか。一つの記録を紐解こう。
これは花堯の地が統一される前、五国戦乱の世に現れた最後の公兎妃の話である。
虐げられることしか知らなかった彼女は公兎龍に選ばれ、彼女が選んだ者はこの地を平定し、平穏を作り上げた。
最後の公兎妃――彼女の名は燕月娥。
***
燕月娥が十八の頃である。
毎日、家の裏手にある廟に参拝するのが月娥の日課だった。花堯の各地には公兎を祀った廟が存在する。かつては参拝にやってきた民で賑わっていたが、長く続いた戦乱により民らの間で公兎伝承は薄れ、廟は閑散としていた。
廟の前には泉があり、そこは清らかな水が流れていて心地がよい。
そこで、その生き物と出会った。はじめは兎か狐だと思った。体は水碧色をした毛に覆われ、長く伸びた双耳がひょこひょこと動く。小さな体は月娥の細腕でも抱えられそうだった。四足獣だが腹を引きずって歩くのではないかと思うほど手足短く、ずっぷりと膨らんだ腹や腹毛に埋もれている。尾は兎にしては長く、狐ほどふわふわと膨らんでいない。見たことのない獣だった。
「慧眼の娘よ」
矯めつ眇めつ眺める月娥は、確かに声を聞いた。周囲に月娥以外の気配はなく、喋るとすればこの獣しかあり得なかった。獣は黄金色の瞳をこちらに向けている。
「偽りを見抜く慧眼の娘、燕月娥よ。聞くがよい」
水碧色の不思議な獣は月娥の名を呼んだ。なぜ名を知っているのかという疑問は生じたが、黄金色の瞳に見つめられると動けなくなる。吸いこまれそうな、夜の満月に似た瞳だ。
「我は陽を見極めし公兎龍。お前を公兎の娘として選ぼう」
足繁く廟に通う月娥は公兎伝承をよく知っていた。戦乱の終焉を報せる月神が公兎であり、それに選ばれた娘は花堯の地にとって救世主となる。伝承に過ぎないと思っていた公兎龍が目の前に現れ、ましてや自分を公兎の娘だと選んでいるのだ。
まったく信じられないことである。月娥は呆然とそこに立ち尽くすだけであった。
「我はお前の中に。公兎の加護はお前の中に。お前の慧眼は天命を見極める。この地に平穏をもたらすべきが誰であるのか、お前だけが見極められる」
そう告げて、ひとつまばたきをする間に、そこから消えてしまった。
凪いだ泉に映るは月娥の姿だ。都に出れば指をさされて笑われるほどのひどさである。何度も繕い直した襦裙は襤褸布のようで、そこから伸びた手足はひどく痩せている。
「わたしが公兎の娘なんて、そんなこと」
そう自嘲するほどに、信じられなかった。
月娥は、生家である燕家にて疎んじられて育ち、奴婢同様の扱いを受けてきたのだ。その証拠のように、水仕事の多さにやられてひび割れやあかぎれだらけの手である。
そういった境遇から、月娥は自分がが公兎に選ばれたなど夢であろうと片付けていたのである。
何事もなく家へ帰る。門をくぐれば、遅い帰りに不機嫌をあらわにした姉の燕麗陽が仁王立ちで待ち構えていた。
「あんた、どこに行ってたのよ」
血を分けた姉だが、麗陽は月娥を妹などと思ってはいなかった。ふたりの間に格差があるのだと示すように、麗陽は刺繍が入った煌びやかな襦裙に半臂を纏っている。裕福な家の娘たちが好む、流行の格好をしていた。
「まさか都に出ていたんじゃないでしょうね。やめてよね、あんたみたいな痣持ちが都に出ればこの家が何て笑われるか。あんたは俯いて生きていかなきゃいけないんだから、外に出て恥を振りまかないでちょうだい」
忌々しそうに告げた後、麗陽は屋敷に戻っていった。月娥は何も言い返せず、その場に俯くだけである。
月娥がこのような扱いを受けるようになったのは、痣が原因である。
顎の下から首にかけて紅痣があった。生まれつきあったものだが成長しても痣は消えない。顔をあげればこの痣が見えてしまうため、幼い頃から俯くことを命じられていた。両親や麗陽といった家族らは、痣持ちの月娥を疎んじ、家事雑用を命じて屋敷から出すまいとしていたのである。
「きっと似合うと思ってな、簪を買ってきたぞ」
夕餉の頃に父が言った。懐から取り出した水碧色の簪は一本。それは当然のごとく麗陽の前に差し出され、月娥には見向きもしない。
麗陽は簪を受け取りながらも頬を膨らませた。
「お父様、今度は珊瑚の簪を買ってくれると言っていたじゃない。これは水碧色よ。玉もついてないわ」
「そう怒るな。珊瑚の簪は今度見つけたら買ってやるとも」
怒る麗陽をなだめながら父が笑う。母もにこりと微笑んだ。
「麗陽はとても美しい娘だから、何だって似合うわ――どこかの汚い子と違うもの」
汚い子というのは月娥のことだ。母はこちらを一瞥もしなかった。月娥のことを普段から汚いだの醜いだのと罵っている母だ。食事時に月娥の顔を視界に入れたくなかったのだろう。
「ねえお母様。わたしの羹、羊肉が少ないの。もう少し食べたいわ」
それを聞いて母が立ち上がった。月娥の顔を見ないようにしてこちらに近づき、手をつけずにいた羹の腕を持っていく。それを麗陽の前に置いて微笑んだ。
「これを食べなさい。あの子は食べなくてもいいのだから」
「ありがとうお母様!」
麗陽は羊肉を食べたかったわけではなく、月娥の分を奪うために言ったのだろう。こ宇言った扱いもよくあることのひとつだった。
麗陽は美しい。この一帯で一番の美女と讃えられ、通りすがる人が振り返るほどである。両親にとっても麗陽は自慢であり、真珠玉を削った欠片が娘になったのだと語っている。
それに比べて、月娥を讃えたことは一度もない。いまだって、同じ間にいるというのに両親は月娥に見向きもしない。両親が月娥を見る時は憎しみや苛立ちをぶつける時だけだ。
「最近は戦がないなあ」
父が呟いた。母が酒を注いでいる。
燕家はこの一帯では裕福な商家だ。近年は戦乱需要を見込んで、剣帯や鎧、箙などを作る革職人を多く抱え、それらの売り上げで稼いでいる。燕家にとって戦とは、最高の稼ぎ時なのである。
月娥が住む国は黄涼という。花堯と呼ばれるこの広大な地は五つに分かたれ、その一つが黄涼である。隣には碧縁国があり、過去何度も争ってきたが、ここ数年は静かだった。
戦が起きないことを嘆く父を横目に、月娥は廟に向かう前に見た景色を思い返した。
数年前は緑豊かであった畑が枯れていた。そこで働いていただろう若者の姿もない。
(戦乱が長く続くほど民は疲弊し、国力は消耗する)
廟に参拝する人が減ったのもその証拠だ。みな、明日を生き延びることで精一杯である。
「黄涼王が立ち上がってくれればいいんだがなあ」
「お父様の言う通りよ。早く戦になればいいのに」
父と麗陽は頷き合っていたが、月娥はそんな気になどなれない。
(戦なんてよくないものだ。戦になんて、なってほしくないのに)
この屋敷で、月娥の存在や思考は浮いていた。
***
花堯の各地に、公兎の娘出現の兆しが出た。黄涼国の占師が受けた託宣によれば、公兎の娘は燕家にいるとのこと。すぐに使者が向けられ、燕家の門を叩いたのである。
公兎に選ばれた娘を公兎妃として迎えた国は栄えると伝えられている。他の国にとっても公兎妃は喉から手が出るほど欲しい存在だ。過去には公兎妃を巡っての争いも起きたという。
公兎妃になるべき者が選ばれ、それが自国にいるとなれば、黄涼王としては急ぎ手元に置きたいところだろう。
「この燕家に、公兎龍に選ばれた娘がいる。黄涼王は公兎妃として迎えたいとのお考えだ」
使者から報せを聞いた父は諸手を挙げて喜んだ。娘が公兎の娘に選ばれたことは、最上級の栄誉である。
「いやあ、麗陽は我々も驚くほどに美しい娘でして。あれほどに美しいのですから公兎龍に選ばれるのも当然のこと――ほれ誰か、麗陽を呼んでこい。宮城へのお召しが決まったぞ!」
「燕家には、娘がふたりいると聞きましたが」
使者たちは表情を険しくさせ、月娥の方を見やる。だが父は首を横に振った。
「確かに娘はふたりいますが、選ばれたのは麗陽でしょう。もうひとりの娘は月娥と申しますが、あれは醜いので外に出さないようにしています。公兎龍も醜い妹よりは美しい姉の方がよいことでしょう」
父は頑なに、公兎龍に選ばれたのが麗陽であると信じていた。
(ここでわたしが名乗っても、両親が信じることはないのだろう)
上機嫌で使者と語り合う父を横目に、月娥は部屋を出る。
いつだってそうだ。月娥はいちども認められたことがなかった。
幼い頃、母の誕生日を祝って贈り物をしたことがある。山で摘んできた、母の好きな花だった。それを扉の前に置いたのだが、母は麗陽からの贈り物だと思いこんで喜んでいた。月娥からだとは微塵も考えないのだろう。その時に抱いた虚しさを、ふと思い出した。
(選ばれたのはわたしだと、誰が信じてくれるだろう)
悔しさと虚しさがこみあげる。虐げられるのはいつものことなはずが、この時は受け入れるのが難しかった。麗陽が選ばれたと信じて盛り上がる屋敷を抜け出して、廟に向かう。閑散としているあの場所ならば、月娥が顔をあげたところで痣を見るものはいない。月だって太陽だって、臆さずに見上げられる。
廟に向かう間は小走りだったので、着いた頃には汗をかいていた。泉の水をすくって顔を洗う。それを数度繰り返していると、草葉の揺れる音がした。
人の気配である。月娥は咄嗟に振り返った。
「ほう。ここに人がいるのは珍しい」
月娥と目を合わせるなり、その人物は呟いた。
泉前で膝をつく月娥を見下ろすはひとりの男。市井の者に比べ上等な生地で仕立てた直領の袍を着て、腰帯も立派なものを使っている。佩いた剣も装飾が凝られていることから、宮城に仕える者だろう。廟で自分以外の者と会うことは初めてだった。
「……あなたは、誰ですか」
家に宮城からの使いが来ていたことを思い出す。この男もそうであるかと疑ったのだ。だが男はにたりと笑みを浮かべていった。
「<宮城に仕える武官>だ」
その、ひと言である。肌がざわりと粟だった。
昔から、月娥にはある癖があった。それは他人が嘘をついた時に、首の裏がちりちりと灼けるように痛む。家族や麗陽が月娥に対してひどい扱いを長く続けてきたことで猜疑心が生じ、観察力が身についたのだろう。声の揺らぎや仕草、ちょっとした視線の移動といったものでわかる。
そのことから男が武官ではないとわかった。身分を騙る男に不信感が高まり、口中に溜まった唾をごくりと飲む。その音も、静かなこの場所ではよく響いた。
「それは、嘘、ですよね」
確かめるように月娥が問う。男は目を見開き「ほう」と驚いていた。
「どこかの貧しい娘かと思っていたが、なかなか聡いじゃないか。ではお前は、俺が何者だと思う?」
「……それはわかりません」
「嘘は見抜くが真実は見抜けぬか。慧眼を持つ娘のようだ」
くつくつと男は笑った。その場に膝をつき、月娥に視線を合わせる。泉の水で洗ったばかりの顔はまだ濡れていて、風が当たって冷たい。それを正面から男は見つめて言った。
「なるほど。お前、公兎龍に選ばれたのか」
「なぜそれを……」
「前髪で隠れているが、額に印がある。公兎龍に選ばれた娘に浮かび上がる印だ。もっとも、公兎の娘が額に印を持つなど現在の者らは忘れているのだろうが」
それを聞いて月娥は泉を覗きこむ。そっと前髪を持ち上げてみれば、額に紅色の、三日月形の印が浮かび上がっていた。このようなものは先日までなかった。家では誰も気づかなかった。月娥が常に俯いて生活することを命じられていたためだ。
「となれば、もうひとりの燕家の娘か。妹の月娥とはお前のことだな」
男は淡々と告げた。立ち上がり、燕家があった方を見る。ここから家の方までは見えないが、まだ使者たちはいるのだろう。
「いつの世も、虚栄や嘘といったくだらぬものが蔓延っている。真実に触れる者はほんの一部。あやつらも燕家の嘘に流され、お前の姉を選ぶのだろう」
男は月娥だけでなく麗陽のことも知っているようだ。となればやはり宮城や黄涼王の関係者で間違いないだろう。
警戒心を解かず、じいと男を睨んでいれば、やがてこちらに向いた男が、にやにやと口角をあげた。
「本物の、公兎の娘。俺はお前の真実を見抜いてやる」
そう言って手を差し出す。月娥に向けているが、底知れぬ不気味なこの男を訝しんで、手を取る気にはなれなかった。
「俺は<陸蒼霄>。<黄涼王に仕える武官>だ」
「っ、痛い……」
首の裏が灼けるように痛み、手を添えた。反射的に眉根を寄せて睨みつける。その仕草に気づいた蒼霄が「ほう」と関心の息をついた。
「あなたは立場も名前も、嘘をついている」
「誰かが嘘をつけば、そのように痛みが走るのか。愉快な仕組みだな」
蒼霄は不敵な笑みを浮かべている。月娥の顔をじいと眺めながら告げた。
「まもなくお前の姉が公兎妃になるだろう。お前も宮城に来るといい」
蒼霄は無理矢理に月娥の手を掴んだ。嘘をついた男だというのにその手を温かく感じ、なぜか振り払うことが出来なかった。
「月娥。お前こそが公兎の娘であると、俺が認めさせてやろう。嘘を見抜くその慧眼で花堯の地を見るがよい」
彼の言葉が意味するところを、月娥が理解するのは翌日のことだった。
公兎妃として麗陽が選ばれると同時に、月娥もまた公兎妃付きの宮女として宮城に召されることが決まったのである。おそらくは蒼霄が手を回したのだろう。
後日、迎えにやってきた黄涼王の使者はふたりの娘を連れて行った。
***
公兎の娘が見つかり、それを黄涼王が公兎妃として迎え入れた。
この慶事に黄涼国の民は喜び、国中のいたる場所で祭りが開かれた。公兎祭は七日間開かれ、宮城からは祝いの酒が振る舞われた。いずれ黄涼国こそが花堯統一を成すと皆が信じていたのである。
「月娥。香を塗ってちょうだい」
姉の麗陽は公兎妃になっていた。後宮の一角にある月兎宮が与えられた。閑散としていた宮は麗陽が来てから日毎きらびやかになっていく。今日もまた貢ぎ物の玉や反物が届いていた。
月娥は宮女に任命された。月兎宮の宮女はたくさんいるが、月娥の仕事が減ることはない。むしろ燕家にいた頃よりもひどくなった。雑用を命じられてばかりいる。
月娥は練香が入った合子を取り出し、麗陽の前に膝をついだ。合子を開ければ麗陽が好む麝香のにおいが部屋中に広がった。
「失礼いたします」
声をかけてから、足先から練香を塗っていく。黄涼王の寵愛を受けている麗陽は日増しに装いが派手になっている。この香もそうである。これは花堯より遥か西方にある国の特産品で高価なものだ。黄涼王に頼みこんで取り寄せてもらったらしい。
(この一塗りで、どれだけの人がご飯を食べられるのだろう)
指で掬い取った練香はよい香りがする。しかし月娥は虚しさも感じていた。これを金子に置き換えれば、燕家が一年に稼ぐ倍以上になる。
少しも無駄にしてはならない。緊張感が指先にまで満ちる。
その震えは麗陽にも伝わっていた。
ぱしん、と何かで叩かれた。音に遅れて鋭い痛みが頬を走り、咄嗟に月娥は顔をあげる。しかし顔をあげようとすれば再び、風が月娥の頬を打つ。
「顔をあげないで。汚いんだから」
頬を叩いたのは閉じた扇。それを手にしたまま麗陽は冷ややかに見下して告げる。
「その手、どうにかならないの。ごわごわとして固い手ね。そんな手で足に触られたら傷がついてしまうわ」
「……申し訳ありません」
月娥は深く頭を下げた。手が荒れているのは、水汲みや厨仕事のためだ。下級宮女に任せる仕事を、わざと月娥にさせているのは麗陽である。
「ああ、やだやだ。今日は朝から雨が降って、反物だって褪せた色をしている。陛下は今日もいらっしゃるのでしょう? 贈り物だけくれればいいのに」
麗陽は苛立っているようだった。黄涼王は、見目麗しい麗陽を寵愛し、毎晩呼び寄せている。しかし黄涼王が燕家の父と変わらぬ年頃であることから、麗陽自身は陛下を快く思っていないようだった。
この反物も、麗陽が黄涼王に頼みこんで取り寄せてもらったものである。金刺繍が入った高価な品だ。手に入れるための金子を民に渡せば十年は暮らせるだろう。自ら頼みこんだくせ色味が気に入らないと難癖をつけ、麗陽はそれを床に投げ捨てている。それを拾おうとすれば麗陽の不機嫌を買うので、宮女らは誰も手を伸ばさない。反物は床に転がったままだ。
月娥はもう一度練香を塗り直す。そこへ来客がやってきた。
「麗陽様、ご機嫌麗しゅう」
陸蒼霄である。黄涼王直属の精鋭兵団を任されている男だ。蒼霄は麗陽に挨拶しながらも、ちらりと視線を月娥に向けた。
廟で会って以来、蒼霄とは何度も顔を合わせている。その時の装いから宮城に関わる者と想像はしていたが、彼はあの場で語った通り、黄涼王に仕える武官だった。
(でもあれは嘘だから、本当は違うはず)
蒼霄という名も、武官という立場も嘘である。本人もそれが嘘であることを否定しなかった。だというのに嘘の通りに彼はここにいて、蒼霄という名を使っている。彼が嘘をついた理由や真実は、わからないままだった。
「まあ、蒼霄! きてくれたのね」
麗陽の声が上擦った。先ほどまでの不機嫌は霧散し、顔を綻ばせている。
麗陽にとって蒼霄はお気に入りである。蒼霄は齢も若く、見目麗しい。すらりと高い背に整った顔立ち、さらには武芸も一級品ときている。麗陽は、彼がお気に入りであると憚らずに公言し、用がなくとも月兎宮に来てもよいと許可するほどだった。
「麗陽様。公兎の占師たちがお目通りを願っているようです」
麗陽から向けられる熱い視線を無視するように淡々と蒼霄が告げた。占師というのは花堯各地に公兎伝承を伝える者たちであり、公兎龍に関しては彼らが最も詳しいと言える。燕家の娘が公兎に選ばれたという託宣を受けたのも彼らであった。
「面倒な者たちね。辛気くさいからきらいよ」
「そう仰らずに。公兎の娘として、占師に会うことは必要でしょう。占師としても直接会わなければ、本物であるかどうか判断できないのですから」
「陛下は、わたしこそが公兎の娘だと認めてくれたのよ。陛下が認めたのに占師にも認めてもらうなんておかしい話よ」
鬱陶しそうにため息をつく麗陽を、蒼霄がなだめている。
本来は占師によって、本物の公兎の娘であると認められなければならない。それを麗陽は拒否している。もし麗陽が占師の前に出ていれば、偽物だと判断されて公兎妃にはなれなかっただろう。
占師に会わずして認められるために麗陽が狙ったのは黄涼王だった。麗陽はその美貌を武器にして黄涼王の寵を得た。黄涼王は麗陽に夢中になり、占師の認可を得ることなく公兎妃の位を与えたのである。
「麗陽様がそのように仰るのなら、占師には日を改めるよう伝えましょう」
「そうしてちょうだい。わたし、忙しいのよ。ああ、蒼霄なら話は別よ。あなたが来てくれるのならどんな用事だって空けるわ」
蒼霄はこれに曖昧な顔をするだけで、返事をしなかった。拝礼し、部屋を出て行こうとする。そのわずかな間に、ちらりと月娥を見た。
「……こちらの宮女をお借りしても良いでしょうか」
提案したのは蒼霄だ。この宮女、というのは月娥を指している。
「あら。また屋敷の雑用仕事かしら。もちろんよ、そんな汚い娘が役に立つのなら、いくらでもこき使ってちょうだい」
麗陽はふたつ返事で応じていた。
こうして蒼霄が月娥を借りていくのは初めてのことではない。雑用から水仕事、どんな仕事でも任せてよいとさえ話している。麗陽にとっては、蒼霄が他の美しい宮女を連れ歩くよりも、顎から首に痣を持つ醜い月娥の方がよかった。これほど汚い娘であるから、蒼霄が好むはずはないと考えているのである。
月娥は麗陽に向けて拝礼し、部屋を出た。蒼霄の後ろをついて歩く。月兎宮では互いに口を開かなかったが、宮から出て人の気がなくなると蒼霄がやっと切り出した。
「お前、またしても叩かれたのか」
「別に。慣れていますから」
「暴力に慣れるなどおかしなことだろう。逆らう気はないのか」
蒼霄は呆れているようだった。麗陽に頬を叩かれているのは何度もある。その場面に蒼霄が出くわしたこともあった。
蒼霄は部下のひとりに何かを命じた。彼は駆け足でどこかへ行くなり、数枚の葉を持って戻ってきた。蒼霄はその葉を月娥に渡す。
「冷雫葉だ。千切ると葉が冷たくなるからな、それを頬に当てておけば腫れも引く」
「便利な葉ですね。知りませんでした」
「武官であればみな持ち歩く。怪我が多いからな」
「貴重な品を分けて頂いて、ありがとうございます。あと、連れ出していただいたことも」
蒼霄が月娥を連れ出したのは、麗陽に虐げられる月娥を案じてのことだろう。冷雫葉を頬に当てながら月娥が頭をさげる。すると蒼霄は、月兎宮では見せない、いたずらっぽい笑みを浮かべて答えた。
「理不尽に叩かれているのを見るのは好きじゃない。だから外に連れ出しただけだ。感謝を述べずともよい」
「でも助けられました。ありがとうございます」
「……そうか」
蒼霄はそれ以上答えなかった。こちらに背を向けているが心なしか表情が柔らかい気がする。
後宮は女人の場であり、男の姿はあまりない。いたとしても宦官や門を守る武官ぐらいだ。蒼霄は黄涼王に気に入られているので許可を得ている。それでも居心地は悪いのか、早歩き気味に内廷と外廷を分ける大門へ向かった。
「表向きは屋敷の掃除だ」
「表向き、ということは本当の用件があるのでしょう?」
蒼霄の屋敷は宮城を出て都の外れにある。老齢の女中しか置いていないことを黄涼王や公兎妃は知っているので、掃除など人手がいる時は宮女を借りていく。それを表向きの用として月娥を連れ出したのだ。
「お前にこの地を見せたいと思っただけだ。本物の公兎の娘にこそ、国の現状を見てもらった方がいいだろう」
ここまでの蒼霄の言葉に、首裏はぴくりとも痛まない。確かめるように手を添える。すると、その仕草を見ていたらしい蒼霄が笑った。
「嘘だと思ったのか」
「いえ。痛みはないので嘘ではないと思います。ですが蒼霄の言葉を簡単に信じたくないので、こうして確かめるようにしています」
「俺のことをそこまで信用していないのか。さっき助けてやっただろう」
「あれはあれ、これはこれです」
「……二度と冷雫葉をわけてやらん」
拗ねたような口ぶりをしながらも蒼霄は楽しそうにしていた。
月娥にとって蒼霄という男は不思議である。麗陽や宮女の前では爽やかな青年を装ってきらきらと輝く笑顔をしているくせ、月娥の前では力が抜けたようになる。口も悪くなり、表情もよく変わる。
良い者だと思う。美しい顔立ちだけでなく、心も綺麗なのだろう。しかし警戒心を解くことはできなかった。
(どうして、立場や名前を騙ったのだろう)
はじめて会った時に、彼が嘘をついたことだけが引っかかる。蒼霄が隠す真実が何かわからず、だからいまだに彼を警戒してしまう。
蒼霄の屋敷についても中にはあがらなかった。古くから仕えているという老齢の女中に命じて馬を用意させている。馬具を付けた後、蒼霄は馬に乗った。
「乗れ。ついてこい」
「馬なんて乗ったことがないのですが……」
「前に乗ればいい。手綱は俺が持つ。落ちそうになったら俺にしがみつけ」
有無を言わさぬといった様子で手を差し伸べている。廟で初めて会った時と同じだ。もはや逃げられないのだろうと覚悟を決め、月娥はその手を取る。
馬に乗ればその視点の高さに驚いた。だが走り始めれば、吹き抜けていく風が心地よい。
「お前、どうして俯いている。せっかく馬に乗っているのだから景色を楽しめばよいだろうに」
屋敷裏手の小高い丘に向かう途中で蒼霄が訊いた。
「……わたしは俯いて生きるよう命じられています」
「なぜだ。背が曲がってしまうぞ」
答えていいものかと月娥は悩んだ。両親や麗陽は、痣を醜いものだと語ってきたためである。蒼霄に話したところで、汚いと罵られたり、馬から蹴落とされたりするかもしれない。思いあぐねていると蒼霄が続けた。
「その痣のせいか?」
「気づいていたんですね」
「何度も会っていれば気づく」
麗陽だけでなく月兎宮の宮女らも月娥の痣に気づいている。しかしみな、顔をしかめたり目を背けたりと、よい反応をする者はひとりもいなかった。
しかし蒼霄は違う。
「些細なことだ。痣など気にせず顔をあげればよいだろう」
「この痣は醜いので、人に見せない方がよいかと俯いておりました」
「くだらん。月兎宮には、痣よりもっと醜いものが蔓延っているだろうに。例えばお前の姉であるとか」
「蒼霄は、麗陽を美しいと思わないのですか?」
「外見だけだ。偽物と自覚しながら公兎妃の位に収まるあの性根は醜くてたまらん」
蒼霄はそう言って手綱を引く。丘の上についたところで、馬を止めた。
ほどよい低木に綱を結び、しばらく歩く。月娥は黙って蒼霄の後ろをついていくだけだった。
「月娥。あれを見ろ」
蒼霄は村の方を指さした。小高い丘から村はよく見える。
畑があるものの、人影はなく、畑は荒んでいる。近くは焦げた跡がある。火事で家が燃えてしまったのだろう。
「……ひどい」
「黄涼国の現状だ。税は高くなるばかり。民は搾取され続けている」
月娥は顔をしかめた。村と呼ぶには荒廃している。
月娥が住んでいたのは都の、その一帯では裕福な家だった。都外れた村の様子は廟詣りの道中に見たぐらいしか知らずにいた。蒼霄に連れ出してもらわなければ、ここまでの惨状だとは知らなかった。
蒼霄は焦げた家近くを指さした。そこには痩せ細り泥まみれになった子供が座りこんでいた。親らしき姿はない。藁をしき、寒さを凌ぐために藁をかぶっている。
「ここは数年前に、碧縁国との争いに巻き込まれた場所だ。戦火は村を焼き、住む場所や畑は失われた。あそこにいるのは親を失った子だろう」
「黄涼王はこのひどさを知っているのでしょうか」
「県令が上奏文を送ったという噂は聞いたが、まもなくしてその県令は何者かに殺されている。事件は追及されぬままうやむやになったからな、つまり、そういうことだろう」
県令とは宮城より認められて各地に置かれた地域の長である。この村にいた県令は村の窮状を訴えたがために殺されてしまった。宮城にとって不都合な口出しをする者はそうやって消されていくのである。
黄涼王が麗陽のためにと手に入れた贈り物はどれも高価なものだ。国の財政は民や国ではなく、私利私欲のため費やされている。それが適正に使われていたのなら、この景色は変わっていたことだろう。月娥は唇を噛んだ。隣では蒼霄も、苦々しい顔をして村を眺めている。
「……あの子供たちを助けてきます」
一歩踏み出そうとした月娥だったが、蒼霄がその手を掴んで止めた。
「いま行ってどうする。一時のしのぎにしかならん」
「ですが、あれはひどすぎます。一時だとしても助けてあげなければ……」
月娥が訴えるも、蒼霄は厳しい顔をして首を横に振った。
「お前にはお前にしかできないことがある。嘘をも見抜くお前の慧眼に、この光景を焼き付けろ」
「手を差し伸べず、見るだけなんて、あんまりです」
「公兎龍に選ばれた娘は世を選ぶ。戦乱続く花堯の地を変えられるのはお前だけだ。お前が何を成したいのか、考えろ」
月娥は頷くことも答えることもできなかった。
(この村を……苦しんでいる人たちを……わたしが救うことができるのだろうか)
額が痛む。公兎龍の印がある額だ。月娥の身のうちに隠れた公兎龍が泣いているかのように。
「あの子らには、あとで別の者を向かわせる。お前や俺が表立って動くのはいまではない」
「では別の意図があって、わたしをここに連れてきたのですね」
「鋭いな。俺は理由なくこの景色を見せたりなどしない」
蒼霄は目に焼き付けるように、村のひどさを睨みつけている。眉根を寄せた険しい顔で続けた。
「鏡を探してほしい。月兎宮に祀られていると噂される公兎鏡だ。その鏡は真実を映す。過去に偽物の公兎妃が現れた時、その鏡を持って偽りを見抜いたと言われている」
「わたしがその鏡を見つけたら、どうなりますか?」
「鏡を探し出せば物事が大きく動く。小国の後宮宮女という安穏とした生活は崩れ去るだろう。お前が物事を、この花堯の地を変える気になった時に、その鏡を探すといい」
月娥の手は震えていた。その鏡を見つけることでどうして村の惨状が改善されるのか、ふたつの物事が繋がらないためだ。鏡を探し出すことは国にとってよくないのではないかと畏れが生じている。
不安が満ちる胸中を見抜くように、蒼霄が呟く。村を眺めるまなざしに悲哀が佇んでいる。
「俺は貧富の差というものがきらいだ。悲しみばかりを生む争いもきらいだ――どうだ。いまの言葉に偽りはあったか?」
「……いえ」
首裏は何も痛んでいない。これもまた蒼霄の真実だろう。
「これらの人々を救う器があるのなら黄涼王を支援する。だがそのような器もない凡愚ならば相応のことをするだけだ」
「つまり、蒼霄は謀反を考えている……その話をわたしが聞いていいのでしょうか」
「お前は、黄涼の後宮にいる者らと違う感覚を持っている。だから、姉が放り投げた高価な反物に悔しそうな顔をし、飢えた子供らの元に向かおうと足を踏み出していた」
「……わたしは、」
癖のように、月娥が俯こうとした。瞬間、ぐいと頭が持ち上げられる。
「俯くな。顔をあげて、その目に焼き付けろ」
月娥を俯かせぬようにしたのは蒼霄だった。
視界には村と青い空が広がっている。いつもよりも上向きになっていることで、顎の下を風が吹き抜けた。その感覚は慣れない。
「お前が現状を変えたいと願った時、鏡を探せ。公兎の娘であるお前が動かなければ、この世は何も動かない」
額の印が痛む。蒼霄の言葉に賛同しているようでもあった。
(わたしは……どうしたらいいのだろう)
公兎龍と出会ったのは確かである。蒼霄曰く額にある印もそれを示すものだ。しかし公兎の娘だからといって、何かを変えるような自信はない。蔑まれて生きてきた月娥にとって、一歩を踏み出すことは恐ろしく、相当の勇気がいる。眼下に広がる凄惨な光景を、月娥の小さな手で変えられるのか。
「……俺を信じていいのか、悩んでいるのだろう?」
「初対面で嘘をつくような人ですから、信じがたいところはあります」
「だろうな。これほどに警戒されるのであれば、騙らなければよかったと後悔している」
これは本音だ。けれど、蒼霄の苦しそうな顔が頭から離れないのも事実。彼が見せた表情に偽りはない。心から民を案じているのだろう。月娥は蒼霄に向き直って、告げた。
「ですが、あなたが民を思う気持ちに偽りはないと思います。そうでなければあれほど苦しい表情なんてしないはず。だから、蒼霄の優しさは信じようと思いました」
それを聞くなり、蒼霄は驚いたような顔をしたが、それは一瞬で消えた。月娥の頭をぽんと優しく撫でる。
「……ありがとう」
風が吹いて、通り抜けていく。乾いた風だ。公兎鏡を探すべきか否かの答えはまだ出ていない。けれど蒼霄のことは、少しだけわかった気がした。
***
数日後のことである。その日も麗陽の機嫌はひどく悪かった。黄涼王からの貢ぎ物が増え、豪奢な部屋に叱責する声が飛び交っている。
「この簪を用意したのは誰!?」
どうやら髪に挿した簪が気に入らなかったらしい。抜き取って床に投げ捨てると、それはぱきりと割れてしまった。埋め込まれた紅玉も傷がついている。
「わ、わたしです……」
ひとりの宮女が青ざめながら前に出た。麗陽の前で膝をつくが、体も声も震えている。
「こんなもの、わたしに合うわけがないでしょう!」
「ですが、これを挿したいと昨晩仰ったのは麗陽様で……」
瞬間、閉じた扇が空を裂いた。ぱしりと頬を打つ音が響く。宮女の頬には扇で叩かれた赤い筋が浮かび上がっている。
「ひっ……」
「口答えは許しません。わたしにはもっと美しいものが似合うの――誰か鞭を持ってきて。この者に罰を与えます」
「お許しください、お許しください」
額を床にこすりつけるようにして謝り続ける宮女の姿に胸が痛んだ。見過ごしてはおけず、月娥が前に出る。
「麗陽様。わたしも昨晩のお言葉を聞いております。この簪を所望なさったのは麗陽様ご自身です」
「月娥……あんたまで……」
再び扇を握りしめた麗陽は、月娥の頬を何度も叩く。それでも月娥は宮女を庇い続けていた。
「忌々しい! この汚い痣持ちめ!」
怒声と頬を打つ音が部屋に響く。
月娥や宮女を叩くだけでは飽き足らず、苛立ちをぶつけるように花器を壁に投げたり、壁にかかった花を引きちぎったりとひどいものである。
そこへ他の宮女がやってきた。麗陽の傍にやってきて来客の報を耳打ちしている。麗陽の表情がぱあっと明るくなった。
まもなくして部屋に入ってきたのは蒼霄だった。
「……これはまた、猫でも暴れたようなひどさですね」
蒼霄は部屋に入るなり、辺りを見渡して苦笑した。しかし麗陽は蒼霄にすり寄っている。
「だって蒼霄がなかなか来てくれないから。陛下の贈り物だって飽いてしまったわ」
「西方の反物に、宝玉。これほど贈り物があればじゅうぶんでしょうに」
「この程度でわたしの心を買えたつもりなのでしょうね――まあ、蒼霄のような美丈夫であれば贈り物なんていらないのだけれど」
麗陽はそう言って蒼霄の頬を撫でたが、蒼霄は冷静にそれを制した。軽蔑をこめた冷ややかな目を向けている。
「宮女らに理不尽な罰を与えるのは、いかがなものでしょうかね」
「この子たちは月兎宮の宮女よ。わたしの所持品と変わらない。どんな扱いをしたって関係ないわ」
「やりすぎでしょう。あの花器だって先日陛下から贈られたばかりでは」
「何をしたって陛下は許してくれるの。だって<わたしは公兎龍に選ばれた娘>だから。花器だってお願いすれば新しいものを贈ってくれる」
首の裏が痛む。嘘に反応しているのだ。灼けるように痛む首裏を押さえながら、月娥は麗陽を見上げる。麗陽はまだ蒼霄に夢中のようだった。
「ねえ蒼霄。わたしの言う通りにするのなら、あなたの階級をあげるように陛下に頼んでもいいのよ?」
「結構です。自分の力で成れますので」
「まあ。でもわたしに出来ることがあれば、いつでも相談してちょうだいね。何なら<公兎龍に頼んで、あなたを選ぶことだってできる>のよ」
これに蒼霄は苦笑した。そしてちらりと月娥に視線を送る。
(いまのうちに部屋を出ろ、と言いたいのかもしれない)
蒼霄が麗陽の気を引いている。そのことに気づいた月娥は先に叩かれていた宮女を連れて部屋を出た。
庭にある井戸で水を汲み、殴られた頬を冷やす。特に月娥の頬はひどかった。何度もぶたれたので赤く腫れ上がっている。宮女が部屋に戻っても、月娥はまだ井戸の前にいた。
「随分とやられたな」
その月娥に声をかけたのは蒼霄だった。麗陽を振り払って出てきたらしい。
「慣れていますから」
「そのように言うな……こちらまでつらくなる」
蒼霄は懐から冷雫葉を取り出し、月娥に渡そうとした。乾燥させた冷雫葉でも水につけて割れば冷えていく。打ち身や打撲に効くとのことで武官らは持ち歩くことが多いそうだ。
「こんなこともあろうかと持ってきて正解だったな」
「ありがとうございます。でも、わたしより先ほどの宮女に」
しかし蒼霄は差し出した冷雫葉を引っ込めようとはしなかった。むしろ眉根をよせ、怒っているようでもある。
「そんな時まで他人を優先するのか。お前のがひどく腫れているだろうに。あの宮女には後で届けさせるから、まずは自分が使え」
「ですが……」
「いいから受け取れ」
痺れを切らしたらしい蒼霄は、無理矢理に月娥の手を掴むとそこに冷雫葉をのせた。
ここまでされてしまえば月娥も逃げられない。冷雫葉を頬に当てる。水に浸した葉が少しずつ冷えていくのを確かめていると、蒼霄がため息まじりに呟いた。
「お前は不思議だ。そのような仕打ちを受けながらも『平気』『慣れている』と強がる。そのくせ他人が虐げられることを見過ごせず、宮女をかばったり、村人の窮状に胸を痛めたりする」
蒼霄の指先がこちらに伸びる。頬の腫れを確かめるのだろうかと身構えていたが、その指先は月娥の前髪に向かっていった。一束、するりとすくい上げる。
「金子や宝玉、どれだけ煌びやかなものを集めても敵わない美しいものがあると思うのだがな」
「……この印が美しい、ですか?」
月娥が首を傾げた。汚いと蔑まれてきた自分にそのような美しいものがあるとなれば、公兎龍から与えられた印しか思いつかない。蒼霄が月娥の前髪をかきあげたから尚更、印のことだと思ってしまった。
これに蒼霄は堪えきれず、吹きだして笑った。
「お前、どういう思考をしている」
「わたしに、そのような美しいものがあるとは思わなかったので」
蒼霄はまだ笑いが止まらぬようだった。手で口元を隠してはいるが、ふるふると震えている。しばしの間をかけて落ち着いたところで、彼は月娥の肩を優しく叩いた。
「心の話をしている。お前の心はこの後宮にいる何者よりも美しいと思っただけだ」
その言葉を残して去っていく。月娥は、蒼霄の言葉を反芻するのに忙しく、その背をぼんやりと眺めるだけだった。頬が熱い気がするが痛みはなぜか消えている。冷雫葉を当てることもすっかり頭から抜け落ちていた。
***
「碧縁国が動いている。戦がはじまるかもしれないな」
麗陽の依頼で陸蒼霄の元に文を届けに行った月娥は、その話を聞いた。
確かにここ最近の宮城は騒がしく、都や村では臨時募兵の令を出したことは耳にしていた。それがまさか戦とは。
「碧縁国と黄涼国は休戦の協定を結んでいたはずでは」
「協定など口約束にすぎん。碧縁国は、黄涼国からの支払いが滞っていることを理由に掲げたようだ。両国は宝玉の交易を行っていたが、どうも黄涼側が金子の支払いを渋ったらしい」
「……宝玉、ですか」
碧縁国はその領内に鉱山がある。この山からは良い宝玉がとれると言われ、他国との交易によく用いられる。小国であった碧縁国が花堯五国戦乱に名乗りをあげたのは、資源の豊富さによるところだ。
月娥の表情は曇る。戦はきらいだ。都から離れた貧しい村はその影響が大きく出る。特に国境近くはひどいことになるだろう。
「しかし本当に、黄涼からの支払いが滞っているのでしょうか?」
月娥にとって気にかかるのは黄涼国の財政状況だ。黄涼王は相も変わらず麗陽を寵愛してし、その贈り物は月兎宮に収まりきらずついに宝殿を構えるほどとなった。それほど麗陽に尽くしているのだから、黄涼王が支払わぬわけはないと考えたのだ。
しかし蒼霄は首を横に振る。彼もまた戦を快く思わず、苛立っている様子だった。
「黄涼国は宝玉の質だ数だと難癖をつけて支払いから逃れようとしているが、無い袖は振れないのが事実だろう。俺も調べたが、黄涼の財政状況はあまりよくない」
「そんな……」
この国は腐っている。黄涼王と麗陽によって後宮は腐敗し、その影響はみるみる広がっているのだ。
さらに事態は悪化していく。蒼霄の話を聞いた翌日のことだ。
月娥は本殿に向かっていた。本殿とは黄涼王の住まいであり、内廷の中心である。黄涼王は毎日のように麗陽に文を送っていて、麗陽もまた嫌々ながらも寵を得るためそれに返事を送っている。その文を届けるべく本殿に向かっていたのだ。
本殿の門をくぐろうとした時である。
「ならん! 陛下がそのような話を聞き入れると思ったか」
怒声が聞こえた。それから何かで叩くような、甲高い音も。好奇心が急いて、月娥はそろりと覗きこむ。どうやら本殿の庭で誰かが言い争っているらしい。
そこにいたのは蒼霄だった。傍に上級を示す藍鼠色の盤領袍を着た官吏がいて、地に膝をついた蒼霄を見下ろしている。
蒼霄は強く土を握りしめた後、顔をあげる。
「ですから! この流行病に対策を取らなければ、黄涼の村は滅んでしまいます!」
「小さな村程度、放っておけばいいだろう。黄涼にはいくつもの村がある、代わりはいくつだってあるとも」
「この村は、今年は凶作といえ、例年は麦の産地として名の知れた村でした。そしてこの流行病は放っておけばいずれ都まで襲うでしょう。都のためにも対処しなければなりません」
月娥は柱の陰に隠れながらその会話を聞いていた。流行病や凶作といった不穏な言葉に心が急く。いままでは流行病が発生すれば、県令が報告し、宮城が対策にあたった。凶作についても徴税軽減や免除など、民を思っての行動を取っていたはずである。
しかし官吏は苦しそうに顔をしかめるだけで、上奏文を手に取ろうとしなかった。
「……私だって、わかっている」
苦虫を噛み潰したように、官吏が言った。
「陸蒼霄だけではない。他の者だってこの件を陛下の耳に入れようとした。しかし……」
「……陛下は聞き入れてくださらなかったのですね」
蒼霄が問うと、官吏が頷く。この官吏も国のことを思っている。蒼霄の上奏文を届けたい気持ちはあるのだろう。
「徴税は増す一方。今年はどの村も凶作に苦しみ、そして流行病……皆どうすべきかわかっているのだ。だが、陛下はそれをなさらない。するほどの余裕がないのだろう」
月娥は息を呑んだ。それほどにこの国は貧しいのだ。年々徴税を増したところで、国力は消耗していく。蓄えられているはずの財は、尽きようとしている。
「正直なところ、募兵も見込んでいるほどの数がない。どの村も人を出す余裕がないのだろう。このまま集まらなければ、強制徴兵するしかない」
「そんなことをしてしまえば民は……」
官吏、そして蒼霄が項垂れている。柱の影に隠れる月娥もまた、同じように愕然とした気持ちを抱いていた。
(わたしが、麗陽を止めなければ)
この国を救うためには、贅沢に溺れている麗陽を止めなければならない。本殿を出た月娥は月兎宮に向かった。
麗陽は月兎宮の裏手にある庭園にいた。天気がよいので気に入りの宮女らを連れて出たのだろう。最近特に気に入っている鞦韆に乗っていた。この鞦韆も黄涼王に賜ったものだ。座面に玉や石を埋め込み、持ち手も刺繍を施し、目眩がするほど豪華である。
「麗陽様」
月娥は麗陽の近くに向かい、拝礼する。麗陽は鞦韆遊びが楽しいようで降りる気がなかった。それでも月娥は口を開く。
「黄涼国は苦しい状況にあります。これ以上、贅沢をするのは止めてください」
「……はあ?」
麗陽の眉がぴくりと動いた。突然、麗陽の豪遊を月娥が諫めようとしているのだ。その機嫌は一気に悪くなる。
麗陽は手をあげた。そばにいた宮女が慌てて鞦韆を止めると、麗陽は月娥に寄っていく。
「あんた、誰に言ってるかわかってる?」
「わかっております。ですが麗陽様を止めなければ、この国は衰退していく一方でしょう。ですから――」
瞬間、その手が振り下ろされる。いつものように月娥の頬を叩いたのだ。麗陽は怒りに顔を真っ赤にしている。
「何がこの国よ。<わたしは公兎妃>よ。わたしが何をしたって構わないでしょう。民の疲弊だって知っているけれど、わたしに関係ないわ」
首の裏がぴりと痛む。けれどこの国を思う気持ちに嘘の気配は感じ取れなかった。嘘だとわかるのは麗陽が公兎妃と名乗った時だけである。
(麗陽は心から、この国を想っていない……ひどすぎる)
そのことを知って歯がみする。再び諫言するため勇気を出して口を開こうとした時だった。
「おお、公兎妃。今日もお前は美しいのう」
庭園に現れるは黄涼王らの集団だった。黄涼王は麗陽に会いにきたのだろう。輿を降りてこちらにやってくる。
麗陽は嫌そうに顔をゆがめたが、一瞬にして笑顔を繕い、黄涼王の元に駆けていく。
「陛下。ここでお会いできるなんて奇遇ですわ」
先ほどまで月娥に向けていた鬼の形相は消え、甘えたような猫撫で声である。麗陽は黄涼王にすり寄ると、その腕に絡みついて身を押し当てた。心なしか黄涼王の頬は紅潮する。
「この間お願いした碧縁水晶ってまだです? わたし、早く碧縁水晶を見てみたいわ。碧縁国の皇子のように美しいって聞いていますの」
「ははっ、もうしばし待つがよい」
麗陽は周りを気にせず、どれだけ黄涼王にねだってもよいのだと思いこんでいるのだろう。
碧縁水晶とは碧縁国の名産品であり、稀少な宝石だ。これと並んで、碧縁国の皇子も美しいと噂されており、碧縁国は水晶と皇子ふたつの美しさを持つと語られている。
露骨に媚を売る麗陽に辟易していると、黄涼王がこちらを向いた。月娥は慌ててその場に屈む。
「この宮女は?」
「わたしに物申してくる生意気な宮女です。わたしのせいで民が疲弊しているって言うのよ」
それを聞いた黄涼王は笑った。不安げな顔をした麗陽の肩を優しく撫でる。
「なに、案ずることはない。<碧縁国との仲は変わらぬ>。それに<民は貧しい暮らしなどしていない>のだからな。公兎妃は何も考えなくてよいのだ」
痛む。
首の裏がひりひりと痛む。
月娥は眼前の光景と、その人物の口から綴られるものに愕然としていた。嘘を報せる首裏の痛みだけが現実であることを示している。
(黄涼王は嘘の自覚を持って語っている。つまり、民がどのような暮らしをしているのかも知っているし、碧縁国との情勢だって把握している)
この痛みは、語った本人が自覚している嘘に反応する。つまり黄涼王はこれが嘘であるとわかっているのだ。この国の困窮を知りながらもなお、麗陽のために高価なものを手に入れようとしている。
月娥は知らぬうちに手を強く握りしめていたようで、爪が肌に食い込んでいる。それでも黄涼王が吐いた嘘の痛みより優しかった。
「陛下。わたし、碧縁国に行ってみたいわ」
「ほう。なぜお前が碧縁に」
「噂の碧縁国皇子を一度で良いから見てみたいの。宮城で最も美しいのは陸蒼霄と聞くけれど、碧縁の皇子はもっと美しいのでしょう?」
「ならんならん。蝶のように美しい公兎妃がそちらに飛んでいってしまっては困るからな」
「まあ陛下ったら。わたしには陛下だけだと、いつになったらわかってくださるのかしら」
甘ったるい会話が耳をつんざく。ふたりはこのまま庭園を散歩するらしい。地に膝をついた月娥を残して、黄涼王と麗陽そしてそれぞれに付いていた者たちも去っていく。
(このままじゃ……この国はだめだ……)
その姿が視界から消えても月娥はまだ立ち上がれなかった。
そこへ現れたのが陸蒼霄だった。お付きの者はいない。どうやらひとりで来ていたらしい。
「立てるか?」
蒼霄の手を借りて月娥は立ち上がる。目眩がする。先ほどの黄涼王の言動は月娥にとって衝撃だったのである。首裏を押さえていると蒼霄が言った。
「先ほどの会話に、嘘があったんだな」
「……はい。麗陽も、そして黄涼王も嘘をついていました」
「嘘を見抜くお前の慧眼は素晴らしいな。俺にもわけてほしいぐらいだ」
おそらく蒼霄は、先ほどの会話を盗み聞いていたのだろう。呆れるように言い捨てた後、月娥の顔を覗きこむ。蒼霄の美しい顔立ちを正面から見つめ返す。彼の瞳にもまた、月娥が映り込んでいた。
「公兎妃に諫言する勇気には驚いた。無策、無鉄砲とも言い換えられるがな」
「麗陽は……姉ですから」
「だがお前にひどい扱いをしてきただろう。あれはお前を妹などと、ちっとも思ってやいない」
「……とうにわかっています」
姉だからという信頼はない。けれど、止められる可能性があるのは血をわけた妹である月娥だけと思ったのだ。それはあっさりと裏切られ、聞き入れられなかったが。
癖のように俯こうととした月娥を、蒼霄の指が止めた。ぐいと顎を持ち上げられる。
「お前に俯いた姿など似合わん」
蒼霄の指先が顔をのぼっていく。顎から頬、そして目尻に触れる。どうやら目尻に泥がついていたらしくそれを拭ったようだ。無骨な指先にしては優しい触れ方だった。冷雫葉を渡す時と似た、慈しみを感じる。
「お前は間違っていない。誇らしく前を向いて、花のように咲くべきだ」
「ですが、わたしには痣がありますから」
「外ばかりを見て、己の内にあるものを偽るようではお前も愚かだ」
泥は既に拭い終えたと思う。だが蒼霄の指先は頬に添えられたまま引こうとしない。
改めて蒼霄を見やれば、ふたりの距離の近さを再認識する。鼓動が急いて、心臓が跳ねているようだった。そのまま外へ飛び出し、心音が蒼霄に聞こえてしまうのではないかと恥ずかしくなる。
なぜか、心のうちがふつふつと温かい。その双眸に映し出されることへの恥じらいも生じた。それは蒼霄の容姿が美しいことや距離の近さではない。月娥もまた、蒼霄の心が美しいことをよく知っている。村の様子を眺めていた時の苦しそうな顔は、月娥が抱く国や民への想いと似ているのだ。
「お前は美しい心を持っている。例えお前が公兎の娘でなかったとしても、嘘を見抜く慧眼を持っていなかったとしても、俺は手を差し伸べていただろう」
ふ、と小さく笑った。見れば蒼霄の頬も、普段より赤らんでいる気がする。それを誤魔化すように蒼霄は手を離し、真剣な面持ちに切り替えて告げた。
「俺は、お前が前を向くように手を添えることしかできん。物事を動かすにはお前の力がいる」
「公兎鏡を探せば……この国は変わりますか?」
「黄涼だけではなく、花堯の地をも救うのが公兎の娘だ。お前が選ばれたのだから立ち上がるしかない。前を向いて、この世を見極めろ。自信がないのなら俺がそばにいてやる」
そう告げて、蒼霄は足を動かした。離れていく姿に月娥は問う。
「わたしが鏡を見つけ物事が動き出したら……蒼霄は、どうなりますか」
すると蒼霄は振り返った。慈しむような、けれど諦めた面持ちで呟く。
「慧眼の娘に選ばれるよう、努力をするだけだ」
蒼霄が去って行く。その背を見送りながら、月娥はある決意を胸にした。
(鏡を探そう。わたしはこの国だけでなく、花堯に住むすべての人たちを守りたい)
守りたいのは黄涼国だけではない。花堯の地にある五つの国、花堯の地に住む民。すべて。不幸の中にいる人たちを救いたいと強く思った。
公兎鏡を知るは、月兎宮の主である公兎妃と公兎龍に仕える占師たちである。だが麗陽に聞いたところで立場を偽るために口を閉ざすだろう。
月娥は占師の元に向かった。
外廷の外れに公兎を祀った堂がある。占師らは月娥を快く迎え入れ、占師長である白髪の老宦官の前へと案内してくれた。部屋には公兎龍の像や祭壇がある。月娥は公兎龍の像に拝礼した後、占師長にも拝礼した。
「月兎宮から参りました。燕月娥と申します」
「ほう。あの月兎宮からとな」
占師らは何度も公兎妃への謁見を申し入れていた。彼らは、公兎妃の真偽を確かめる儀を執り行うべきだと主張していたが、それは黄涼王に遮られ、さらには公兎妃からも疎まれてしまったのである。ここで月兎宮の宮女である月娥がきたのだから占師らは驚いている。
「さて月娥殿、何用でここへ?」
「事情は明かせませんが、公兎鏡を探しています」
老いた占師長の白眉がぴくりと跳ねた。彼はあごひげを撫でながら月娥をじいと見る。
「……それは公兎妃に命じられてですかな?」
「いえ。公兎妃ではなく、わたしが探しています。公兎鏡は真実を映すと聞きました。それがあれば偽りを曝くことができるのでしょう」
月娥の返答に部屋の隅にいた占師が息を呑んだ。占師長は変わらず、月娥を見定めているようだった。月兎宮からきた月娥をどこまで信用してよいものか、判断に悩んでいるのだろう。
互いに無言が続く。その時、額の印がきんと熱くなった。額を押さえようとするよりも早く、風が吹く。ここは部屋の中だというのに、公兎龍の像から一陣の風が駆け抜けた。
月娥の前髪が揺れる。その風に前髪が揺らされたほんの一瞬を、占師長の瞳は見逃さなかった。驚きに目を丸くした後、手をあげる。部屋の隅にいる占師を呼んだのだ。
「……持ってきてもらえるか」
占師は動揺を隠しきれない様子だったが、占師長の落ち着いた振る舞いを信じたのか一礼した後、部屋を出て行った。
その足音が消えてから占師長は口を開く。
「燕月娥殿でしたな」
「はい」
「我々は……この黄涼国が衰退していくのだろうと考えております」
先ほどよりも穏やかな、しかし覚悟を決めたような声音だった。
「黄涼王は変わられてしまった。公兎の娘の真偽を問わずにあれを公兎妃に認め、国を傾かせている。このような軽視が続けば、いずれ審判が下るでしょう。公兎龍は花堯を守るもの、花堯の民を苦しめる者を見逃しはしない」
占師長はそう言って、柔らかに目を細めた。月娥を見据えて微笑んでいる。
公兎伝承を調べ上げた占師たちは、月娥の額にある印がどんな意味を持つのかわかっている。占師長は真の公兎の娘が誰であるかに気づいたのだ。
木箱を持った占師が戻ってきた。占師長はそれを受け取ると、月娥の前で蓋を開く。
入っていたのは片手に収まるぐらいの大きさをした、丸い鏡だった。持ち手や装飾などは施されていない。磨き上げられて曇りのない鏡である。
「あの公兎妃に渡してはならぬと隠しておりました。これをどうぞ」
「ありがとうございます。お借りします」
「いえ、これはあなたのものですよ。燕月娥殿――いずれその呼び名も変わる時がくるのでしょうが」
そして占師長は立ち上がり、月娥の前で膝をついた。
「月娥殿。どうか、その慧眼にて、花堯の民をお守りください」
額の印が痛む。けれど首の裏に痛みは走らないことから、占師長の心のままを述べている。国のことだけでなく、花堯の民すべてを案じているのだ。
月娥は木箱を抱きかかえると、拝礼した。占師長、そして公兎龍の像に。
(虐げられるばかりの人生だと思っていたけれど――)
公兎鏡の収まった木箱はずしりと重たい。しかし温かく、力強い何かを秘めているようだった。
(わたしは花堯の民を救いたい)
決意を灯した木箱を手に、堂を出る。
月娥はうつむいてはいなかった。蒼霄に手を添えられていた時と同じように、前を向いている。
月娥は麗陽に呼び出された。何でも蒼霄宛の文があるという。文には蒼霄に会いたい等の想いを綴られているのだろう。
「ここにわたしほど美しい者はいないけれど、蒼霄の目に留まってしまったら大変だから、あんたが適任よ」
開いた扇で口元を隠してはいるが、麗陽は月娥を小馬鹿にして嗤っていた。痣持ちであればその目に留まることはないと考えて月娥を選んだらしい。
「わかりました。届けて参ります」
しかしこれは月娥にとって好都合でもあった。公兎鏡が見つかったことを蒼霄に報告できる。
陽は沈み、辺りが暗くなっていく。文を収めた箱と公兎鏡の木箱を布で包んで抱えると、手燭を下げて月兎宮を出る。
今日の蒼霄は外廷にいた。内廷と外廷を切り分ける大門をくぐった後、精鋭兵団に割り当てられた部屋に向かう。
「失礼します」
陽が沈んだこともあってか、部屋には数名しかいなかった。その中に蒼霄もいる。
「月娥か。どうした」
「公兎妃からの文をお持ちしました。それと、少しお話が」
「わかった――少し出てくる。お前たちはここにいてくれ」
意図を読み取ったらしい蒼霄は、部下に待機を命じて立ち上がる。部屋にいるのはよく蒼霄と共にいる部下たちだ。月娥のことをどこまで知っているのかは定かではないが、数名は月娥を見やり深々と頭を下げた。
(地図……碧縁国との戦争が近いんだ……)
几には地図が広げられていた。ざっくりと筆を走らせて描いた地形は黄涼国と碧縁国の国境を示しているのだろう。そこに朱や蒼で塗られた木製の駒が並べられている。どのような布陣で迎え撃つか話し合っていたのかもしれない。
蒼霄の後に続いて部屋を出る。どうやら人気のない、外廷の外れまで向かうようだ。その途中で蒼霄は言った。
「あれは俺の部下でな、精鋭兵団でも特に優秀なやつらだ」
部屋に残してきた者たちのことだろう。蒼霄は彼らに全幅の信頼を寄せているようだ。
しかし蒼霄はにたりと笑みを浮かべて、振り返る。月娥の反応を確かめながら揶揄うように告げた。
「だからあれも<黄涼王に仕える者だ>」
ずきりと、首の裏が痛む。蒼霄が嘘を吐いたのだ。
月娥が咄嗟に首裏を手で押さえたその反応から、嘘だと認識したことを確かめたのだろう。蒼霄は愉快そうに口元を緩める。
「ははっ、さすがだな。それほど良い反応をするのならあえて嘘を吐きたくなる」
「……悪趣味です」
「いいだろう。お前にそうやって睨まれるのも愉快だ」
痛みに耐えながら蒼霄を睨むが、本人には響いていない。変わらずニタニタと笑みを浮かべているだけだ。
(でも、俺の部下という言葉は偽りではなかった。<黄涼王に仕える>という言葉だけが嘘――ということは)
そもそも蒼霄は不思議な点が多い。出会った時から彼の発言に嘘が含まれていた。<黄涼王に仕える武官>でありながら、しかしそれは嘘である。忠誠を誓っているようで実は違うのかもしれない。
(では誰に忠誠を誓っているのだろう)
再び歩き出した蒼霄についていきながらも、胸中は不安が渦巻く。名前でさえ偽りであった蒼霄を信じて良いのだろうか。
(でも、民を思って苦しそうな顔をしていた。それは真実)
馬で連れて行ってもらった時の、あの時の蒼霄の表情は紛れもない真実であると思った。
月娥はもう一度蒼霄の背を見やる。偽りがあるとしても、あのような表情をした彼を信じたい。
あたりに人の気配がなくなってから蒼霄は足を止めた。
「それで、用とは」
公兎妃の文は蒼霄にとって、頭に留め置くほどの案件ではないのだろう。彼は月娥の荷物をちらりと見やっていた。
「鏡を見つけました」
「なるほど――頑張ったな」
蒼霄は柔らかに微笑み、月娥の頭を撫でた。公兎鏡を見せようと持ってきたのだが、取り出す前に蒼霄が制した。
「その鏡は、お前が持っているといい。いずれ使う時がくる」
まるで未来を予見するような物言いである。月娥は首を傾げた。
「……どういうことですか」
「いずれわかる。それを使わざるを得ない状況を、必ず俺が作る」
言葉に偽りはない。蒼霄は穏やかなまなざしを向けていたが、瞳の奥には確かな決意があった。頭を撫でていた手は月娥の肩に落ちる。その手は温かく、信じて欲しいと告げているようでもあった。
「一時、俺は姿を隠す。だが必ずお前を迎えにくる」
「姿を隠すって……碧縁国との戦が迫っているこの時にどうして」
「だからこそだ。多くは語らぬ。だが俺を信じてくれ」
蒼霄はその場に膝をついた。月娥を見上げる。
あたりはすっかり陽が落ち、暗くなっている。ふたりを照らすのはまもなく満ちるであろう月の明かりだけ。
「月娥――なるほど、月から落ちてきた神のような名だ。月に住まうと聞く公兎龍のような名でもある」
彼の瞳に映るは月娥と、その後方でぽかりと浮かぶ月だ。それを見据えて微笑んだ後、彼は月娥の手を取る。
「本物の、公兎の娘。花堯の地を思う心優しいお前を埋もれさせやしない。必ず、この地にお前が本物であると認めさせる。お前以外が公兎の娘だったなら、きっとここまでしなかった。お前だからこそ、必ず俺が迎えにくる」
月娥の手に柔らかなものが触れた。忠誠を誓うように手の甲に口づけを落としたのだ。皮膚に蒼霄の吐息がかかり、唇の感触が焼け付いている。月娥は一瞬にして顔を赤らめたが、それはこの暗さが隠してくれた。
「次に会う時、俺の真の名を明かそう。その時、お前が俺の名を呼んでくれると信じている。だから――俺を待っていろ」
風に揺れる葉の音も、遠くの喧騒も、すべて聞こえない。急いた心音と蒼霄の声だけが鼓膜をくすぐっている。
まもなくして、陸蒼霄と彼の部下たちは黄涼国から姿を消した。
黄涼王は彼らの捜索を行おうとしたが、それは叶わなかった。国境に構えていた碧縁軍は動き出し、戦いの火蓋が切られてしまったのである。
陸蒼霄の行方は知れぬまま。
***